帰れないふたり
二人で溺れた夜の海
──十年前
何故、どうして、こんなことに。目を閉じて開けたら、すべてが夢だったとか、太ももを抓ったら痛みで目が覚めるとか。期待してやったことはまるで意味がなくて、わたしの前にはどうにも逃げられない今≠ェ立ちはだかっている。窓を叩くするどい雨も家を揺らす風も、足先からうつる温度も、いやにはっきりしていて、どこまでも現実味を帯びていた。
▽▽▽
夜に雨が降るらしい、という天気予報に従って、福沢さんに携帯用の傘を手渡す。今日は全国的に悪天候らしい。今は晴れているけれど、ひどい嵐になるらしかった。きちんと窓を閉めておかなくちゃ、と思うと同時に、福沢さんの出張が急に心配になる。
「なんだか心配です。気をつけてくださいね」
玄関の一段高いところにいるぶん、いつもより身長差が縮まっている。福沢さんの瞳の銀色がふっと緩んで、けれど口元はまっすぐなまま、頭に手が乗せられる。数回ぽんぽん、と撫でつけられて、すっかり照れてしまった。俯いているわたしをよそに、横の乱歩が「早く帰ってきてね!」と元気に声を上げている。
戸が閉まるぎりぎりまで二人で手を振って、どちらからともなく居間へ歩き出す。会話はない。年季の入った木の床を歩く音、それから庭の方に居るのであろう小鳥のさえずりが、やけに鮮明に聞こえた。さっきまではまったく感じなかった緊張が、足先から這い上がってくる。二日もふたりきりで過ごすのは、これが初めてだ。
「な、なんか緊張するね」
気が付けば正座していて、そのことに自分で驚く。普段から真面目に過ごしているつもりではあるけれど、正座をするのはご飯の時くらいだ。それとなく足を崩して、頬杖をついた。乱歩はというと、座布団を折りたたんでその上に寝転がっている。
「何が?」
「こんなにふたりきりなの、初めてじゃん」
「それがどうしたって言うの。普通に過ごせばいいだけじゃないか」
乱歩がのそのそと起き上がって、わたしのほうを見つめてくる。ゆるく開かれたみどりのひとみは、今日も美しく澄んでいた。
「そうだけどさ。喧嘩とかしたくないし。二日間、よろしくお願いします」大人がするみたいに、恭しく頭を下げてみる。会社員みたいだ。
「変なの、……まあ、よろしく」テーブルに肘をついてふてぶてしく言う乱歩は、どこかの社長みたい。わたしが笑いだすとそれが合図みたいに、乱歩も合わせて声を立てた。
▽
すっかり日が落ちたはずなのに、空はまだ水色と紫色が混ざったような色をしていた。雨といえばグレーの雲だけど、嵐の日はかえって明るかったりするから、その予兆なのかしら。
夜ご飯の下準備を済ませて、お風呂の水を確認しに行く。福沢さんには内緒だけど、夜ご飯は本当に簡単なものだけしか用意していない。ほんのちょっとのサラダとか爪楊枝ひとつで食べられるたこさんウィンナーとか。今日はふたりでお菓子パーティをするのだと、少し前から決めていた。ご飯をちゃんと食べず、しかも夜にお菓子なんて、なんだか悪いことをしているみたい。罪悪感もあるけれど、子どもらしい悪さ、を乱歩と共有するのはわくわくした。
「乱歩、お風呂湧いたよ」
居間で新聞を眺める乱歩に声を掛けて、横に腰を下ろす。彼は世論を知るために新聞を読むようなタイプではないから、きっと新しい事件が無いか探していたのだろう。
「何かあった?」
「なにも。つまんないね」
何も無いのはいい事なのだけれど、名探偵の彼にそれを言ったって仕方がない。なにか事件起きて! とはもちろん思わないけれど、乱歩が楽しそうにしているのは好きだ。誰も死なない密室殺人、誰も傷つかない難事件があればいいのに。いやそんなの、無理か。
「そうだね。でも今日はほら、お菓子パーティでしょう」
世間を揺るがす謎と駄菓子が同じベクトルに位置するのか。なんて少し可笑しくなりながらも、彼が投げ出した新聞紙を畳んでいく。「先にお風呂入っちゃって。わたし準備しとく」
「めんどくさいなあ」
「入る前はそう思うけど、入った後は、お風呂入っておいて良かったなあ、って思うんだから」
まるで風呂を嫌がる息子と母親だ。これを言ったらきっと、「瑠梨亜と母上は全然違う!」って怒られちゃうだろうけど。
