夜は永いから
生きるならふたりがいい



 二

 その日わたしとアズールは、珍しく数人の寮生たちを交えながら、閉店後のモストロ・ラウンジで雑談していた。話題は高校生らしく、好きな女の人ができたとき、どういうアプローチをするのか。告白はする派か、されたい派か。流れでそうなったのか、テレビかなにかの特集を見ていてそうなったのかはわからない。

「寮長はどうなんですか」
 テスト直後の繁忙期を終えた解放感もあってか、寮生の声色は馴れ馴れしさというか、親しみ、そういった高校生らしい年相応の雰囲気を纏っていた。
「僕は、そうですね、…きちんと段取りを決めて、相手の気持ちを知ってから、ですかね」
 ということは、する派で、相手の気持ちを尊重するタイプなのか。頷きながらきいていると「あなたはどうなんですか」と質問が回ってくる。アズールがわたしの恋愛沙汰に興味があるとは思えなかったけれど、皆の前で聞かれた以上答えないわけにはいかない。
「わたしは、……されたい派かなあ。自分からは絶対、何もできない」

 へえとかふうんとか、興味があるのかないのかわからない返事がそこかしこから聞こえて、俯く。アズール以外の寮生兼従業員たちとは特別仲がいいわけでも悪いわけでもなかったから、こうして話題の中心にされるのはそこそこに緊張した。
「もう行くね」
 空気に耐え切れず立ち上がれば、アズールもそれに倣ってソファから腰を上げる。

          〇
 
 部屋で次の日の予習をしていると、ふと数か月前のことが過った。それによりなんとなく、自分の考えに整理が付いたような気がする。手を握られたこと、キスをされたこと。あの夜のことを踏まえれば、好きな人とは自分だったのでは、と考えることも不自然ではないと思うのだけれど、彼の「きちんと段取りを決めて、相手の気持ちを知ってから」という言葉がちらついて、やっぱり違う、と考え直す。あの日彼が言った言葉とは何もかも違う言動、行動。

 好きな人ができた、とわたしに告げてきた彼にいまのところ、変わった様子はない。相手が故郷のひとや島の住民だったなら外出届を取って出かける頻度が増えたりするのではないかと観察してみたりしたけれど、そんな様子もなく、また浮かれている感じもない。何の進展もないのだろうか。進展があったところで自分には関係ない、と冷静なわたしと、知らない女のひとを想う彼を見たらきっと立ち直れない、と今にも泣きだしそうなわたしが心の中でせめぎあって、教科書の文字なんてひとつも入ってこなかった。
 落ち着かなくて、ベッドから立ち上がる。机に向かうのが苦手、というよりは寝転んで教科書や資料を眺めるのが好きで、彼が部屋に居るときも、わたしはベッドに横になりながら勉強をすることが多かった。机はひとつしかないから、丁度良い。綺麗な姿勢で机に向かう彼を見ながら勉強する時間はしあわせに満ちていて、だからわたしは小テストも期末テストも嫌いではなかった。アルバイトもテストのための勉強も、すべてが彼と居るための口実だった。

 広くはない自室を意味もなく歩き回っていると、スマートフォンが唐突に、無機質な着信音を鳴らす。こんな時間にかけてくる相手は彼しかいないため、ディスプレイに表示される名前を確認する前に受話ボタンを押していた。
「遅くにすみません。起きてましたか」
 電話越しの彼の声は、辺りに反響している感じがした。部屋には居ないのだろうか。
「うん、なにかあった?」極力ゆっくりと話し、声が上擦らないように努める。
 隙間風が頬を掠める。この寮は普段から肌寒いけれど、今日はとくに空気が冷たい日だ。再びベッドに腰掛けて、乱雑に畳んであった毛布を手繰り寄せる。

「今、あなたの部屋の前に居ます」
「こ、怖いんだけれど。メリーさん?」伝わるはずがない、と思いながらも、言わずにはいられない。
「メリーさん?誰のことですか」
「いや、やっぱり、何でもない」毛布を羽織ったままドアを開けて、彼を迎え入れる。先程声が響いていたのは、廊下にいたかららしい。


