帰れないふたり
切り取り線を探して─後編
「瑠梨亜に何してんの」
たとえ何も見えなくたって、声だけでわかった。かなしくなるくらい、聞きなれた声。ぎゅ、と抱きしめる力が強まる。
「離してよ」
さらに声が近づいて、わたしの肩に乱歩の手がかけられる。
「朝長さん、ごめんなさい」
思わず懇願するような声を上げてしまって、途端に罪悪感に飲まれる。わたしは、朝長さんを悪者にしたいわけじゃない。悪いのは、わたしだ。
すぐに解かれて、ひと一人分の距離が生まれた。ゆっくりと目が合う。痛みに耐えるような、泣きだす寸前の子どものような、そんな表情。綺麗に生え揃ったまつ毛が光をまとって、悲しげに細められていた。
「ごめんなさい」もう一度、心を込めて。深深と頭を下げれば、朝長さんのきっちりアイロンをかけられたスラックスと磨きあげられた革靴が目に入った。
──家事はもちろん分担する。任せ切りになんてしないから。
いいですね、なんてお気楽に返事をしていたあのころ。最悪だ。経験のなさを言い訳にできる年はとうに過ぎている。手のひらに爪がくい込む。
「顔上げてよ。そんなことさせたい訳じゃないんだ」
ごめんなさい──顔を上げた途端、涙がこぼれ落ちる。手の甲で乱暴にぬぐって、前を向いた。わたしはこの人とは生きていけない。泣く資格なんてない。
「乱歩さん、でしたっけ」
ふいに朝長さんがいつもの笑みを浮かべて、乱歩へ話しかけた。身長の高い彼は、どうやっても乱歩を見下す形になる。それでもこの人好きのする笑みによって嫌な感じはしないのだから、すごいと思う。わたしから見れば、だけれど。
「うん、そうだけど」
乱歩は初対面の人にでも一切敬語を使わない。そうする必要がなかった──そうする必要がなくなるように、福沢さんもわたしも探偵社の皆も、周囲に気を使っている──からだ。
「事件は、どうなったんですか」
「もちろん解決したよ! あんなの、わざわざ僕が行くまでもなかったね。おかげで時間が余ったから、瑠梨亜の居場所を推理してここまで来ているってわけさ」
どっちも笑顔なはずなのに、間には火花が散って──月並みな表現だけれど──見える。朝長さんはわかるけれど、少なくとも乱歩はこういうのに熱くなるタイプではないのに。
「でも、帰りは警察の人が送ってくれるって言ってたでしょう。もう宿にいるのかと思ってたわ」
沈黙が重たくて、ふたりの間に割り込む。
「この短時間で、……それに、居場所を推理するっていうのは」
わたしの発言などなかったかのように、朝長さんがいう。こんなこと初めてだ。ひとりごとから相槌まで、聞き逃されたことも無視されたことも無い。
「朝長さ──」
黒に近い焦げ茶色の瞳が、わたしを制すようにこちらへ向けられる。有無を言わさぬ、けれどどこかまだやさしさの篭った視線。はっと息を呑んで、半歩分後退りをする。事態はもうとっくに、わたしと朝長さんだけの話ではなくなっていた。
「さっきから何。僕のこと疑ってる?」
「疑うに決まってますよ。そりゃあ、瑠梨亜ちゃんから話は聞いていますけど」
何言ったの、という無言の圧力をかけられて、誰もいない方向へ目をそらす。それはもう、電車に乗れないとか、家事をしないとか、けれど稀代の名探偵でみんなに信頼されています、とか。最後はともかく前二つは確実に、彼を不機嫌にさせるに十分な情報だったので、黙秘を貫くことにする。
乱歩はハア、とため息をついたあとで、「あの香水を渡したの、君だろ。それに、瑠梨亜が帰ってきてからずっと変だったのも君が原因だ」と続けた。その間もやはり、ふたりの間には目に見えない何かがバチバチとひかっている。
「変って何よ。普通だったじゃない」
「探偵社を辞めるとか、僕と離れるとか、思ってもないこと言い出しただろ。それに、頻繁に携帯を気にするようになった」
