帰れないふたり





帰れないふたり ─前編


 雨の降る音で、ゆるやかに目が覚める。もうとっくに朝になっているはずなのに、窓の外はどんよりと暗かった。意識が覚醒してくるとともに全身がぞわぞわと粟立つ。ここは夏の始まりでもこんなに冷えるのか、と驚いて、けれど自分の格好を見ればそれは当たり前のことなのだった。一瞬でも環境のせいにしてしまったのが申し訳なくなる。

 ほとんど乱歩の方へ取られている布団を引っ張ってみても、数センチ近づいただけで何も変わらない。仕方なくシーツの間に身体をすべりこませて、彼の肩へ顔を寄せる。素肌の触れ合う感覚にどきりとして、途端に昨夜の記憶が流れ出した。頭を抱えたくなるのを我慢して、もう一度目を瞑る。誰もわたしのことなんか見ていないのに、赤くなっているだろう頬が恥ずかしくて堪らなかった。

 しずかに深呼吸をして、外の雨に意識を集中させる。一定のリズムで地面を叩く音。ばたばたと音を立てて溜まった水が屋根から滴り落ちる音。だんだん湿った土や木々の匂いが思い起こされて、穏やかな気持ちが戻ってくる。

 昨日旅館へ戻ると、朝長さんからメールが入っていた。個人的な連絡はこれきりにするということ、幸せになってほしいということ。いつもより短くて、簡潔な文章だった。夕飯前に返信して、それきり携帯は見ていない。ごめんなさいもありがとうも、本当はもう一度会ってちゃんと伝えたかったけれど、それはわたしの都合だ。これ以上朝長さんに迷惑はかけられない。

  探偵社を辞めない──つまり、朝長さんのいる会社へ転職しない──ことは、社長を通して伝えてもらうつもりだ。これも直接言いに行こうと思っていたけれど、あんなことがあった以上、今日も訪ねるという訳にはいかなかった。たった一ヶ月とはいえど、お世話になった人達へきちんと挨拶出来ないまま離れてしまうのは心苦しい。乱歩と恋人同士になれてしあわせだった昨日の夜とは打って変わって、今のわたしは不安と申し訳なさに占拠されていた。

 乱歩からすこし離れて、まじまじと眺めてみる。寝ているときだからできることだ。普段は恥ずかしくて、こんなふうに見つめることなんて到底無理だし、出来たとしても酔った時とか情事の最中とかそういう、特別な時だけだった。
 艶々とした黒髪が色々な方向へ跳ねて、呼吸に合わせて揺れていた。肌は美容に無頓着な男のひととは思えないほどクリアで、くすみのくの字もない。わたしが必死に化粧水をはたいたりクリームを塗ったり美容液をつけたりしているのが馬鹿らしくなるほどだ。それに、睫毛だって作り物なんじゃないかってくらい長い。すべてが、精巧に作られた人形みたいにみえた。整った鼻筋も薄いくちびるも。

 いつもなら可愛いと思う気持ちだとかいとしさだとかが先行するはずなのに、どうしてか今は違った。かっこいい、と思う。漢字の格好良い、じゃなくて、かっこいい。
 今自分の中に湧いた感情が、世間でいう好きな人へのときめき、みたいなものなのかもしれない。ずっと一緒に居て、好きだということが当たり前のようになっていたから、忘れかけていた。なんだわたし、乱歩のことちゃんと好きなんじゃないか。恋人同士になったあとなのに、そんな変なことを考える。

 彼の顔の良さについては、現場に同行したり周りの人へ話を聞く機会があったりしたとき、度々指摘されることがある。イケメンだよね、とか、顔は格好良いのに、とか。そしてわたしはそれにそうですね、とかはい、とか、ふふふ、とかで返す。全部本心じゃない。だって乱歩の格好良いところは、他に沢山あるから。

「そんなに見られたら寝てられないよ」
 うすく開かれたひとみから、暗くてふかい緑がのぞく。こんなに見ていたらそのうち起きるだろうな、と思っていたから、特に驚きはしない。それに、乱歩が起きたことは、わたしをひどく安心させた。

「ごめん。なんか目さめちゃって」
「それで僕のこと見てたの」
 朝の彼は淡々と静かに話す。大人の男みたいに。ふたりきりのときだけ、昼間とはまるで別人みたいに。
「うん。わたしの恋人はどんなだったかしら、と思って」

 恋人。わたしたちは恋人なのだった。口にして初めて、実感のようなものがわいてくる。それでいて、昨日のことはすべて嘘で、恋人になったことすらわたしの思い違いなのではないか、という気持ちも同時に存在している。親友のような兄妹のような、けれど何の名前も付かない関係のほうが、ずっと馴染み深かった。

