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体術訓練の話。
※乗船後の話。





「流しゃいいじゃないか」

 ぽつりと言葉を寄越されて、俺は視線を傍らに向けた。
 ありがたくも平穏無事な昼下がり、いよいよ明後日には島へとたどり着く段階で、俺はかねてから検討しているヘルメットの購入についてをサッチへ話していたところだった。
 俺の話をちゃんと聞いている癖に適当な相槌ばかり寄越すサッチの横で、せっせと皿を洗って片付けながら話していた俺の横で発言したのは、どう見てもイゾウだ。
 さっき厨房に入ってくる様子をちらりと見たから、何か茶でも貰いに来たのかと思っていたのだが、どうしてか彼は入れてもらった一杯の緑茶を受け取った後、こちらへと近寄ってきたらしい。
 黒い髪を結い上げた彼の眼はこちらを向いているので、今の言葉は多分俺へと向けられたものだろう。
 流す。
 少し考えて、俺は自分の手に持っていた最後の一枚から泡を流した。

「皿の話じゃあないからな」

「……そうか」

 違ったらしい。
 とりあえず最後の一枚を拭いて片付けながら、それじゃあ何の話だろうかと俺はイゾウのほうへ視線を戻す。
 俺の視線を受け止めて、軽く肩を竦めたイゾウが言葉を放った。

「サッチと話してたじゃないか。マルコのアレで頭をぶつけるからヘルメットが欲しいんだろ?」

 寄越された言葉に、俺は頷く。
 マルコのアレ、というのは、いわゆる飛びつき癖だ。
 どうやら俺がそこにいることを一早く確認したいが為らしい突撃は、とても素早くそして力強い。
 どうにか堪えようと足に力を入れてみても、俺の力はマルコの力には到底及ばず、俺は何度も甲板や床へしたたかに頭や背中や腕や肩をぶつけまくっていた。
 一時期はそれを避けるために部屋に引きこもっていたりもしたが、仕事をしないニートとなるわけにも行かないので、せめて脳細胞を守ろうと考えたわけだ。
 俺の返事を見て、ぴ、と伸ばされたイゾウの人差し指が俺へと向けられる。

「ヘルメットでダメージが遮断されるわけじゃあるまいし、ナマエはマルコが来るのは察知できるんだから、攻撃を受け止めるんじゃなくて、受け流しゃいいじゃないか」

 どうやらさっきの話に戻ったらしいイゾウの言葉に、俺は目を丸くした。
 受け流す。
 なるほど、どうやるかは分からないが、正面から受け止めるよりは転ぶ確率は下がりそうだ。

「そういうのは考えたことが無かったな」

「また出たよ、ナマエのそれ」

 俺の発言を聞いて、失礼なことに、うんざりしたようにサッチが言う。
 その手がひょいと取り出した小さな皿の上には穏やかな色味の練り切りが乗っていて、差し出されたそれをイゾウがありがとよと言いつつ受け取った。
 イゾウがこっちへ寄ってきたのは甘味補給の目的があったようだ。

「避けるのとたいした違いは無ェからな、ナマエ。またマルコがずっこけるんだぜ」

「なるほど。それじゃあ駄目だ」

 俺のほうへは出てこなかった菓子の代わりに言葉を寄越されて、俺はあっさりと『受け流す』のを諦める。
 マルコが痛い思いをするなら論外だ。
 やっぱり、ヘルメットを買うほうがいいだろう。
 マルコがそのうち抱きついたりしなくなるまで、出歩いているときは被っていたほうがいいんだろうか。
 そんなことを想像していたら、ふう、と息を吹いて軽く冷ました茶を啜ったイゾウが、シンクの端へ湯飲みを置いてから、皿の上の練り切りを添えつけられた楊枝で小さくしながら口を動かした。

