帰れないふたり





切り取り線を探して─前編


 
 瞼のうらがじんわりと明るくなって、嗅ぎなれない匂いに身体じゅうの感覚が起きてくる。足の間に引っかかるシーツ、頬に触れる高めのまくら。時折流れてくる、おどろくほど冷たい空気。きっともうすぐ朝が来る。アラームが鳴ってしまう前にと携帯を手繰り寄せて、力が入らず顔の上に落とす。うに濁点がついたような声が洩れて、たまらず左右に転がった。

「なにしてんの」すぐ近くで乱歩の声がする。けれど落とした箇所があまりにも痛くって、なかなか返答できない。最初におでこに当たって、それから唇。もしかすると切れたかも。

「……顔面に携帯落とした」

 涙が滲んで、目じりにたまる。ゆっくり目を開ければ、わたしを見て無邪気に笑う乱歩が居た。今起きたばかりの顔をしていた。

「赤くなってない?」
「なってるね」温かい手が額に触れる。はだけた浴衣から乱歩の色の白いお腹が見えて、反射的に俯いた。こんなことで照れる間柄ではないのに、昨日朝長さんのことを延々と考えていた後ろめたさや近いうちに起きるであろうこと──幼い過ちと二度目の間違い、の次──を意識してしまうのが相まって、彼の一挙一動に動揺してばかりいる。そういえば、と自らの格好を顧みて、あわてて襟元を合わせた。寝起きの浴衣はきちんと着直した夜の形跡を一切残さず、崩れに崩れていた。

「口は?」ぴりぴりと痛む上唇が見えるように、数センチ上をむく。
「切れてない。大丈夫」

 そう、よかった──言いかける前に、朝とは思えない素早い動きで乱歩の手がわたしの首を捕らえる。毛先の揃わない黒髪がそわそわと輪郭をなぞって、こそばゆい。わたしたちはどちらからともなくそっとキスをした。瞼のうらにひかりのちらつく、爽やかですがすがしくて健康的なキス。お互いがお互いに夢中になりかけて、乱歩の指がわたしの肩を撫でたとき、けたたましいアラームが鳴り響く。ピピピ、よりビビビに近い感じのそれは、無視しようとしても出来ないくらいの騒々しさだった。「……起きよっか」

 ムードが文字通り、音を立てて崩れ去る。わたしたちはそのまま布団を出て、それぞれ朝の準備を始めるのだった。
 

 ▽▽▽
 
 真新しくて肌触りの良い、初夏の匂いがする。空は高く、青々としていた。風はそこまで強くない。朝からこうして日に当たるのは、どこか満ち足りた、正しい感じがしてうれしくなる。 たまにすれ違う、犬を連れた女の人やウォーキングをする老夫婦とちいさな会釈を交わして、さらに気持ちが明るくなった。良い土地と、良い人達。知らない人同士でも挨拶の生じるような街。町、とかいてもいいかもしれない。

 旅館を出てずっと真っ直ぐ行くと、大きな川があらわれる。その橋の下が現場となっていて、今日は朝から大規模な捜査が行われる予定だった。その場を取り仕切る警察官が福沢さんの古い知り合いらしく、今日の同行は不要となっている。帰りも送ってくれるらしく、安心だ。乱歩がなにか失礼なことをしたり言ったりしなければいいが──と思ったけれど、わたしが居たってそれは止められるものでは無い。いつ、誰といても乱歩は乱歩で、その行動や言動に他人が介入することなどできないのだ。

 川とは反対方向へ進んで三回ほど曲がると、わたしの通っていた一ヶ月限定の勤め先がある。道順は昨日確認しておいたから、迷うことはないだろう。なによりここは建物が少ない。見晴らしの良さがずば抜けている。軽やかな足取りで進んでいけば、雪の無くなった──夏なのだから雪などあるわけないのだけれど、わたしの記憶では白のかたまりでしかなかった遊具や砂場が出ているものだから、そう思った──公園が見えた。四分音符もを≠煦齒盾ノ溶けて、土に吸収されているのだ、と思った。わたしが朝長さんに抱いた感情も。
 

 今日はお気に入りのセットアップを着て、いつもと変わらない香水をつけた。彼からの贈り物は、マンションのドレッサーの上に置きっぱなしになっている。メイクはピンク系で統一して、けれど口紅はつややかな赤を選んだ。どこか強い気持ちでいたかった。

 鞄の紐を握り直して、大きく息を吐く。目的地はすぐそこまで迫っていた。みんなに挨拶して、上の人に意志を伝えて、それから朝長さんに会う。きっと、二人で話したいと言われる。数時間後、下手をすれば数十分後には訪れてしまうその瞬間を思うと、キリ、とお臍のあたりが痛んだ。