「それで、何かあったの」
 彼が椅子、わたしがベッドに座って向かい合うような形になる。部屋へ入ったきり何も言わない彼はラウンジからまっすぐここへ来たのか、寮服のままだった。先を促す言葉はもう発してしまったし、と床へ投げ出した足を揺らす。いつもだったら、「子供じゃないんですから」とやんわり注意されるのだけれど、今日はそれもなさそうだ。放課後までは普通にしていたというのに、何か重大なトラブルでも起きたのだろうか、と少し緊張してしまう。

「……あなたは好きな人とか、居ないんですか」
「それを聞きにわざわざ部屋まで?」
「ええ」彼はぼうっと、わたしの後ろの壁の辺りを見つめている。さっきから何度か表情を窺っているけれど、一向に目が合わない。
「ふうん」平常心を装ったつもりが、思ったより冷たい声色になってしまった。彼がわたしを見る。「居るけれど」
「誰、ですか」
「誰だと思う」わざと、世間話の延長みたいな気軽さで言った。
「僕、ではないんですか」
「うん、合ってる……わたしは、アズールが好き」

 彼に向かって話すというよりは、独り言のように告げる。彼のことが好き、なんて、わたしの中ではもはや当たり前のことになっていたから、とくに緊張することもなかった。それを彼に伝えたところで付き合ってもらえるとか、そんなことは思わないし、彼に好きな人がいることは知っている。邪魔したりなんか、絶対したくなかった。彼にはこの世界の人と、普通に、幸せになってほしい。

「それなら、なんであんなこと、」彼が椅子から立ち上がって、わたしの隣に腰掛ける。
「あんなこと?……ああ、両想いになれるって応援したことね」

 無意識に毛布の端を握りしめていたことに気が付く。アズールに好きな人がいるといわれた時と同じ痛みが、胸の奥にはしる。彼のしあわせを願っておきながら、結局自分がかわいいんじゃないか、と唇を柔く噛んだ。「わたしのこと眼中にないだろうし、あったとしてそれは気の迷い、っていうか妥協。女子がいないから、手軽だから」
「……もういいです」
 投げやりな響き。彼に掴まれた手から毛布が落ちる。肩を押されて、反転。窓の外の青がやけに遠く感じた。
「アズール、あの、どういう」

 全部言い終わる前に唇をふさがれて、びっくりして声が出そうになったけれどそれもまた飲み込まれてしまう。どうすればいいか何もわからないまま、反射的に瞼を閉じた。この間の短いキスとは違って、何度も何度も、温度の低いキスが降ってくる。視界が真っ暗ななか、だんだん息苦しくなって、ついに頬に涙が伝った。髪を撫でていた手も口づけもすべてが止まって、そのまま数秒、何も起こらない。ゆっくりと目を開ける。

 部屋がこんなに静かじゃなかったら聞き逃してしまうくらいの小さな声で、彼がわたしの名前を呼んだ。それから、これも囁きに近い小さな声で「すみません」と謝られる。ずっと顔をそむけている彼の表情をどうしてもみたくなって、今度はわたしから、彼に手を伸ばす。「アズール、……わたしのこと、好きなの」
 だいたい長針が一周するくらいの静寂が訪れて、それから「はい」と短い返事がくる。
「前にキスしたとき、何も思わなかったんですか。もしかしたら自分かもしれない、とか」
「だってアズール、この間言ってたじゃない。好きな人に告白するときは、段取りを決めて、相手の気持ちを知ってからって」わたしへの思いを認めた後脱力したように隣に寝転んだ彼はじっと天井を見つめていて、ここからだと横顔しか見えない。

「僕だって、できるものならそうしたかったですよ。きちんとした場所で、ちゃんとした告白、……」
「一年半も一緒に居るのに?」ふふ、と笑みが洩れる。「今さらだよ」
「いえ、形式は大事です」彼のまじめな言い方が面白くって、更に笑いがこぼれた。
「どんな告白をされたって、わたしはアズールが好きなのに」
「そ、そういう問題では、……」