「……ふぅん」
 目が合う。空間をあけて横になっているから、距離はそんなに近くない。どこも、触れていない。
「乱歩」一瞬躊躇って、続ける。「寒いから、その」

 抱きしめて欲しい。言い切る前に乱歩の肩がぐっと近付いて、足が絡まる。首の下に腕が通されて、もう片方の手は後頭部へ回される。あっという間にわたしは乱歩の体温に溶かされて、あんなに身近に感じていた雨の音はうんと遠くへいってしまった。鼻から息を吸うたび乱歩の匂いがして、わたしは犬が飼い主に擦り寄るみたいに、純粋に、彼に甘えたくなった。そうして、いまの瞬間だけは、このひとはわたしのものなのだ、と思った。わたしの乱歩。

「なに泣いてんの」

 口調はいつも通りなのに、わたしの髪をなぞる手はどこまでも優しい。泣いてない、と返そうとして、代わりに嗚咽のようなものが洩れる。自分が泣いていることに、言われるまで気づかなかった。
 何とか、「なんでもない」と声を絞り出して、目をしばたたく。涙が止まる気配はない。

 皆と居る時の彼を思わせるあかるい声色で、瑠梨亜、と呼ばれる。それから、
「こっち見て」今度はわたししか聞けない──他に聞ける人なんか居るもんか、というくらい、とくべつで甘い──声がふってくる。
 ゆっくりと彼のほうへ顔を上げた。視線が交わって、身体中が沸騰するみたいにあつくなる。

「乱歩」名前を呼んだら、また雫がこぼれ落ちた。乱歩は、子どものようにしゃくりあげるわたしを見て笑いながら、キスをしてくれる。塩からい、涙の味。朝の弱くてさびしいわたしが、ついに彼に見つかってしまった。幼かった乱歩も、あの夜の乱歩も、この仄暗い不安とゆるい絶望の底から救い出してくれることは無かったのに。

「もう、きっと離れられない」
 満ち足りたしあわせからくる台詞ではなかった。むしろその逆だった。いまだ、彼を縛ることに怯えていた。
「それは僕もだ」
 本当にそうなの、と、間を空けずに問い詰める。突き放すような、そっけない声が出た。
「僕が瑠梨亜に嘘をついたことなんてあった?」
 まぶたを閉じたりあけたりする度、目の際がかっとあつくなって、頬に新しい涙が伝う。「……ない」

 ごく自然に、ぎゅってして、と声が出た。乱歩はつよく抱き締めてくれたあと、指先でするりとわたしの腰を撫でた。びく、とおおげさに肩が跳ねて、ごまかすように肩に顔を埋める。微かな笑い声がきこえて、文句のひとつでも、と身体を離せば、かなしくなるほどなめらかに組み敷かれてしまった。おこっていいのかおどろいていいのかわからなくなる。もうどうでもよかった。

「……一緒に居た方がいいって言っただろ」
 得意げな顔が愛おしくて、無理やり起き上がってキスをした。乱歩がまた笑う。じゃれあいの延長みたいな可愛らしいキスが返ってきて、そのまま布団へ逆戻りする。
 雨音はもうすっかり聞こえなくなっている。



▽▽▽

「忘れ物とか、大丈夫かな」

 随分ギリギリのチェックアウトになってしまった。乱歩のせい、……いや、今朝のはわたしのせいでもある。昨日の夜があんなだったから、今朝は早く起きて準備をするつもりだったのに。
 窓を流れていく山々を見ながら、鞄の中身をひとつずつ思いだす。お昼前の電車は空いていて、話し声もほとんどしない。座席の下で線路をなぞる音だけがやけに大きく、ガタンゴトンと鳴っている。

「さんざん確認してたのにまだ不安なの?してないよ」
「乱歩が言うならしてないのかなあ」

 でも不安だな、と呟いたとき、木々で覆われた窓がわっとひらけて、街があらわれる。山の中から見下ろす街はちいさく、うんと遠い場所に見えた。旅館も川も公園も、朝長さんの居る会社も。夢中になって眺めていたら、繋がった右手がさらにぎゅっと握られる。乱歩の方を見れば、車内パンフレットを読んでいるところだった。わたしを気にしている様子はない。