しぶしぶ風呂へ向かった乱歩の背中を見て、ふう、とため息をついた。今日の始まりは、どうしてあんなに緊張していたのだろう。
だらだら寝転がって、たまに話して、一緒にご飯を食べて。過ごしてみればなんてことはなく、いつも通りの乱歩とわたしでしかなかった。ひとりきりの居間は不思議な感じがするけれど、明日の夜には福沢さんが帰ってくる。テーブルに頬をつけて、そのまま突っ伏した。急激に、眠気がおそってくる。朝は緊張していたから、疲れたのかもしれない。
「瑠梨亜」ゆるゆると浮上する意識のなかに、乱歩の声がする。直後、髪を梳かされるような心地よい感覚がして、永遠に微睡んでいたくなった。そもそも、これも夢なのかもしれない。乱歩がこんな優しくわたしに触れるなんて、きっと夢──
「ちょっと! 早く起きてってば!」
ふたたび眠りに落ちかけたところで急に肩を揺さぶられて、ぼんやりと目が覚める。数回目をしばたたく。明らかに目の水分が足りていなくって、力を入れないと瞼が落ちてくる。上体を起こすとすぐ隣に乱歩の顔があって、驚きで足をぶつけた。テーブルの下からゴン、と鈍い音がして、指さきから痛みが広がる。
「びっくりした。近い」
「だって寝てたから」
ぜんぜん理由になってない。が、これはいつものこと。彼の自由さには、振り回され慣れてしまった。
「起こしてくれてありがと。お風呂入ってくるね」
「……うん」
伸びをしながら、お風呂場へ向かう。思えばちょっと様子が変だったし、このときの乱歩がどんな顔をしてたのか、ちゃんと見ておけばよかった。なんて、あとから思った。
▽
「一生分のお菓子食べた」
片付けもしないまま、仰向けに寝転がる。こんなの、人生で初めてかもしれない。いつもなら食べ終わってすぐ食器を運んで、洗って、横になるのは布団までたどり着いてからだ。
「こんなので一生分? 少なすぎるね」
乱歩はジュースを一口飲んで、それからわたしの横に寝転ぶ。これもいつもなら福沢さんに注意されるから、できない。
「もうしばらく見たくない。まあ、皿洗いがないのはいいけど」
「確かに」
「確かにって、乱歩は洗ったことないじゃない」別に怒ったり咎めたりする気持ちはないけれど、反射的に言い返す。
「瑠梨亜が洗い物してる間、暇」
「手伝ってくれてもいいよ」言うそばから返答は予測できた。だからこれは、軽口みたいなものだ。
「それは嫌」
「うん。知ってました」
話しているうちにお腹も落ち着いてきて、そうしたらテーブルの上の空容器やパッケージが気になってきた。明日の朝までこの状態でも良いのだけれど、やっぱりそれは許されない。
起き上がってゴミや空のペットボトルをまとめ始めると、視界のはしで黒髪が揺れた。
「え、どういう風の吹き回し」
乱歩が片付けを手伝っている。信じられなくて、軽く二度見してしまった。
「そういう気分なだけ」
「ふふ、えらい」乱歩の頭へ手を伸ばして、何度か撫でてみる。子ども扱いしないでよ、と怒られるのを想像していたのに案外大人しく、長い睫毛を伏せるだけだった。
大方片付けがすんで、ひと息ついた頃。わたしたちは寝室へと移動して、いつも通り布団を二組敷いていた。間はあまり開けない。一緒の部屋で寝ることになった日からもうずっと、そうしているから。照明は常夜灯だけにして、掛けぶとんの上に座る。
福沢さんが居る時も、夜に寝室で話すことはある。けれど、ずっと二人でいたはずの今日も変わらずこうしていることが、自分のことながらすこし意外だった。わたしと乱歩は、決して話題が豊富なわけではない。それでも今日は取り留めのない話が途切れなくて、心地よかった。
しばらく話すうち、つよい風が窓を揺らして、音を立て始めた。ときおり、パチパチと地面をはじくような雨の音も響く。
今日は台風にともなう悪天候、などというわけではなく、ただ単に低気圧の影響で、全国的に大雨の予報が出ているだけだった。このまま嵐になったからといって屋根が吹き飛んだり落雷で家が焼けたりすることは無いとわかっているのだけれど、やっぱり恐ろしいものは恐ろしい。しかも今日は、福沢さんがいないのだ。なにかあったら、わたしが乱歩を守らないと。
