夜は永いから
生きるならふたりがいい



 三

 いつもの夜。夕飯のあとに二人でソファに並んで、これからのことを話し合う。それは彼の経営する会社のことであるとか、明日のデートスポットの相談であるとかで、これから、の大小は様々だ。
 一緒に暮らしてもうすぐ三年が経つ。『同棲したら相手の悪いところばかり見えるようになってしまって別れる人が多い』なんてマジカメ記事も見たりしたけれど、学園に通っている時から寮生活であったわたしたちには関係なく、一緒に居る時間はむしろ減ったくらいだった。わたしにも彼にも悪いところはあると思うけれど、それだって喧嘩したり仲直りしたり、改善策をふたりで練ったりして、それなりに楽しく克服してきたつもり。

 仕事ができる上あの整った顔立ちでさらに対応も紳士(それも学生時代よりも胡散臭さが無くなって、年々洗練されていくのだから驚きだ)、となれば女のひとに言い寄られることも多々あり、時々隣に居るのが自分でいいのかどうか、考えることがある。若手実業家と女優の恋愛沙汰なんてよく聞くワードであるし、人魚と人間の恋愛観が同じかはわからないけれど、元の世界には『三年目の浮気』なる歌だって存在するのだ。「わたしだったら大目に見るかなあ」

「何の話ですか」
「三年目の浮気、っていう歌があって」
「三年目の浮気」浮気、なんてワードがわたしから出てくるとは思わなかったのか、彼はぱちぱちと目を瞬いた。合わせて長い睫毛が揺れる。
「わたしだったら、まあ、許しちゃうかもしれないなあって」
「え、」
「両手をついて謝って、はもらうかもしれないけれど」
 思いのほか彼が真剣な目をしているのに気が付いて、言った後「ふふ」と笑って誤魔化した。
「……僕が浮気するように見えますか」冗談として話題を消化する作戦は失敗したらしい。

「見えない」彼の肩に頭を寄せて、腕を絡めてみる。「だって本当にわたしのこと大切にしてくれてるの、わかるから」
 そこでようやく彼の纏う空気が緩んで、少し安心した。照れを隠すみたくして眼鏡に触れる彼がどうしようもなく愛しくなって、勢いよく胸に飛び込んでみる。急なことでわたしを受け止め損ねた彼は一緒にソファへと沈むことになって、学生時代よりも少し大人な香りがふわりと立ち上った。「帰さないでいてくれて、ありがとうね」
 わたしを抱きしめる腕が少しだけ動揺したのが、背中に伝わってくる。

「……あの夜何があったか、知っているんですか」
「知ってるよ」彼は、自ら聞いてきたくせにわたしの返答に驚いた表情をしている。
 驚いた表情、と言ってもそれはわたしだからわかる程度の些細な変化で、彼自身気づかれていることに気づいていないだろう。彼は昔ほど表情を表に出さなくなったけれど、それはわかりにくくなったというだけで、感情の機微までなくなったわけではない。少しだけ得意な気持ちになったあとで、「今はね」と続ける。

「僕を恨んだり、しなかったんですか」
「恨む?どうして」
「僕があの夜、あなたを離さなかったから、……帰る方法は絶たれ、家族に会うことも、普通の高校生に戻ることもできなくなりました」

 元の世界での高校はどんなところだったのか、故郷はどんな風景だったのか。彼と過ごしてきたたくさんの夜のなかで、バスタブの底からひとつひとつ、ゆっくり気泡が浮かんでくるように取り戻した記憶たちはその都度、ふたりで共有するようにしていた。元の世界のことなんて二度と口に出させず、そのまま忘れさせてしまえばよかっただろうに。彼は結局わたしに対して完全な悪にはなりきれないというか、独善的な行動の根底には優しさのかけらが滲んでいるというか。

 付き合うことになったあの夜は唯一帰れる可能性があり、彼はその事実を知りながらもわたしを朝まで部屋から出さなかったのだということに気が付いた時、一瞬、どうして一言くれなかったのだと問い詰めたい気持ちに駆られた。けれど彼だって、ああするしかなかったのだ。自分を犠牲にして相手に尽くすだとか、相手が幸せでいてくれればそれでいいだとか、そんなものはどれも、彼に似合わない。高校生の彼がわたしに向けた執着は、確かに形を変えて、ここに存在する。

「アズール、」シャツの襟のところに額を押し付けて、ゆっくりと呼吸をする。彼の匂いで満ちた夜はあのころと何も変わらないような気がするし、もう二度と戻れないような気もした。青春の懐かしさに、お腹の上あたりがきゅっと締め付けられた。
「何ですか」
 低い体温もわたしにだけ優しい口調も、こちらが溶けてしまいそうになるくらい柔らかな微笑みも全部。「……好き」
「僕は、」彼の手がわたしの髪をゆっくりとなぞった。「僕は、愛しています」

 窓の外には、真っ黒な空、ちりばめられた星々、全てを照らす月。海とともにあった夜はもう来ない。それでもやっぱり夜は永いから、生きるなら、ふたりがいい。





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