 たまに、このひとはどこまでわかっているんだろう、と思う。どこまでわかっていて、どんな情報が入ってきていて、どんな世界が見えているんだろう、と。
 きっとわたしが理解しているのは半分に満たないくらい。それでも、ここまでくるのには随分苦労した。わたしは人よりすこし読書家で、何事も考え込むタイプ──気にしい、とよく言われる──だということ以外はどこまでも普通だったから。とにかく本を読んで知識を得て、考えすぎ、といわれることを果てまで突き詰める。出来たことといえばそれくらいだけれど、普通の人間が彼に寄り添える限界にはたどり着いた、と、思いたい。すくなくとも、彼と相容れない──よく馬鹿とか阿呆とか言われている、日頃何の考えも持たない──人達よりかはまだ、幾分かマシなのではないだろうか。……なんて、そんなことはない。性格の悪いことを考えてしまった、と、自分に舌打ちしたくなる。一般人を引き合いに出している時点でわたしの自信のなさは明白だった。

「朝から、僕のこと見すぎじゃない?」
「考えごとしてただけよ」
「ふうん」

 見すぎだと指摘されたばかりなのに、パンフレットを戻すところもついつい目で追ってしまう。悟られたくなくて、乱歩のほうへ頭をもたれてみた。とくに嫌がられる様子はない。

「次は社長と三人で来たいな」

 もちろん、事件とか仕事は関係なく、旅行で。これが世間一般で言うところの、親孝行がしたい、という気持ちなのかしら。
 社を設立してから今まで、三人で旅行することなんて考えもしなかった。それなのにふとこんな気持ちになるのは、乱歩との関係がはっきりして、社長への後ろめたさがなくなったからなのか。悪いことをしているわけではなかったけれど、彼が息子のように思っている乱歩と長い間歪な関係を続けているのは心苦しかった。

「うん。いいんじゃない」喜ぶよ、という乱歩は社長の反応を予測しているのか、すでに声色が明るい。
「ちゃんと報告もしたいし」
「結婚するわけでもないのに報告なんているかなあ」
「そう言われたら、要らないような気もしてきた、けど……。でも、噂で聞くより直接言われた方が良いに決まってるわ」
 わたしたち、福沢さんの子どもみたいなものじゃない。
 呼び方は気をつけていたのに、昔のように福沢さん、と声に出してしまった。乱歩が少し笑う。懐かしい、と思っているのだろう。

「いろいろ心配かけたし」
「そうだねぇ。福沢さん、心配してただろうね。まさか探偵社を辞めて他の会社に転職したいなんて言い出すとは思ってもなかっただろうし」
 しかも僕には内緒で。口調はまだ不満げだった。
「……ごめん」機嫌が悪くなる前に謝ることにする。昨夜と今朝の彼はどこまでも恋人然としていて、過去のことなどすっかり忘れたようだったのに。思い出し笑いならぬ、思い出し腹立ち、だろうか。

「わたし、ひとりで生きていけるタイプだと思ってたんだけどな」
 乱歩のほうへもたれたまま、窓を流れる景色をながめる。海が近づいてくる。行きは反対側に座っていたから、見えなかった。
「ぜんぜん違うね」
「やっぱり。そうだよね」
「いや」窓越しに目が合った。推理を披露するときのような、真剣で得意気で怜悧な眼差しがわたしをとらえる。「僕が居なければ、そういう風に生きていくことも出来たかもね。まあ、もう無理だけど」
「出会う前には戻れないしね」

 木も草も建物も、車窓の外へと消えていく。ガラス一枚隔てた先にあるのではないかと錯覚するほど、空も海も近かった。

「戻れたとしても、また乱歩に、福沢さんに会いたい」
「それは僕もだ。また福沢さんと出会って、それから瑠梨亜を助けてあげるよ」

 自信で満ちた言葉に、真っ黒な学生服と長い防寒外套が脳裏をかすめる。挑戦的なひとみ。纏う空気のとげとげしさ。わたしと福沢さんだけに見せる、純粋無垢な天使のような笑顔。あの夜の、気圧されてしまうほどの色香。

「ねえ。ここで降りない」
「降りるって、ここで?何かあるの」
「ないけど。僕が降りたいんだから付き合ってよ」

 車内アナウンスで流れた地名はかろうじて知っている場所だったけれど、特に降りたことも無ければ有名な土地でもない。あるとすれば、視界いっぱいに広がっている海くらいだ。

「いいよ。横浜以外の海も、たまにはいいかも」

 スケジュールに少しの余裕もないというわけではない。なにせ、世間を揺るがす凶悪事件を解決した後なのだ。それも一日で。責める人がこの世のどこにいるだろう、と見えない敵に謎の言い訳をする。
 こうやってわがままを聞いてしまうのは悪い癖だとよく言われるけれど、多分一生治らないと思う。わたしも、福沢さんも。



   



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