犬の失敗 (2/2)
「じゃあね、わんちゃん。私急いでるんれす」
『隊長のところに行かなくっちゃ』、なんて言いつつ姿勢を正した彼女が、それからまた目にも留まらぬ速さで駆け抜けていく。
その様子に気付いて視線を送った俺は、しまった、と声を漏らす限りに小さく鳴き声を零した。
「わふん……」
ここまでわざわざ追いかけたというのに、ナイフを取り上げるのを忘れた。
それどころか店先の商品もひっくり返してしまっている。
なんという悲劇か、と俺はさらに落ち込んで、しかしその場に座っていても仕方ないのでゆるりと立ち上がった。
こんな風に分かれたとき、イッショウさんは俺を追いかけては来ていない。
俺が離れたことには気付いただろうが、俺を追いかけるより俺が追い付けるようにどこかで留まるのがいつものことで、その方が効率がいいから俺だってそれで構わなかった。
しかし、今日は路地に入る前に店先の商品にぶつかり、頭からかぶってしまった強烈なにおいの香水のせいで、鼻が利かない。つまり、イッショウさんを探す方法がない。
「わう……」
途方に暮れつつも、とりあえず来た道を記憶の限り辿って戻ってみようと決めて、俺はその場から歩き出した。
先ほどぶつかった店にはきちんと謝りに行って、怖がられながらも持たされていた金できちんと弁償した。
置いてきただけだが、ちゃんと受け取ってくれただろう、と思う。
※
「ん? なんだこの犬」
うさん臭い髭とサングラスの男が眉間にしわを寄せて、そんな風に声を漏らす。
その斜め向かいに座る男二人は明らかに俺のことを怖がっていて、あらあらと笑っているのはその隣にいる女性だった。
イッショウさんを探してうろついている最中、気付けば島の端まで来てしまった俺がカフェテラスで見つけた一団だ。
見た瞬間にすぐさま近寄ってしまったのは、イッショウさんが全然見つからなくて寂しかったというのもあるが、見たことのある連中だと気付いてしまったからでもある。
「野良犬?! 飢えた野良犬か!? お、おおお、おれ達ァうまくねえぞ!」
とくに、騒いでいる鼻の長い方の男の声とその見た目に、俺はもう大興奮だ。
「わん!」
「ぎゃー!」
「おい、騒ぐな鬱陶しい」
鳴いてみると悲鳴が上がって、『ウソップ』だろう男が横の体の大きい方の髭男と寄り添った。
それを見て呆れた顔をしているほうの髭男は、多分『ロー』だ。
サングラスで目元を隠したまま、そんな仲間をほほえましそうに見ている彼女は、恐らく『ロビン』だろう。
とするとあと一人は何て言うんだったか、と顎をテーブルの端に乗せて考えた俺の横から、ふわりと伸びた手が俺の頭を軽く撫でる。
「これだけ人に慣れているのだから、飼い犬じゃないかしら」
「こ、こんな見てくれの犬を飼ってるとすると……飼い主もとんでもなくとんでもねェんじゃねェのか?」
「血に飢えた眼差し……ぎらつく牙……おい、あいつ間違いなく何人か食い殺してるぞ」
女性の横で失礼なことを言われているが、この一団に遭遇できたことが嬉しすぎて全く気にならない。さすがにイッショウさんを前に暴言を吐かれたら少しくらい噛んでやろうとは思うが、まあそんなことは無いだろう。
馬鹿馬鹿しいと一言呟いて、『ロー』がじろりとこちらを見下ろしてくる。
それに気付き、俺は机に懐くような恰好のまま、大人しく座って髭男を見上げた。
ぱたりと自分の後ろで石畳が何かに叩かれている音が聞こえたが、俺の尻尾は先ほどからびゅんびゅん動いているので仕方ない。
サングラスの向こうで相手がどんな目をしているのかは分からないが、注がれる視線を見つめ返していると、やがて『ロー』の方が先にこちらから目を逸らす。
そして、『ロー』が手元のメニューを開いた。
その手が軽く店員を手招いて、すぐに近寄ってきた相手に向けて言葉を投げる。
「さっきのコーヒーに、カツサンドも追加だ。玉ねぎは抜け」
「あら、パンは嫌いなんじゃなかった?」
命令じみた注文を受けて去っていく店員を見送って、『ロビン』が軽く頬杖をつく。
それを聞き、『ロー』の手がメニューを閉じてぽいとテーブルへ放った。
その手がひょいと取り出したタオルが俺の頭に乗せられて、がしがしと拭かれる。
少し痛いのは、さっきの傷がまだちゃんと塞がっていないからだろうか。
丁寧にタオルを使って、それから俺の傷を見下ろした『ロー』が、軽く自分の服を漁ってから何かを諦めたようにため息を零す。
「飢えた犬に、大事な人質を食われちゃたまらねェからな」
食ったらどっかに行けよねだり上手、と寄越された言葉に、俺は自分の視線が勘違いされたことを知った。
しかしまあ、くれるというなら食べないこともない。飢えるということがどれほど恐ろしいことなのか、俺はよくよく知っている。
それとどうやら、噂の『死の外科医』は動物が好きだったらしい。
結局そのまま『ロー』にくっついていったら海岸でイッショウさんに再会できたので、俺にとっての『トラファルガー・ロー』は、海賊ではあるがもはや一種の恩人ですらある。
「こらどうも、ナマエが世話ァかけたようで」
なので、再会してすぐに駆け寄った俺を後ろに庇ったイッショウさんが怒っているのがどうしてかは、分からないままだった。
ちなみに額の傷は、俺をその場から退避させたイッショウさんの副官がしっかりと治療してくれたので、戻ってきたイッショウさんに頭を撫でられてももう痛くなかった。
end
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