 肩がつきそうだった距離はすっかり遠ざかってしまって、隙間にはベッドサイドテーブルの明かりが線状に伸びている。人差し指でシーツのしわをなぞって、彼と同じように天井を眺めた。「でも、わたしといたってきっと、しあわせにはなれないよ」
「なぜそんなこと、」彼が思い切りこちらを向く。眉をぎゅっと寄せてわたしを見つめる彼には凄みというか迫力があって、気を抜きかけていた体が強ばった。
「だってわたし、いつまでここに居られるかわからない」少しだけ声が震える。
「あなたがこの世界のひとではないことは、まだ学園長にも他の生徒にも、知られてはいないはずです。闇の鏡だって、あなたを普通に寮分けしたじゃないですか」



 確かに目を覚ましたはずなのに、真っ暗で、何も見えない。ただ木の軋む音と馬の足音のようなものだけが、耳に響いている。
 体が動くことを確認して腕を伸ばすと、体から数センチのところで壁に手が触れた。足も動かしてみるけれど、何かに当たってしまって肩幅くらいしか自由がきかない。どうやら、箱のようなものに閉じ込められているらしかった。夢か、変わった金縛りの類か…どっちにしろ早く目が覚めてほしい、と念じていると、唐突に視界が開ける。眩しいと思う暇なく誰かに手を引かれ、気づけば重厚感溢れる大きな鏡の前に立たされていた。

「汝の名を告げよ」

 鏡の中の声が、重苦しく響く。変わった夢だな、と周りを見渡すと、棺のようなものがふよふよと大量に浮かんでいた。わたしもあれに入れられていたらしい。
汝の名を、告げよ。話を聞いていないと思われたのか、もう一度問われた。わたしの夢なのだから自由に見て回らせてよ、と思いながらも名前を言うと、鏡はこちらをじっと見つめて、「この者の寮は、オクタヴィネル!」と声高らかに言い放つ。

 オク…タ…ヴィ…?上手く聞き取れず立ち尽くしていると、横から袖を引かれた。こっちです、と誘導されるようにして整列させられる。眠る前に着ていたのは半袖のTシャツだったはず。見たことも無いかっちりとした制服を着ていることを確認して、やっぱり夢、と思う。ストライプのネクタイ、黒いブレザー、それと同じ色のスラックス。わたしの腕を引いた青年も制服に身を包んでいたから、どうやら学園モノの夢なのだな、と勝手に自己完結する。

 鏡から一歩引いてみたら、わたしの後ろには同じく棺から出されたらしい青年たちが沢山、列を生して並んでいることに気が付いた。どうやらこの眼鏡をかけた男子は、わたしが行列に気づかずいつまでも鏡の前にいるのを見かねて連れ出してくれたらしい。ありがとう…?と若干疑問形になってしまった礼を述べると、いえ、と少し戸惑ったような反応が返ってくる。

 とりあえず横に並ぶと、彼の反対側にいた長身の双子からの訝しげな視線が差さった。勝手に双子、と判断してしまったけれど、多分間違いない。水色の髪に金色の瞳、片方ずつのピアス、殆ど同じの身長。浮かべている表情こそ違えど、きちんとみないとわからないくらいには顔のパーツもそっくりだった。
 それにしても、感覚がリアル。
 周りには沢山の人がいるのに、全員の顔がはっきりと見える上、ただのひとりとして知り合いがいない。ということは、この人たちはすべてわたしの脳が新たに創り出した存在しない人物ということになる。わたしは、自分が思っていたよりも想像力豊かなのかもしれない。

───長くて壮大な夢。少し待ってみても景色が切り替わったりすることは無く、永遠に鏡による何かの判定が行われていた。さすがに飽きてきたので、試しに頬を叩いてみる。パン、と乾いた音が響いた。

「……あなた何してるんですか」
「すごく痛い」
「当たり前じゃないですか。赤くなってます」
 横の彼は周囲を気にしているのか、驚きながらも小声で話してかけてきた。手と頬がじんじんする。
「もしかして、夢じゃない……?」