「それは、……でも、思ってもない、なんてことないよ。わたしあのときは本当に──」
乱歩のことは諦めて、朝長さんとこの街で一緒に。続きを飲み込んで、ぎゅっと唇を結ぶ。こんなこと、言えない。でも口に出さなくたって、朝長さんには伝わったようだった。
「瑠梨亜ちゃんにとっては過去形、なんだね」
「……はい。すみません」
いいんだ、と朝長さんが微笑む。
「さっき話した時もさ、やっぱり俺じゃダメなんだなって思ったよ。瑠梨亜ちゃんのなかには、乱歩さんしか居ないんだ。……最後に、話せてよかった」
「わたしも、話せてよかった。朝長さんに、会えてよかった」
朝長さんがわたしへ右手を差し出す。これで最後。無理やり口角を上げて、笑顔を作った。それから、差し出された手を取って、ぎゅっと握る。あっけないくらいに短い、最初で最後のあたたかな握手だった。
▽▽▽
朝長さんと別れてすぐ、タクシーに乗った。宿へはバスでも帰れるけれど、本数が少ないから次がいつになるか分からない。
行き先を告げると、ご旅行ですか、と運転手が訊いてくる。とても話をするような気分ではなかったので、はい、とだけ言ってやりすごした。それでも近所の噂とか旅館にまつわるエピソードだとかをとめどなく披露されてしまうものだから、ため息でもつきたい心地だった。一言でいえば辟易していた。
乱歩はといえば、運転手との会話をわたしに丸投げして、物憂げに景色を眺めていた。もっとも、綺麗な顔立ちのせいで物憂げに見える、というだけで、実際彼がなにか思い悩んでいるところなど見たことがないのだけれど。
数センチだけ空いた窓から、涼やかな風が吹き抜けた。横浜は相変わらずの暑さだけれど、この街の午後は寒いくらいだ。延々と続く話に「ええ」とか「はい」とか曖昧な相槌を打っていれば、不意に乱歩がわたしの右手に自分の手を重ねてくる。
「もしかして、おふたりは恋人同士で?」
大人しく世間話に興じるわたしに気を良くしたのか、運転手が馴れ馴れしい声色で質問してきた。馴れ馴れしい、といってもこちらを面白がったり消費するつもりなのではなく、こういう街の色なのだということもわかっている。わたしが今楽しく対応出来る気分ではないというだけで、いつもなら楽しく話していたはずだ。
「そうだよ。瑠梨亜は僕の恋人だ」
そうだったの? 声には出さなかったものの、乱歩のほうを二度見した。彼はこちらに見向きもしない。それでもなんとなく、楽しげなのは伝わってくる。
こんなので嬉しくなってはいけない。会話を打ち切りたくて、適当に言っているだけという可能性はゼロではないのだ。
「はあ、そうでしたか。それはそれは」
なにがそれはそれは、なのかは全くもって不明な、いっそう上機嫌になった運転手の声が車内に響く。さっきと違って、もう不快に思う気持ちは消えていた。
「あのね、乱歩」
代金を払った後、当然のように手を繋がれる。旅館のうつくしい広場は、チェックインの客で混雑していた。
「何。さっきのこと怒ってる?」
「怒ってないけど。わたしには言わないで運転手さんには言うなんてずるいよね」
口論になりそうな気配を感じ取りつつも、不満をぶつけないと気がすまなかった。ワントーン高い声が出て、すれ違う人がそれとなくこちらを窺っているのがわかる。
「瑠梨亜こそ、あの人のこと僕に何も言わなかったじゃないか」おまけにあんなことまでされて。乱歩も乱歩で引き下がる様子はなく──彼が大人しく言い分を聞くタイプでは無いのは百も承知だけれど──、やれやれと分かりやすく呆れたポーズをとる。
「言わなくたってわかるんだからいいじゃない」
「推理するのと直接聞くのは違う」
「それは確かに、そうだけど」
