帰れないふたり





番外編(過去のふたり):はじまりの音は聞かないでおく


 
 一面の雪。といっても豪雪地帯で見られるようなボリュウムのあるものではなくて、レンガの上にうっすら積もっているくらい。それでも十分、わたしたちには特別なイベントだった。もう二月だというのに、珍しいこともあるものだ。異常気象かしら。
 雪合戦、雪だるま、かまくら──ふたりで楽しめるようなことは全部出来そうにないし、こうなったら思いつくのは一つだけ。「散歩行こう、散歩」
「嫌だ。こんな寒いのに何考えてるわけ」

 わたしと同じく外を眺めていた乱歩が即答する。炬燵のなかの足が軽くぶつかって、そのままくっつく。付けたての炬燵は温まるのに時間がかかるから、こうしていたほうが効率的だ。
「いいじゃない。わたしのわがまま、結構珍しいよ」
 はあ、というわかりやすいため息の後、「ひとりでいけばいいじゃないか。ついでにお菓子買ってきてよ」切れ長の目がすっと細められる。
「ひどいなあ。じゃあ行ってくる」
 立ち上がろうとしたわたしの右手をぎゅっと握られて、少しだけ期待する。この一瞬で心変わりした、とか。

「炬燵温まるまでは居て」
「天性のわがままだなあ。座右の銘も納得だよ」
 自分勝手さも突き詰めれば才能だと思う。ちなみに乱歩の座右の銘は『僕が良ければ全て良し!』だ。なんの脈絡もなく、最近決まった。
「じゃああと五分だけ」
 
 
 ちょうど家を出る時に福沢さんが帰ってきた。あわよくば一緒に行ってくれないかしら、と思って誘ってみたけれど、仕事があるらしく断られてしまった。用心棒から探偵補佐へ変わってしまった福沢さんの仕事は前よりずっと、書類を用意したり資料を準備したり、そういった事務的な、家でしなくちゃいけないことが増えていた。本当は乱歩がやるべきなんだろうけれど、楽しくないことはしない性分なのだから仕方がない。僕が良ければ全て良し、聞けば聞くほど納得の座右の銘だった。

「瑠梨亜」福沢さんのきりっとしたオオカミみたいなひとみが、わたしをじっと見つめる。なにか手伝う? と返事をする前に、やや申し訳なさそうな顔で──あんまり表情が変わらない人だから、雰囲気で読み取るしかないのだけれど、最近はほとんどわかるようになってきた──告げられる。「乱歩を連れ出してくれ」
 
 ▽▽
 
 乱歩は福沢さんの言うことはほんとうによく聞くので、文句を言いつつもついてきている。結果としてわたしと福沢さん、双方の願いを叶えることとなった真冬の散歩は、今のところ順調だ。どこもかしこも、コーヒーに入れる砂糖みたいな雪がうすく積もっていて、踏む度にシャリシャリと音を立てるのが面白い。この間買った傘を使えるのも嬉しかった。

「今時期北海道から来た人なんかはさぞかし残念がってるだろうねえ。雪のないところへ来たと思ったら、雪が降ってるなんて」 
 傘の中で、乱歩の声が響く。結構大きな声で言うものだから、辺りにキャリーケースを引いた人がいないか確認してしまった。
「ほんと。こんな時期に旅行してくる人がいるかはわからないけれど、まあ災難だね」

 すっかり冷たくなった手を擦り合わせながら、彼の半分くらいの声量で同意する。最初はわたしが傘をさしていたのだけれど、身長差のせいでなんども頭に当たってしまって、結局乱歩が持ってくれていた。ちなみに、世の良い彼氏≠ンたくこちらへ傾けてくれていたりはしないから、はみ出ないようにわたしから身体を寄せるしかなくって、ちょっとだけはずかしい。

「そろそろ冷たくなってない? 代わろっか」
 柄を持つ乱歩の左手にそっと触れて、驚く。これだけ寒いなか歩き回っているのに、ちっとも熱は失われていなかった。むしろわたしのせいで、体温を奪ってしまいそうなくらいだ。
「余計なお世話だった。傘差してても手が冷えない人っているんだなあ」わたしなんか凍りそうだよ、と笑いかける。一瞬傘が揺れて、雪の解けた雫がぽたぽたと滑り落ちた。右に持ち替えたのね、と思った途端、降ろしかけたわたしの手は乱歩の外套のポケットへしまい込まれて、距離がほとんどゼロになる。

「こんなので緊張するのやめてくれない」
 ポケットのなかで、乱歩の熱がわたしへとうつっていくのがわかる。
「緊張っていうか、ちょっとドキドキしただけ」
「それを緊張っていうんじゃないか」
「ちょっと違う。これは──」
 ときめき、みたいなもの。口に出しかけて、自分で驚いてしまった。言う前に気がついて、良かった。

「これは、何」
「なんでも、ない。ていうかそっちこそ何。女慣れしちゃってさ」
 ハア? と不興気な声が飛ぶ。平仮名じゃなくて、片仮名のハア、だ。そういう発音だった。「女慣れとか訳わかんないんだけど。僕は瑠梨亜に慣れてるだけだよ」
「へえ。それはなんか嬉しい、かも」
 あとから、あれは女として見られていない故の発言なのではないか、と悩むことになるのだけれど、このときのわたしは純粋に嬉しかった。瑠梨亜に慣れてる、ってことは、生活に馴染んでるってことだから。
「……早く行こ」

 散歩なのだから、急がなくたっていいのに。そう言おうと思ったけれど、すぐにやめる。艶やかな黒髪から覗く横顔が、ほんの少しだけ、赤くなっているように見えたから。
「うん」きっと同じく赤くなっている頬を隠すように、傘越しに空を見上げた。一面の雪。ゆるやかな胸の痛みに、わたしはまだ気づかない。


   



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