夜は永いから
生きるならふたりがいい



 一

 いつもの夜。ふたりで談話室に残って、これからのことを話し合う。それは彼の経営するモストロ・ラウンジのことであるとか、次のテストのことであるとかで、これから、の大小は様々だ。もちろん、世間話みたいなどうでもいい話をするときもあって、なにを話すにせよ彼を独り占めできる夜は、学園生活で何より楽しみな時間だった。
 大体週に一、二回、多くて三回。毎日こうしてお話できたらいいのに、と思わないこともないけれど、彼女でもないわたしのために時間を開けてくれているのだから、文句は言えない。それに、クラスも一緒、アルバイト先も一緒(彼は支配人だからアルバイト先、というのはなんか違う気がするけれど)なのだ。これ以上を望むなんて、欲深すぎる。

「聞いてますか」
 気付けばすぐ近くに彼の顔が迫っていて、わ、と裏返り気味の声が洩れる。窓の外に映る海を切り取ったみたいな瞳。眼鏡の硝子部分に届きそうなほど長いまつ毛。左右対称に弧を描く二重の線。すべてが永遠に眺めていられそうなほど完璧で、もう一年半近くも一緒にいるというのに見入ってしまった。彼の目には、ふっと吸い込まれそうになるような、魅入られて動けなくなるような、そんな力がある。色褪せないうつくしさ。たとえば、抜けるような青空、沈む夕日、風になびく花びら、そんな感じ。こちらがどんな状況、どんな気持ちでいても関係ない。いつだって彼は凛としていて、上品。

「ごめん」彼のほうへ向き直して、目線を下に落とす。寝る前のラフな格好から浮いた革靴が、彼のわたしへの信頼、というか良い意味での気の緩み、みたいな感じを醸していて、思わず頬が緩んだ。「あんまり、聞いてなかった」
「でしょうね。さっきから天井を見つめたり、かと思えば僕のこと見たまま動かなくなったり」
 彼がスマートフォンで時間を確認して、ポケットへしまう。天井の照明が煌めいて、テーブルの縁に反射した。
「この時間、本当に幸せだなって思って」
「だったらちゃんと、僕の話聞いてください」

 それほど怒っている感じはしないから、ものすごく重要な話ではなかったのだろうな、と思いつつも、申し訳ないことに変わりはない。「それは、ごめん」
 表情を窺おうとしたとき、ソファの上に置いていた手が彼の手に触れてしまって、もう一度、ごめん、と付け加える。授業とか昼食とかバイト中とか、一緒にいる時間が多い分こういうことは割と頻繁に起きていた。その都度謝っているわけではなく、二人きりの時は特別というか、誤魔化しがきかないというか、……恋人ではないから謝らなくてはならない、みたいな雰囲気があるような気がするのだ。わたしと彼の間に間違いなんてあるはずないとは思っていても、意識はしてしまう。

「なんで謝るんですか」
 すぐに離したはずの手は彼に緩く握られていて、遅れて認識した温もりに肩がびくりと跳ねる。同世代の男子の中でも特別大きな訳では無い彼の手は、それでもわたしの指まですっかり覆ってしまっていて、はっきりと性別の違いを意識させられた。上着の中がじんわり汗ばんで、瞬きの数が増える。
「ご、ごめんなさい…」
「すぐ謝るの、癖になってます」
 強めの口調とは裏腹に、こちらへ投げられる視線は柔らかい。喉元まで出かかった本日何回目かの謝罪を飲み込んで、「アズールが急に手を、その、……」彼のせいにしてみようとしたけれど、失敗する。

 学園の治安は、わたしが思い描いていた高校生活でのものとはかけ離れたもので、道を歩けばぶつかられて因縁をつけられる、人気のないところへ行けばお金を要求されて、この間は廊下に立っていただけなのに知らない誰かにユニーク魔法をかけられるところだった。要するに、死ぬほど悪い。だいたい間一髪のところで彼が助けてくれるけれど、それだってきっと偶然で、彼が来なかった時を想像すると毎回ゾッとする。わたしのこの謝り癖だってナイトレイブンカレッジに入学してからついたものだと思うし(思うし、というのは入学前の記憶がすべて朧気だからだ)、好きでこんな、常に彼の後ろに隠れて過ごすような学園生活を送っているわけでは無いのだ。
 手の甲が数分ぶりに外気に触れる感覚がしてそちらへ目をやる。ソファとわたしの手の間に彼の指がするりと侵入して、下から手を繋がれた。視線が交わる。