「転ばさないようにうまく勢いだけを殺しゃあいい。体術ならマルコ相手以外にも応用が利くだろうし、もしナマエが覚えたいってんなら、おれが少しは教えてやるよ?」

 ぱくりと口に練り切りを運んだイゾウを見やり、俺の脳裏に浮かんだのは、ずいぶん前に少しばかり話題になったサッカー映画のゴールキーパーだった。
 少林寺。いや、太極拳か。
 少しばかり興味が湧いたが、ほんの少しの懸念が過ぎってイゾウへ言葉を向ける。

「……実験体にもなってくれるのか?」

 まさか型だけ教わってマルコ相手にぶっつけ本番をするわけにもいかない。
 俺の言葉に、イゾウは軽く眼を細めた。

「おれはごめんだけど、いいのがいるじゃないか」

 放った言葉と共に、楊枝の先が俺の傍らへ向けられる。
 それを辿って視線を送った俺は、その先にいるリーゼントの男を見つめた。
 多分練り切りを作っていた道具だろう物を片付けていたサッチが、しばらく俺とイゾウ二人分の視線を受け止めてから、怪訝そうにこちらを見やる。

「………………え? 何?」

 断りはしなかったので、どうやら受けてくれるらしいと俺とイゾウは判断した。









「ナマエ!」

 大きな声で呼びかけられ、ついで駆けて来る気配を感じた俺は、くるりとそちらへ向き直った。
 どうしてかいつもより切羽詰った顔をしたマルコがこちらへと飛び込んで来るのを、いつもとは違って両手を広げて迎える。
 マルコが飛び込んできた勢いを受け流すようにしながらマルコの体を抱えて体を反転させると、ここ数日イゾウに教わったのと同じ動きをもって俺はマルコを受け止めることが出来た。
 サッチとの練習が無駄じゃなかったことに感動しつつ、俺は受け止めきることの出来たマルコから少し体を離す。

「どうした、マルコ」

 呼びつつその顔を見下ろすと、マルコはまだ先ほどと同じ切羽詰った顔をしていた。
 その手ががしりと俺の服を掴んで、ぎゅうっと皺を作っている。

「ナマエ……サッチに押し倒されてたって、本当かよい!」

「…………え?」

 唐突過ぎる言葉に、俺は首を傾げた。
 一体それは何の話だろうか。
 俺の戸惑いなど物ともせず、マルコは言葉を重ねる。

「イゾウまで参加して、二人掛かりでいいようにされてたって、本当かよい!? もしおれの所為で脅されて口止めされてるんなら、おれが守ってやるから、だから、」

「いや、待て、マルコ。何の話だ?」

 だんだんヒートアップしていく上に、俺に稽古を付けてくれていたイゾウにまでなにやら酷い容疑が掛かっていそうだと判断して、俺は軽くマルコの背中を叩いた。
 落ち着かせようと努力しつつ、甲板の端へ寄ろうと足を動かす。
 俺の服を掴んだままのマルコも付いてきたので、俺はとりあえず壁に背中を預けながら佇んでマルコを見下ろした。
 俺の顔を見上げて、マルコが言う。

「さっき、噂されてるのを聞いたんだよい。ナマエが、その……おれのために、サッチに押し倒されてたって……」

 少しばかり言い辛そうだが、それでもそう言葉を寄越されて、俺の頭を疑問符が飛ぶ。
 マルコのためにサッチとしていたことなんて言えば、それはすなわちここ最近のイゾウとの訓練に他ならない。
 隊長格二人を俺のところに引き止めておくのは申し訳なかったが、イゾウが休憩時間に楽しそうな顔をしてサッチを引きずってくるので、ありがたく受けていた訓練だ。
 けれどもそんな短い時間内にサッチに押し倒された覚えもないし、大体俺とサッチはそういう関係でもないのだ。
 そこまで考えて、そういえば何度か失敗して飛び掛ってきたサッチの下敷きになったことを、俺は思い出した。
 そうして、それを何人かクルーに見られた気もする。
 何をしているんだと聞かれて、イゾウが簡潔に答えていた気も、する。
 仰向けになってサッチの下敷きになっていたら、それは確かに『押し倒されている』状態に近いだろう。