 おはようございます、と言うべきかお久しぶりです、と言うべきか悩んで、後者を選択する。ドアに手をかけて、仲良くしてくれていた事務の子達の笑顔を想像した。手土産の入った紙袋がガサリと音を立てる。
「お久しぶりで──」 最後に出社した日と何も変わらないオフィスの椅子が、目に飛び込んでくる。けれど、それだけだ。人の姿は見えず、フロア全体が、ありえないほど静まり返っている。
「久しぶり、瑠梨亜ちゃん」そういってただひとり迎えてくれたのは、他の誰でもない朝長さんだった。
 

「他のみんなはイベントで出払っててさ。俺は他社とのプロジェクトに入ってるから、ひとりで留守番。寂しいものだよ」

 屈託のない笑み。スーツを着て立っているだけで誠実さのにじみ出る、世の理想の男性、を絵に書いたような男のひと。朝長さんに勧められたらどんな疑り深い人だって、何でもすんなり契約してしまうだろう。それくらい正直で、安心の香りがする。

「そうなんですね」

 探偵社のそれより大きなチョコレート色のソファへ案内されて、朝長さんの向かいに腰を下ろす。体重をかけた分だけ沈むから、ひっくり返ってしまいそうになる。あわてて手土産をテーブルへおいて、背筋をぴんと伸ばした。その様子を見た朝長さんが、ははと笑う。そんなに緊張しなくてもいいよ。優しい声だった。

「メールでも言ったけれど……あの香水、とっても気に入りました。今日は付けてこられていないけれど、ドレッサーに飾ってます」

 特に聞かれてもないのに罪悪感が募って、気がつけば言い訳じみたことを口走っていた。ホワイトリリー、似合うと思ったから。せん別。そう言って、若い子たちの間で流行しているブランドの紙袋を渡されたあの日。あの日は確かに、彼と居てもいいかも、と思ったのに。それは多分、朝長さんにも伝わっていたのに。

「そっか。香水って好みあるから、ちょっと悩んだけど。皆にいろいろ聞いてさ」

 事務の子に相談する彼を想像するのは、とても容易なことだった。誰に渡すんですか、なんて冷やかされたに違いない。当日わたしへ渡すところも見られていたし、ふたりで歩いている時に社員とすれ違ったりもした。もしわたしがここへ転職することを決めていたら、結婚までの流れはさぞスムーズで、確約されたものになっただろう。

「……今から、時間あるかな」
 真剣な目。今日はやっぱり、決断の日なのだと再確認する。
「はい。でもお仕事は」
「ああ、いいんだ。午後にやれば大丈夫」
 朝長さんは仕事が出来るけれど、午前の分をまるまる午後に回して定時に帰れるほど、彼の仕事量は少なくない。
「それじゃあ朝長さん、大変じゃないですか。わたし手伝います。そのあとで、お話しましょう」
 

 わたしでも出来るような雑用をこなし、朝長さんが午前に予定していた仕事を終えると、時刻は十二時を回っていた。先程水をやった観葉植物の葉がきらきらと輝いて、カーテンが風ではためく。窓から街を見渡せば、数キロ先を大きな川が流れているのが見える。

「もう終わったかなあ」

 しずかな午後の風の匂いを嗅ぎながら、大きく伸びをした。腰がぱきぱきと音を立てるのを聞いて、苦笑してしまう。最近はデスクでの業務より乱歩への付き添いが多かったとはいえ、運動不足なのはいけない。また福沢さんのところへいって、修行でもつけてもらおうかしら、と思う。

「ん、何が?」
「あの川、事件があったでしょう」
 指さして言えば、朝長さんがわたしを覆うように窓枠に手をついて、ぐっと距離が縮まる。一瞬ドキリとして、ちいさく首を振った。こんなので動揺していては、冷静な話し合いなど到底無理だ。
「うん、あったね。若い女の人が亡くなった」
「解決に向かってるんです。乱歩が」
「へえ。でも、明日には帰るんだよね?」

 メールで予め、一日限定の滞在になると伝えてあった。乱歩と一緒だということも。そうしなければ、フェアでない感じがした。

「そうです。でも一日あれば、……下手したらもう終わってるかも」
「もう? それは無いんじゃないかな」
 どうして、と喉元まで出かかって、彼は乱歩のことを何も知らないのだと思い直す。会ったこともないし、名探偵なのだということもわたしの話でしか知らない。いくら真剣に聞いてくれていたとはいえ、実際は半信半疑だろう。
「ふふ、どうでしょう」

 社長から下賜された黒縁の眼鏡をかけて、得意の異能を披露する乱歩を想像する。もちろんそれは異能でもなんでもなくて、彼はただのとんでもない頭脳を持った一般人≠ネのだけれど──。

「今度こそ、出ようか。お昼、ご馳走するよ」
 朝長さんがわたしから離れて、鞄や上着の支度をする。
「いいんですか」乱歩はもうお昼食べたかしら。無意識に自分の中で浮かび上がった疑問を身体の底へ押し込めて、口角を上げる。「ありがとうございます」
 