「駄目ですか?」
 うん、ともううん、とも言えなかった。彼の表情を見ることすらできない。右手から伝わる彼の熱は微々たるもので、人間と人魚の違い、なんて言葉が頭を占拠する。胸の奥に鈍い痛みが走って、ひとつ唾を飲み込んだ。
「アズール、」名前を呼ぶのが精いっぱいだった。どっちとも言えないけれど、離したくなかった。指先をほんの少しだけ動かして、彼の手の甲へと触れる。
 その行動が肯定とみなされた、と分かったのは数秒後。彼のもう片方の手がわたしの肩へと移動して、唇が重なった。





 また、夜。この間の「突然のキス事件」からは、四日経っている。今日に至るまでお互いそのことには触れず、また距離が近づきそうになれば避けて、といった感じで、周りには普通に見えているはずだ。とはいえ、ふたりの間には若干どころではない気まずさが漂泊していて、会話も長くは続かない。談話室に誘われた手段も人伝いだったし、いまわたしとアズールの間にはひと一人分の距離が開いている。

「この間の話ですが」彼がおもむろに口を開く。深夜のオクタヴィネル寮は静まり返っていて、そんなに大声ではなかったはずなのに、部屋の端まで響いたような感覚がある。
 うん、と続きを促すように返事をすれば、彼が自らを落ち着かせるみたいにゆっくりと足を組み直して、それから窓の外に目を向けた。次の言葉までの沈黙が、リュックに教科書を詰めすぎたときみたくのしかかってくる。なるべく彼の視界に入らないように努めながら、首を回した。ふう、と鼻から抜けたため息は一瞬だけその場を揺蕩って、海色の地面へと落ちる。

「その、……好きな人が、出来て」
「え、それは、その」男のひと?と言いかけて、飲み込む。
 確かにここは男子校だけれど、何も相手が学園の生徒とは限らない。彼には十七年分の人生があって、しかもその舞台は大半が海の底。文字通り住む世界が違うのだ。今まで出会った人、……彼の場合人間じゃないかもしれないけれどとにかく、そういう既知の人の魅力に遅れて気が付き、好きになる、ということは十分あり得る。それか、学園外へ出たときに島の人に一目惚れ、彼の場合これは想像しづらいけれど、それだってまあ、まったくないとはいえない。「それは、おめでとう。アズールならきっと、両想いになれると思う」





 アズールならきっと、両想いになれると思う。
 彼女にそう言われてからの記憶は曖昧で、適当に誤魔化して笑ったような気もするし、それっきり話を切り上げて自室に戻ったような気もする。とにかく、予想外だった。手が触れたときすぐに謝った彼女は、そのあとのキスを受け入れた彼女は、僕のことをどう思っていたのだろう。

 もし、男として意識されていないなら、手が触れたくらいで謝ったりはしないはずだ。少なくとも、あの時の僕はそう捉えた。そうして、その日の売り上げがいつもより良かったことであるとか、長らく進めてきた契約がようやく形になりそうであるとかの上機嫌の要因も相まって、気が付けば彼女の肩に触れていた。そのまま、何センチかでも動けば唇が触れる距離になって、戸惑った顔の彼女に口づけて、……よく考えれば、一年半も何もなかったのが不思議なくらいだ。衝動的で、計画性のかけらもない行為は自分らしくなく、予定にはなかったことだけれども、それでも僕が彼女へ抱える思いに鑑みれば、まったくもってありえないことではない。

 それなのに、あのセリフは何なのだ。アズールなら両思いになれる?眉間にしわが寄るのを感じ、前に「せっかく綺麗な顔をしているのだから、難しい顔はやめたほうがいい」と悩みの原因に言われたことが頭をめぐる。
 好きな人はあなたです、とか、付き合ってください、とかそういう言葉が咄嗟に出てこなかったわけではない。むしろあのまま告白して、キスをした時みたいに、彼女を丸め込むことだって可能だったはずだ。しかし、かなわなかった。彼女のおめでとう、があまりにも他人の響きを持っていたからだ。つめたくもあたたかくもない、ひたすらに感情のない五文字。そのあとに続いた言葉。最後の笑み。
 僕はきっと恐れたのだ。思いを告げた後に続くかもしれない、ごめんなさい、を。





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