「…………ああ」

「! ナマエ!」

 何となく納得して声を漏らした俺に、心当たりがあるのかとマルコが死にそうな顔をした。
 それと共にその手がぼぼっと音を立てて青い炎を放ち、人とは違う形状へと変わる。
 こんなに燃えているのに、熱くないのは不思議だなと俺は少しばかり思った。

「待ってろい、サッチとイゾウの野郎を締め上げてくるよい!」

「いや、待て待て」

 そのまま駆けていくどころか飛んでいきそうなマルコの様子に、慌ててその肩を捕まえた。
 こんな妙な勘違いをしたままマルコを行かせたら、折角練習台になってくれていたサッチや訓練してくれていたイゾウに悪い。
 特にサッチは何度かぶん投げてしまって、下敷きになった俺以上にあちこちをぶつけていたのだ。その上にマルコに勘違いで殴られたりなどしたら、とても可哀想だ。

「ナマエ、無理なんてしなくていいんだよいっ! おれが、ナマエの仇をとってやるよい!」

「俺はまだ死んでないぞ、マルコ。とにかく落ち着け。な?」

 今にもサッチを殺しに行きそうな顔のマルコへそう言いつつ、どうにかマルコを引き止めた。
 燃え上がっていた炎が落ち着いて、どうにかマルコの腕が人の腕へと戻る。
 改めて現れた五本の指が俺を捕まえて、ぎゅう、と小さく音を立てた。

「ナマエ……っ」

「お前が言うようなことなんて何も無いんだ、マルコ。俺はただ、サッチとイゾウに体術を習っていただけで」

 ここ数日の訓練を告白すると、まだ死にそうな顔をしていたマルコが、それでも少しばかり怪訝そうにその眉を動かした。

「体術? ……ナマエは、戦闘なんてしなくていいのにかよい?」

 俺の腕を掴む掌に力がこもったのを感じつつ、護身用にちょっとな、と俺は言葉をごまかした。
 マルコの為にやっていたなんて言ったら、マルコが自分の癖を気にするかもしれないと、何となくそう思ったからだ。
 マルコが眉間に皺を寄せたまま、何かを考えるようにその眼をさ迷わせる。
 少し考え込んでから、まだ俺の腕を掴んだままのマルコは、それでも小さく言葉を零した。

「……なら、おれがするよい」

「マルコ?」

「ナマエには、おれが教える。だから、サッチやイゾウとなんか、しなくていいよい。ナマエは一番隊なんだから、それが当然だろい」

 小さかった声がすぐに通常の声量へ戻って、そうしてきっぱりと言い放ったマルコの視線が、どうしてか俺ではなくて俺の右側を見やった。
 それを追いかけて俺もそちらを見やれば、ひょこりと甲板へ顔を覗かせたイゾウとサッチと、同じように様子を見ている何人かのクルーが見える。
 甲板なんかで騒いでいたから、どうやら関係者らしいと判断されて引っ張られてきたらしい。
 サッチは時々俺へ見せるうんざりとした顔をしていて、イゾウはどこか楽しげに笑っていた。
 その手が煙管を動かし、ぷかりとその口から煙を吐き出す。

「それじゃ、ナマエのことはマルコに預けるとするさ。びしばししごいてやりなよ」

「おれがナマエをしごくわけないだろい!」

 楽しげなイゾウへ言い返したマルコに、甘いことを言われる。
 これは、これ以上体術を学ぶことは難しいに違いない。
 そう判断した俺は、イゾウに習った事を忘れないようにこれからはこっそりサッチに付き合ってもらおう、と決めて軽く空を仰いだ。
 真上に広がる空には白い雲が浮かんでいて、マルコが飛ぶには最適そうないい風が吹いていた。





end

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