恋人でもない男に報告する必要はあるのか、と問われればきっと、ないと思う、と回答する。けれど、わたしたちは同じ家で暮らしてきた兄妹で、ふたごで、それから仲間なのだった。朝長さんのことを秘密にしていたつもりはないけれど──出張の内容自体が秘密だったから、併せて伏せていただけという認識だった──わたしに隠し事をされたという事実に、乱歩は少なからずショックを受けたにちがいない。「……ごめんね」
数秒の間もおかず、「いいけど」と素っ気ない返事が来る。それからわたしと向かい合うような形になって、
「ハァ、本当仕方ないなあ。一回しか言わないから」
と、少し大きな声で言う。表情も声も、途端に柔らかくなる。
「こ、ここで言うの」流石のわたしでも、だいたい察しがつく。
観光バスから降りてくる人達や旅館の職員の視線が気になって、途端に焦りの気持ちがわいてくる。
「僕と付き合って」
わたしの返事は近くにいた団体の若者たちの、歓声、喝采──とにかく大きな祝福にほとんどかき消されてしまった。やっぱり見られていたのか。こんな大事になるはずでも、注目を集めるつもりもなかったのに。頬に熱が集まって、思わず顔を覆う。
「なにしてんの」
「みんな見てる。恥ずかしい」
こんなこと乱歩に言ったって無駄だ。過去の彼が上演中の舞台にあがって推理を始めたエピソードを思い出す。あのときの福沢さんもこんな気持ちだったかしら。それとも今のわたしのほうが、まだまし?
「ていうか返事、聞こえなかったんだけど」
「わ、わたし、乱歩の恋人になる、から……」
ここまできたらどうにでもなれ、だ。このひとたちだってどうせ、明日には忘れている。
「こっち見て」
言われるがまま、乱歩の方へ顔を上げる。傍から見たら莫迦みたいなカップルにしか見えないだろう。けれど、宝石みたいなひとみに吸い込まれて、どうしても視線を逸らせない。周囲の声も景色もどんどん遠のいていく。乱歩が不意に、いたずらっぽく笑った。恭しさすら感じさせる美しい動作で、わたしの方へ手が添えられて、ゆっくりと唇が重なった。一瞬聞こえなくなっていた辺りの声が一気に耳に流れ込む。若者たちの盛り上がりは、先程の比ではない。
▽▽▽
「今日も、どこか行く?」
昨日の同じ時間に見た、嘘みたいに壮麗な星空を思い出す。お風呂も夕食も済ませてしまった今、目の前の予定は散歩か睡眠の二択となっている。
恋人になったといえど、大きく変わることはないだろう、と思っていた。事実宿に戻ってからの会話もいつもどおり事件の話と夜ご飯の話をしただけであったし、特に気を遣うようなこともない。春の日にうたた寝するようなぬるい幸福感だけが漂っている。
障子に手をかけて、静かにスライドする。昨日と同じく布団が敷かれていて、カーテンのない窓からは月の光がもれていた。パチ、と玄関の電気が消されて、布団の真ん中へ降りる青白いひかりだけが浮いていた。
「いい。どこも行かない」
「そう。とりあえず電気つけてよ。危ないじゃない」
鍵をテーブルへ放って振り返ったとたん、性急に引き寄せられて唇を塞がれる。長いキスに息が続かなくて、乱歩の袖を固く掴んだ。力が抜けていく。背中に腕が回されたまま、腰から布団へすべりおちる。うしろへ押し倒されるような形になって、また長い口付けが降りる。されるがままになっていれば、くちびるの隙間から舌が入り込んだ。乱歩の指が髪を梳く。数回撫でつけられて、いつか見た夢のようだ、と目を瞑る。
「瑠梨亜」日本中から求められる名探偵に、この切なげな声を出させているのはわたしなのだ。体験したことの無いびりびりとした感覚がわたしのつま先から頭までを支配して、何も考えられなくなる。
「好きだ。瑠梨亜はずっと、僕のだ」
「……うん」
もう一度、触れるだけのやさしいキスが落とされる。髪。額。頬。首筋。全部に、乱歩の体温がうつっていく。このまま融ける、と思った。融けて、境界なんてまるで無くなってしまう。わたしのつめたさは乱歩に、乱歩のあつさはわたしに吸収されるのだ。まるで、お互いが身体の一部になったみたいに。