 入学式のことが頭をめぐる。あのとき彼が声をかけてくれなかったら、わたしはいまごろここにはいないかもしれない。記憶喪失の少女として保護され、病院とか何らかの施設、……想像するのも恐ろしい。彼の言う通りまだわたしの秘密は学校関係者や学友たちには知られていないけれど、それでもやっぱり先のことはわからないと思う。

「本当に」彼がゆっくりと上体を起こす。「本当に帰る意思が無いのなら」
「……うん」つられるようにしてわたしも起き上がって、彼の目を見た。
「この先もずっと、一緒に居てくれませんか」

 なんだ、結局ちゃんとした告白もするんじゃないか、なんて思う余裕はまったくなく、返事をするまえから両手を握られる。彼の瞳はひたすらわたしだけをとらえていて、逃げられない。ベッドの明かり、彼とわたし、時計が動く音だけの世界。

「ずっと、っていつまで」
「それは、あなたが居なくなるまで、です」
「死ぬまで、とか言わないんだ」まるでそう言ってほしかった、みたいなセリフが口をついて出たことに、少しだけ驚く。わたしはわたしが思っているより彼が好きで、それから意地悪だ。
「帰りたくなるかもしれないじゃないですか」
「帰さないくせに」

 まっすぐこちらを見つめていた目が縦に大きくなって、また戻る。そうして唇の端が片方だけきゅっと吊り上がった。造り物みたいに美しくて、でも狡い顔。気高さとか上品さで塗り固められた表面からふっと狡猾さがのぞくような、まるで大人みたいな表情。こういう時の彼は、とても十七歳には見えない。

 つかまっていた両方の手はゆっくり解かれた。その指が一本一本離れていく様であるとか最後に手の甲をなぞられたのをぼんやり目で追っていくうちにコロンの香りが鼻先を掠めて、そのまま視界がゼロになる。ジャケットと肩に掛けられた外套のあいだに手を回して、わたしからも彼にぎゅっと抱きついた。「本当にずっと一緒に居てくれるの」

「はい」彼の返答は、短いけれどなにより確信に満ちている。わたしの背中から浮いた手はそっと頭へと移動した。ぽんぽん、と二回わたしを撫でたそれはそのまま肩へと着地して、再びわたしと彼の間に数センチの空間が生まれる。
「僕はあなたが好きです。付き合ってくれませんか」
「……うん。わたしも、ずっとアズールが好き。隣に居させてほしい」

    ☆

 それを聞いたとき、まず思い浮かんだのは別れの二文字だった。次に、彼女が居なくなった学園、寮、そして目の前に広がるラウンジの風景がぐるぐると回りだす。最後に鏡に吸い込まれる彼女を想像した時にはもう、僕の足は出口のほうへと向いていた。クローズ間際の店内には人が少なく、中で食器を片付ける音やスタッフと話し声だけが床に反響している。おそらく急に黙り込んだ僕へ何と声をかけようか相談している監督生の友人ふたりに「失礼します」とだけ告げてラウンジを抜け出した。

「アズール。そんなに慌ててどちらへ?」
 ターコイズブルーの髪は、深海色に染まる廊下から浮かびあがっているように見える。彼、ジェイドの手にはこれから僕が確認するはずだった書類があった。色違いの瞳がこちらを探るように煌めく。
「……彼女のところへ」最早、何も隠すつもりはない。
「説得にでも行くつもりですか」
 大方そうなのであろうが一応聞いている、といった感じのニュアンスが、声色に滲んでいた。彼女のことを滅多に話さなかったからなのか、僕がしようとしていることは全く伝わっていないようである。
「説得ではありません」自分を落ち着かせるように、噛み砕くようにして続ける。「何も知らせないまま、僕のものにする」

 ジェイドと別れて談話室へ出る。定位置となっていたソファに、いつかの彼女と自分が見えた気がした。
この感情はまだきっと、愛には遠いのだろうと思う。それでも構わなかった。彼女の部屋へと足を進めながら、発信ボタンを押す。





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