 滞在中に一度来たことがある、このあたりでは有名な食堂へ入って、ふたりとも日替わりの定食を注文した。
「あの」紙ナプキンとって貰ってもいいですか、と続ける前に、目の前に二枚差し出される。察してくれたこと、それから何も言わずとも二枚とってくれたこと。朝長さんはこういう人だった、と思い出す。今まで出会ってきた男の人たちとは違うベクトルで気が利いて、けれどそれが女慣れしているという印象を与えず、純粋に誰にでもこうするのだと胸を張って言えてしまうくらいの、泣き出したくなるくらいやさしい人。

「ありがとうございます」

 ティッシュ取って、って頼んだ時、どんなに欲しくても二枚目って頼みにくくないですか。確かにそうかも。ですよね、わたしがとってあげる側なら、どんどん頼んで欲しいですけど。俺もそうだな、瑠梨亜ちゃんになら何度頼まれたっていいよ。
 ナプキンを渡す彼の手が触れた瞬間、今まで忘れかけていた会話が鮮明に再生される。もしタイミングが違ったら。出会う順番が違ったら。わたしきっとこの人のこと─────。
 

 会計は、お言葉に甘えてご馳走になった。というか、朝長さんとふたりでご飯を食べたとき、わたしがお金を出したことなど一度もないのだった。何度払おうとしても、次出してくれればいいから、と断られその次の約束に赴けば、また今度会う口実にさせて、とやんわり辞退される。その繰り返し。今日こそは、と思っていたのに、押し切られて出されてしまった。ドアも開けてもらって、まるでお姫様扱いだ。

「すみません、……ありがとう、ございます」

 誰がにご飯をご馳走になった時は、すみません、よりありがとうございます。ここ数年で奢られたり奢ったりするうちに、その方がいいと気がついた。

「いいんだ。またこうして瑠梨亜ちゃんとご飯が食べられて、嬉しいよ」
「わたしも、嬉しいです。朝長さんと居るのは、本当に楽しいから」

 滑り落ちるように本心が出て、こういうところだ、と後悔する。これでは、八方美人もいいところ。

「そんなこと言われたら、期待しちゃうよ」
 朝長さんが、眉を下げて笑う。大きな子犬みたい──大きな子犬、なんて矛盾しているけれど、これが一番似合う表現だと思う──とつられて笑いかけて、ぎゅっとくちびるを結ぶ。
「……ごめんなさい」

 自分の声は、想像より深刻さを伴っていた。沈みかけた空気を打ち消したくて、ちょっと歩きます? と提案する。なぜだか、いつかの公園を思い出した。四分音符とを。シュレピヌ街の人々。
 
 真上にあった太陽がほんのわずかに傾いて、道端の芝生をみずみずしく照らしていた。木の揺れる音、小鳥の鳴き声、ときおりゴオと激しく吹く風。近くを自転車が通り抜ける度、朝長さんはわたしを庇って軽く引き寄せた。会話は途切れ途切れで、どちらが話し出してもあんまり続かない。

「朝長さん前に、なんで空は青いのかって言ってたじゃないですか」
「うん」相槌ひとつとっても、このひとの優しさが滲んでいた。
「あれわたし、本当は知ってたんです」
「ええ、そうなの?」

 はい、と俯く。タイルが敷き詰められた道の脇に、小さな花が咲いていた。

「太陽の光は白。でもその白は赤とか黄色とか青とかの七色で出来ていて、そのなかでも青が一番散乱しやすくて──あたりに広がるから、らしいです」

 昔本で読んで、すぐに乱歩へ伝えたことが蘇る。朝長さんは「そうなんだ」と興味深そうに言って、空を見上げた。サイダーをひっくり返したみたいな空だ。澄んでいて、雲から見える隙間に奥行きがある。

「知ってたのにわたし、緊張しちゃって言えなくて」

 初めて出かけた日の帰りだったはずだ。男の人とふたりで出かけるなんて、任務以外では乱歩と福沢さんと太宰くらいしか経験がなかったわたしは、大いに緊張した。

「意識してくれてた、ってこと?」
「もちろん。朝長さんを意識しない女の人なんて、いないと思います。事務にだってたくさん──」

 ぎゅっと腕を掴まれて、振り返る。背中に手が回されて、視界がグレーになる。朝長さんのスーツの色。さわやかな男物の香水の香りもした。

「朝長さん、わたし」
「少しだけ」頭に添えられた手が震えていて、身動きが取れない。こんなに大切そうに抱きしめられてしまったら、振り解ける人なんていないのではないか。「……瑠梨亜ちゃんが好きだ」

 覚悟はあったはずなのに、実際に聞いてしまうと頭が真っ白になった。男の人に告白されたのなんて初めてだ。思えば乱歩が横に居ない環境で出会った人自体、朝長さんが初めてなのだ。

「わ、わたし、その」
「分かってる。けど今は聞けない。ちょっとだけ、こうさせてほしいだけなんだ」

「でも」わたしは乱歩が好きだから。なんでも聞いてくれたはずの朝長さんが、今は聞けないと言っている。この腕から開放されるとき、わたしたちの関係が同僚に戻るなら、それでも──。


   



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