帰れないふたり





まやかしロマンス


 
 国境の長いトンネルを抜けると雪国──ではなく、ひたすら緑の大自然が広がっていた。見慣れない景色でいっぱいになった窓に、山々のそれとは違う乱歩のひとみのみどりが浮かぶ。鏡になった車窓越しの視線は柔らかなものだったけれど、すぐに逸らしてしまった。明確な名前のない関係を続けて、もう一ヶ月が経っていた。

 座席のポケットに差し込まれている新聞を手に取って、広げる。一面には、『連続殺人事件 三人目の犠牲者』とある。わたしたちが列車に乗って遠路はるばる北へ向かっている理由であり、ここ最近世間を騒がせているいちばん大きなニュースでもあった。依頼があったのは二日前、二人目の犠牲者が出た直後。最初から「面白そう」と目をつけていた乱歩は二つ返事で了承し──人が死んでいるのを面白そう、と言うのは何かと誤解を招きそうだけれど──こうしてふたり、出張へと向かっていた。事件が起こった街は列車でしか行けない場所にあるため、移動だけでほぼ半日かかる。ふたりとも乗り物酔いするタイプじゃなくて本当に良かったと思う。
 
「まだ? そろそろ飽きたんだけど」
 まるで遠距離の移動がわたしのせいであるかのような口ぶりだった。文句があるなら交通の不便さに、いや、人を殺した犯人に言って欲しいものなのに。「終点までだから、あと二駅よ」
「ふぅん」

 許容範囲だったのか、意外にもすんなり引き下がってくれる。読みかけていた新聞に視線を戻して、小さな文字を追っていく。明日の現場──三例目の殺人が起きた川べりにある公園──は以前赴いた出張先の企業と歩いて一〇分ほどの距離にあり、それ故わたしと乱歩は別れて行動する予定だった。わたしは挨拶をしに、乱歩は事件を解決しに、それぞれ旅館から歩いて向かうことになっている。もっとも、こちらの用事はおまけみたいなものだから、歩く距離はわたしのほうがずっと多い。知らない土地での散歩は好きだから大歓迎だ。

 三番目に殺されたのはわたしと歳の近い女性。職業は事務。恋人は無し。昨日の夜、ほとんどわたしと同じじゃないか、と驚いたのが記憶に新しい。ちなみに、三人の接点はなかった。無差別に近い殺人なのではないかと噂されているものの、そんなのは噂に過ぎない。乱歩の前ではきわめて無意味なものだった。
 
 ▽▽▽
 
 街から少し離れたところにある旅館は温泉が有名な場所だったらしく、入った瞬間から温泉宿特有の匂いが立ち上っていた。名前を告げるとすぐに、部屋へ案内される。近くの観光地の案内や温泉の説明、それから夕食のときに必要になる券を渡されたりして、「ごゆっくり」と障子が閉められた。この部屋は玄関だけ洋風になっていて、廊下と障子一枚を挟むと和室が広がっている。
 
 荷物を置いて、窓へ近付く。フレームのなかで、白い小ぶりな花びらが、ひとつひとつはっきりとした縁を持ってゆるりと落ちてくる。遠い空に散る花は、牡丹雪にも見えた。

「……なんだか静かな嘘のようだった」
 立ち上がる音、それから足音がして、わたしの真後ろへ乱歩がやってくる。背中に手が触れて、柔軟剤の香りがそっと鼻腔を掠めた。
「何かの本?」

 さすが名探偵、と心のなかで誇らしくなる。何でもわかってしまう彼はわたしのことも例外なく、わかってしまうのだ。もっともわたしに関しては前情報だらけだから、探偵としてじゃなくて彼個人として推察して話しているのだろうけれど。

「そう。有名な小説の、あんまり有名じゃないところ。空から雪が降ってきてるのを表現してたんだ。似てるなあって」
 うつくしい情景に定評のあるその作家の本をわたしはほとんど読んでいて、けれど当然ながら乱歩と共有するようなことは無かったのだった。このように好きな箇所の話をすることも滅多にない。
「なんだか静かな嘘のようだった、ねえ」
「素敵でしょう。なんだか静かな嘘のようだった」

 窓から離れて、備え付けの棚を開ける。浴衣の上にタオルと帯、それからもうひとつ小さなタオルを乗せて、乱歩へ手渡した。自分の分も床へ置き、ふたたび窓の外へと視線をやる。まさしく空色と呼ぶにふさわしい空とそれを区切るような鋭い枝、雪のように舞い落ちる花たちは、相変わらず美しい。