決意を固めた直後、間近でフラッシュをたいたような光が部屋を照らす。轟音が辺りを包む。気が付けば、となりに座る乱歩の手を掴んでいた。もう遠くへ落ちたはずの鮮明なひかりがちらついて、まばたきをしても彼の影に星屑が見える。
「さっき散々僕のことを子ども扱いしておいて、自分は雷が怖いわけ」
「……ごめん」雷が怖いというよりかは、家ごと非日常に囲まれた閉塞感や、夜の孤独、それから胃のあたりがやんわりつめたくなるような行き場のない不安、自分がそういうものだけに満たされる感覚がおそろしいのだった。けれどわたしはそれらを明確に言語化するすべを持っていない。察してくれとも思わない。だからただ、謝るしかなかった。「やっぱり怒ってたの」
「別に怒ってない。……もっとこっちきなよ」
ありがとう、囁きに近い礼は二度目の雷に溶ける。また、お腹の辺りがつめたくなる。繋がった手が引き寄せられて、それからぎこちなく抱きしめられた。いつになく距離が近い。座っていても身長差があるから、乱歩の首すじに頭がつくようなかたちになる。
「……なんか今日の乱歩、やさしい」
「何も変わらないよ」
彼に触れている背中から、繋がっている手から、わずかに声の振動がつたわってきた。人さし指と中指にだけ、力を込めてみる。ちょっとの間沈黙がおちて、ひと回り大きな左手が応えてくれる。
雨の音も孤独も、うんと遠いところへいってしまったようだった。
「そうかな。こんな風にしてくれたこと、無かったじゃん」
いまの私たちは、ほんものの兄妹、それかもしくはふたご、みたいなものだと思った。雨のなか寄り添い合うふたご。家族。
「瑠梨亜が」わたしの背に回されたほうの手が、ぎゅっと閉じられる。服のシワがよって、くしゃくしゃになるところを想像した。「僕が何もしなくても平気そうにしてるから」
「……そりゃあわたしは、被害者でも、犯人から逃げ惑う一般人でもないのだし」助けてもらう必要がないもんね、と笑ってみたけれど、彼の表情は緩まなかった。見えないけれど、それはわかった。
「なにもわからない女だったら、どうしようもない莫迦だったらよかった?」ごめんね。ちいさく続ける。こんな夜はきっと、無敵で天才、自分に絶対の自信を持つ彼でもさびしくなったりするものなのだ。
「瑠梨亜がそんなだったら一緒に居ない。福沢さんだって」
「ええ? 福沢さんは、わたしが多少莫迦でも置いてくれるような気がするわ。優しいし」
「僕は無理だ。頼まれても仲良くなんてしない」
わたしはそこで、福沢さんに頼まれて無理やりわたしと仲良くしようとする乱歩を想像する。が、出来ない。分かりきったこと──これは、乱歩の基準で──にいちいち意味を求め、察することも考えることもしない人と居るのは、無理に等しいだろう。それこそ、乱歩が嫌いだった世界の一部だ。
わたしとて、彼の言うことなすこと全て理解できるかと言われれば、難しい。けれどきっとこうなるべくして、いままでも今日も、乱歩の隣にいるのだ。
「そうね。じゃあ今のわたしで、よかったのかな」
「……そうなんじゃない」
声色はどんよりとくらい。自分でもなぜこんなに不機嫌なのか分かっていないような感じ、というか、引っ込みのつかなくなった感じだ。足の位置は定まらないし、手は所在なさげにわたしのいろんなところを行き来するし、そうしているうちに、ばさ、と布団に倒れ込んだ。緩慢な動きだったけれど、わたしも当然、巻き込まれた。
「ふふ、どこも打ってない?」
「うん」
変に畏まったあいさつをした朝みたいに、わたしたちはそろって笑い出す。乱歩越しに薄紫と分厚い雲に支配された空が見えた。それすらなんだか可笑しく見えた。
「そろそろ、大丈夫だと思う。ありがとう」
しばらくして、繋がっていた手をはなす。彼は動かない。わたしの背を抱き寄せる力はつよくなるばかりだった。
もうそんな歳ではないけれど、福沢さんの不在で心細いのかしら、と思って、
「今日は一緒に寝る?」うんと歳の離れた弟に言い聞かせるみたいにして(実際、わたしはひとりっ子だけれど)言ってみる。
「……うん」
そこでようやく、彼はわたしを離す。下に敷いていた布団はほんのり温かくなっていた。