「僕にはよく分かんないけど」
「言うと思った。まあ、わたしの好きはわたしのものだから。何にでも共感して欲しいとは思わないわ」女のひとのこういうのは大抵聞いて欲しいだけなのよ、と教訓でも語るように続ける。
「へえ」
 気のない返事にふっと笑みがもれた。言ってみたはいいものの、乱歩がおとなしく知らない女の話を聞くとは思えない。
「ま、好きな人が出来たらとにかく話を聞くことね。解決策とかは求めてないんだから」
 お風呂の道具一式と浴衣を抱えて、障子に手をかける。
「まだそんなこと言うの?」

 乱歩もしぶしぶといった様子で立ち上がって、わたしの後に続いた。手にはしっかり部屋の鍵が握られている。いつもならわたしが持っていくところだけれど、お風呂となれば話は別。部屋に戻るのは確実にわたしの方が遅いし、乱歩のことを気にしていてはせっかくの温泉を楽しめない。殺人事件の依頼で来て温泉を楽しむなんてお気楽すぎると怒られてしまいそうだけれど、その殺人事件はわたしたちにとって、温泉宿に来ることよりもよっぽど日常と化していた。数年に一度なのだから、ゆっくり疲れを癒したとてバチが当たることはない、と思う。

「まだ言うよ。だって何の言葉も貰ってないもの」

 スリッパ越しの質感が気持ちいい海色の絨毯へ、重厚なドアが閉まる音が落ちていく。BGMも人の話し声もない廊下は静まり返っていた。こういう他に音の無い場所、話し声が他人に漏れる可能性のある場所では大きな会話は避ける──福沢さんと三人で暮らしていたころ、何度か注意されたことがよみがえる。大浴場への道のしんとした空気は、わたしたちから対話の意欲を奪っていった。
 
 ▽
 
 山に囲まれた露天風呂はそこまで広くはなかったけれど、天然の石が敷き詰められているという床も木や竹で出来た柵も趣があって素敵だった。人が少ないのも相まって、開放的な気持ちになれる。わたしのほかには親子連れが一組だけ。浴槽の端の方へ落ち着いて、ひとつため息をついた。清潔な空気で満たされて、体の奥底から洗われるような心地良さがわたしを包む。

「怖いわねえ。あの殺人事件」
 看板にある温泉の効能を読んでいると、親子の母親の方であろう声が湯気に乗って聞こえてくる。
「昨日殺されてた人なんて、私と年一緒だものね。怖い怖い」
「三人も殺されてるのに犯人が捕まらないなんて、警察はどうしたのかしら」

 警察だって大変なのよ。それに偉いじゃない。自分たち組織の権威と市民の安全を天秤にかけて、市民を選ぶなんて。心の中で会話に参加する。民間人の乱歩に──民間組織の武装探偵社に──頼るということを決断するのだって、相当な覚悟がいるはず。同じ横浜市内なら依頼も頻繁にあるけれど、ここは遠く離れた北国だ。
「そろそろ行こっか」
 わたしの心の声が聞こえる訳もなく、母娘はペタペタと足音を鳴らして露天から出ていった。バチン、と横開きのドアが閉まる。
 
 屋根と柵の隙間から見える森や少しだけ青が増した空、流れていく雲。普段の生活とは無縁の、自然しかない場所。出っ張った岩に腰かけて足湯みたくして、肌寒くなれば肩まで浸かる。ここの露天風呂は、いつまででも居られそうで恐ろしい。

 話し声も無くなり、風の音とどこからか流れる水のせせらぎ──普段通りがかりに聞くような大袈裟ものではないから、山を走る小川なのかもしれない──だけがわたしの耳へひびいてくる。清冽な水が線に沿って落ちるのが見えるようだった。
 しばらくそうしていると、乱歩と過ごす今日の夜のこと、明日会う朝長さんのこと──目を逸らしていた現実が次々に頭を占拠して、さっきまでの旅行客気分は綺麗さっぱり霧散していった。湯船から手を出して、額へとあてる。

 
 出張先の企画のリーダーを務めていた朝長さんはわたしより一つ年上で、皆の頼れる兄的な存在だった。爽やかな笑顔と物腰の柔らかい喋り方は魅力的で、事務の子たちの中にも彼を狙っているひとが数人居るという噂もある。あとは、取引先にもファンがいるとか。実際よく声をかけてくれて、短期の出張で来ていただけなのに歓迎会まで開いてくれたし、二人でも何度か食事したりもした。人も建物も少ない、冬のまち。すべてが白く染る、澄んだ夜。もちろん緊張はしたし、最初は早くホテルに帰って乱歩に電話したい、なんて思っていたけれど。

「最近気がついたこと、聞いてくれます?」
 程よく弾んでいた会話が途切れたから、なんとなく話題に困って、切り出してみる。会社から少し離れたレストランで夕食を共にして、滞在していたホテルへ送って貰っているところだった。
「うん、もちろん。瑠梨亜ちゃんの話ならなんでも」

 さんを付けて呼ばれたのは最初の一日だけで、次の日からはちゃん付けになっていたのだけれど、そこに馴れ馴れしさや下心なんかは微塵も感じられなくて、もとから何年もそう呼ばれていたような気さえした。こういうところが同僚や部下たちを惹き付けるのだと感心する。わたしもこういうひとになれたらいいのに。そんなことを考えながら歩いていたらふと視線を感じて、あわてて自分の切り出した話題へと戻る。

「平仮名のを、……わ、を、んのをと四分休符って似てませんか?」
「を、と四分休符?」
 朝長さんは楽譜が読めないからわからないな、と眉を下げてから、
「でも瑠梨亜ちゃんが言うならそうなんだろうね」
 わたしの目を見てやわらかく微笑んだ。慣れてないのとまっすぐ見つめられた恥かしさにいてもたっても居られなくなってしまって、
「そこの公園、寄りませんか」気がつけば道路を挟んだところの公園を指さしていた。ちょうど青になった横断歩道に目線をやって、「いいよ」と彼がまたやわらかく笑う。

 落ちていた木の枝で、雪の上に四分休符を書く。手描きのそれはやっぱり「を」にそっくりだった。なぜこんなことを彼に言いたくなったのかは分からない。着くまで話を繋げられれば何でも良かったのに、公園に寄ってしまっては結局時間が伸びる。本末転倒ではないか、と自分にクレームを入れて、隣に平仮名を並べた。 

「四分休符ってこれかあ。確かに似てる」
 今度は無邪気な少年みたいに声を立てて、彼が笑った。それから、「二分休符ならわかるんだけどな」と意外なことを言ってくる。さっき、楽譜は読めないと言ったのに。不思議な気持ちになったあと、もしかして、と思いつく。
「『シュレピヌ街の人々』? 二分休符ってシルクハットみたいねって、ヒロインのセリフ……」
「ええ! 伝わるなんて。瑠梨亜ちゃんも読んでたんだ」

『シュレピヌ街の人々』は数年前大ヒットした小説で、最近映画化もされていた。独特な台詞回しや散りばめられた知識なんかが面白くって、当時のわたしは夢中で読んでいたのだけれど、周りで読んでいる人は見たことがなかった。二分休符のくだりは原作だけだったはずだから、このひとも小説が好きなのだろうと推測する。

「嬉しい。好きな人、初めて見た」
「俺もだよ。あれ本当に面白いよな」
「うんうん。まさか最初に出てきた白い鳥が伏線になってるなんて──」
 
 そこからは止まらなくて、結局わたしたちは夜の公園で一時間ほど話し込んでしまった。そうして帰り際に次の約束をして、その次、で結婚の話などされてしまって──髪の毛から冷たい雫が落ちて、肩を伝う。足だけお湯に浸かって色々思い出しているうちに、体が冷えてしまっていた。時間を意識せずくつろいでいたけれど、時計を見ればここへ来てからかなり経っていた。そろそろ部屋へ戻らないと、乱歩が待ちくたびれているに違いない。浮かんでは消える朝長さんの笑った顔を振り払いながら、室内浴場へと戻る。

 
 ▽
 
「はあ、お腹いっぱい。もう寝てしまいたい」

 部屋に戻るなり、並んで敷かれていた布団に飛び込んだ。ご飯を食べて帰ってきたら寝る準備がされているなんて、こんな幸せなことは無い、と思う。
 乱歩は寝転んだわたしの隣に座って、テレビのリモコンを操作していた。チャンネルを何回か変えたあと、お気に召すものがなかったのか電源が消される。

「ほんとに寝るの?」
「うーん、明日も早いし」どうしようかなあ、と体の向きを変えると、わたしを見下ろす乱歩と目があった。四秒くらいそのままで居ると、耐えきれず口元が緩んでくる。誰に対してもそうなのだけれど、思い切り目が合ってしまった時って、どうしたらいいかわからなくて笑いだしてしまう。それでも乱歩はわたしをじっと見ていたものだから、「すっぴんなんだからあんまり見ないでよ」なんて思ってもないセリフまで飛び出した。

「別に、変わらないけど」
「そう?」少しだけ嬉しくなって、ありがとう、と礼を述べると案の定、不思議な顔をされる。気にせず起き上がって、緩んだ襟元を正す。
「外、もう暖かいと思うんだけれど。ちょっと歩いたところにコンビニあるから、行こうよ」

 一瞬面倒くさそうな雰囲気が漂って、けれどコンビニの四文字が効いたのか──いつものようにラムネを買うか、アイスでも食べるのだろう──「うん」と短い返事がきた。
 
 ▽
 
 旅館を出てしばらく歩くと、そこかしこにあった観光地への案内も減っていって、顔ほどもある大きな葉のついた草や木々が歩道へかかっていた。急に鄙びた感じがした。けれど上を見れば、紺のビロードに星を並べたみたいな空がどこまでも広がっている。街灯が少なく建物もまばらだから、まるでプラネタリウムのなかを歩いているようだった。