布摺れのざりざりという音だけが部屋に落ちている。それらは雨に紛れない。たたみのすぐ上をたゆたっている。そんな感覚。
ひと組の布団に収まって、向かい合う。シャンプーの香りがふわりと漂った。同じのを使っているから、どちらのものかわからない。
「瑠梨亜」声はいつもの乱歩なのに、目の前にいるのは違うひとみたいだった。視線がかち合った瞬間に、時間も音も止まったような気がした。くちびるの端がきゅっと上がって、切れ長の目は妖しく細められる。この光景だけ見たらきっと、誰もが魅入られるにちがいない。ぞっとするくらいうつくしい笑みだった。
どうしたの。あくまで平常を装う。身体の奥が震えている。けれど、ここで彼に取り込まれてしまったら、そんなの彼の嫌いな世界と同じだ。わたしは絶対に、このうつくしさにも、正しさで周囲を焼き尽くすような聡明さにも、負けてはならぬのだ。彼と等しくいなくてはいけないのだ。
「瑠梨亜」
わたしの問いには答えて貰えず、代わりにもう一度呼ばれる。
「なに?」
「瑠梨亜は僕のこと、」
「好きに決まってるでしょ。突然どうしたの」
ああなんだ、そういうこと、と安心する。顔に出すわけにはいかないから、心のなかでひっそりと。たまにこういうことがある。
わたしに出会う前のことを完全には知らないからただの憶測だけれど、きっと彼の人生は同い年の青年たちと比べれば壮絶なもので、普通の人たち≠竍常識に塗れた世界≠ニ噛み合わない乱歩、を想像するのは容易かった。だからこそ、いままでを振り返ったときにふとこわくなる気持ちは十分理解出来る。わたしだってそうなのだ。本当に、乱歩が福沢さんに会えてよかった。それからわたしがふたりに出会えたのも本当に、よかった。
「もう寝よう。明日にはきっと晴れるわ」
すっかり立場が逆転しているような気がしなくもないけれど、眠ってしまえば明日にはふたりとも元通りだ。そう思って、つとめて明るい声をだした。仰向けになって、天井を見る。ふたたび強いひかりが走って、直後に地響きみたいな低い大きな音がした。
「……おやすみ」静かになるのを待って、ちいさく告げる。ひとつ深呼吸をして、眠気を呼び寄せようと瞼を下ろした。けれど、ま横にいる彼が身体をおこして、近づいてくる気配がする。ざりざり、しずかな音がする。
「寝れない?」
観念して目を開けると、真上に乱歩の顔があって、はっとする。
「うん」
「珍しいね」
足に乱歩の体重が掛かって、ほとんど身動きがとれない。乱歩のほうへ手を伸ばすと、そのまま指先が絡めとられて、まくらの横へ下ろされた。心臓が早鐘を打って、鼻から吸う息は途切れ途切れになる。
「……大丈夫。したいようにしたらいい。わたし、乱歩のこと、嫌いにならないから」
噛み締めるみたいに、ゆっくりと告げた。自らに言い聞かせる呪文のような響きをもっていた。
わたしたちは何も知らない。知らないからこうして無垢な子どもみたいにキスをする。触れる。彼の肌はあつい。わたしはつめたい。ふたりはどこまでも混ざらない。
目を閉じて開けたら、すべてが夢だったとか、太ももを抓ったら痛みで目が覚めるとか。期待してやったことはまるで意味がなくて、わたしの前にはどうにも逃げられない今≠ェ立ちはだかっている。彼の澄んだみどりは灰色に、首から下は闇の底。はねた髪の間に覗く常夜灯は月みたい。布団は境界線で、なにかを諦めた左手首だけが外に放り出されている。右手は乱歩と繋がっていた。窓を叩くするどい雨も家を揺らす風も、足先からうつる温度も、いやにはっきりしていて、どこまでも現実味を帯びている。
▽▽▽
「おかえりなさい!」「……おかえりなさい」
雲ひとつない夜。玄関の福沢さん越しに、濃紺の空へ浮かぶ星々が瞬いている。昨日とは何もかもが違う夜。
すぐに戸が閉まって、澄んだ星空は消えてしまった。乱歩とわたしはひとつずつ荷物を受け取って、ばたばたと居間へ向かう。
「変わりはなかったか」
唾を飲み込む喉の音が、やけに大きく聞こえた。笑顔を作って、振り向く。横の乱歩も同じだった。一瞬ぴたりと動きが止まったのを、わたしは見ていた。
「……特になにも」
「何も無いよ」
共犯のわたしたちはもう、こどもではない。