「本当に星が綺麗。来てよかった。冬にこの街へ来た時も、乱歩と見たいなって思ってたの」

 土で出来た地面を削る音──街なかのコンクリートとはまた違ったもの──が足元に低く響く。かかとの低いパンプスはどんなところも歩きやすくて、お気に入りだ。ふと立ち止まった乱歩に合わせて、宙に浮いていた右足を戻す。

「ふぅん。……まあ確かに、綺麗だね」
 わたしと同じように空を見上げる乱歩のひとみには、無数の星が爛々と煌めいていた。夜の光を纏う緑はほんものの宝石ようで、一種の神々しさすら感じさせる。うまく視線を逸らせない。

「でしょ。今回は事件がきっかけだから、感謝はできないわけだけど。たまにはこういうのも良いよね」
「そうだね。僕は面白い事件が起きてくれて感謝してるけど」

 夜空を閉じ込めたグリーンがきゅっと細められて、長い睫毛が弧を描いていた。楽しげな乱歩とは裏腹に、わたしの気持ちは晴れない。ずっとこのうつくしい夜にいられたらと思う。

「不謹慎だなあ。この街の人達は怯えてるんだよ」
 風呂で出会った親子を思い出す。夕食の会場でも、同じ話をしているのがちらほら聞こえていた。
 隣で立ち止まっていた乱歩がふたたび、夜の色を深めた世界を進んでいく。わたしもつられて歩き出す。二、三回手の指先が触れて、緩やかに繋がった。力のこもっていない、かろうじて絡まっているようなかたちだったけれど、お互いの存在を確かめるには十分だった。
「明日には解決するんだから良いだろ」

 最近ではあまり聞かなくなった──年下の鏡花ちゃんとよく話すようになったのが要因しれない──拗ねた声色。初めて会う人間に自分の異能を疑われたとき、あるいはわたしが他の人にかかりきりだったとき──そういう小さな不機嫌に付随する、声。掴みどころのない飄々とした立ち振る舞いにも、常にゆるやかに浮かべられる笑みにも似つかわしくない幼い声は、されどわたしを安心させるもので、昔の彼と今の彼とを結びつけてくれる重大な要素なのだった。大人じみた乱歩を感じる度、わたしはひどく打ちのめされる。

「それもそっか……なんて、わたしは乱歩に影響されすぎね」
 こんなだから、朝長さんにも言われてしまうのだわ。
 ──瑠梨亜ちゃんは、ちょっと世間離れしたところがあるよね。それも例の彼の影響なのかな。
 公園で話したあの夜、そう困ったように笑って、「でもそんなところも良い」と続けてくれた。乱歩との関係は説明するのが億劫で、仲の良い幼なじみなんです、と話している。合鍵を渡している上恋人がするようなこともする関係です、などとは言えていない。もちろん。

「あのさあ」また足が止まる。「僕と居るのに他の男のこと考えるの、やめてよ」
 何故バレたのか、そんなことわからない。本当は乱歩のことなんて、ずっとわからないのだから。気分を害されたことを伝えたくて止まったのかと思ったけれど、横断歩道の赤信号のせいだった。横断歩道。また朝長さんの顔が浮かぶ。ひとつ唾を飲み込んで、唇の内側をやわく噛んだ。頭の奥が痛い。

「ごめん」嫌だ、と被せるように告げられ、数回目をしばたたく。驚いているうちに繋がっていた手を引かれて、一瞬で乱歩の腕の中へ閉じ込められた。旅館のせっけんの匂いと混じった彼の匂いがして、全身が一気にあつくなる。

「……瑠梨亜は、僕のだろ」
 背中に回された手にぎゅっと力が込められて、わたしもおずおずと彼の後ろへ手を伸ばした。同じように力を入れて、抱き締める。気持ちは前からとっくに決まっていたのに、莫迦みたいだ。自分を肯定してくれる優しい人につけ込んで、勝手に嫌われるのを恐れて、結果乱歩のことまで不安にさせる。最悪だ、と心の中で吐き捨てた。「ごめんね」もう一度静かに謝って、離れる。

 道路の先で、見慣れないロゴの看板がどの星より強く輝いていた。その下には酒・たばこ・ATM、とある。
 

 コンビニから漏れる光の届くギリギリに、木のベンチとテーブルが並べて置かれている。駐車場の一角に作られたその小さな休憩スペースに、吸い寄せられるように腰を下ろした。乱歩がアイスを食べ始めたのを見ながら、世の恋人たちがするように腕を絡めて、肩の下あたりに頬をつける。人工的な甘味料の匂いと初夏の夜がきれいに混じりあっていた。ビロードの空も乱歩の体温もすべて、なんだか静かな嘘のようだった。


   



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