身勝手な恋情 (2/2)
「よ、っと」
片手で車輪を軽く回すと、からからと車いすが前へと進む。
慣れぬものを操るのに苦労しながら、ナマエは一人、院内の通路を移動していた。
もう少し簡単に移動できそうな松葉杖を頼んだら、まなじりを釣り上げた看護師に用意されてしまったのだ。
痛み止めのせいで気付いてないかもしれませんが肋骨も折れてるんですからねと唸られて、そういえばそうだった、と思い出したのはつい先ほどのことである。
軽くにじんだ汗を自由な手でぬぐい、さらに車いすを動かしたナマエが向かっているのは、小さな病院にある中庭だった。
なぜ向かっているのかと言えば、そこに『いる』と、教えられたからだ。
「……っと……あっ!」
中庭へとたどり着き、それなりに広いそこへ出るためにスロープのほうへと移動しようとしたナマエを乗せた車いすが、段差のほうへとするりと滑る。
慌てて片手で動きを止めようとしたものの、握力が足りなかったのか、ナマエの体が車いすごと前へと傾いた。
思わずぎゅっと目を閉じて身構えたナマエの体が、とん、と何かに受け止められる。
「……何をしちょる」
そうして落ちてきた低い声に、ナマエはゆっくりとその目を開いた。
それから顔を上向かせれば、ナマエを見下ろすいかめしい顔がある。
どう見ても怒っているように見える鋭いまなざしに射抜かれて、サカズキさん、とナマエの口がその名を呼んだ。
大きな手がナマエの体をおし返して、きちんと車いすへと座らせる。
そのうえでそのまま車いすをつかまれ、強制的に中庭へと降ろされた。
「ありがとうございます」
「よか」
無事に中庭に着地できたことに息を吐いて礼を紡いだナマエへ、サカズキが言葉を落とす。
その両腕が体の前で組まれ、で、と低い声がその口から洩れた。
「何をしちょる」
唸るような声音は、どうしてここにいる、と尋ねているようなものだった。
間違いなくいら立ちの混じったそれを聞いて、ナマエがその目を海兵へと向ける。
「サカズキさんが、ここにいると聞いたので」
誰に、とは言わないまでも『犯人』が分かったのか、ナマエの言葉にサカズキが舌打ちを零した。
それを聞きながら周囲を見回したナマエが、静かな中庭に軽く息を吐く。
ナマエと目の前の海軍大将以外に人影が見当たらないのは、間違いなく『大将赤犬』がそこにずっといたという証だ。
名も顔も知られている人間だからこそ、今のようにとがった雰囲気を醸し出しているサカズキへ近づきたがるもの好きは、そうはいない。
「サカズキさんは、ここで何を?」
尋ねながら、ナマエの脳裏によみがえったのは、先ほど帰って行った海軍大将の言葉だった。
『サカズキがねェ〜、会わせる顔がねェって落ち込んじゃっててねェ〜……』
ため息交じりの言葉が真実かどうかはナマエには分からないが、これだけ近くにいながらも、サカズキが病室へきてくれなかったのは事実だ。
だからこそのナマエの問いに、サカズキが眉間のしわを深くする。
眼光を鋭くとがらせ、ナマエの顔へ大量にそれを突き刺してから、やがてふいとその顔が逸らされた。
そのまま押し黙ってしまった相手に、ナマエの口からは小さくため息が漏れる。
その目がサカズキから逸らされて、自分の手元へと向けられた。
無事だった右手に着けている指輪は、ナマエが目の前の『恋人』から受け取ったものだ。
海楼石で出来たそれを親指で軽く触れてから、そっと拳を握る。
「……サカズキさん」
「………………なんじゃあ」
目を伏せたままで名前を呼ぶと、正面の海兵から返事が寄越された。
それを聞きながら、その、とナマエが言いづらそうに口を動かす。
「俺のこと……嫌いになりましたか」
恐る恐ると落ちた問いかけは、静かな中庭にふさわしいほど潜められていた。
そのまま落ちた沈黙に、どくどくと心臓が脈打つのを感じる。
片手でこぶしを握ったまま、数回の深呼吸をしてからゆっくりと顔を上げたナマエは、逸らしていたはずの顔をナマエのほうへと向けていたサカズキに、少しばかり目を見開いた。
どちらかと言えば戸惑っているようにも見える顔をしたサカズキが、それからその場に屈み込む。
車いすに座ったままのナマエへ視点を合わせるようにしてから、何の話じゃァ、と低い声が言葉を吐いた。
「なして、ナマエがそがいなことを」
「俺が、あまりにも弱かったんで」
困惑に満ちた問いかけに、ナマエはそう答えた。
落ちた言葉は、間違いなく事実だ。
ナマエは本来はこの世界ではない別の場所で生まれた人間で、この世界の基準で考えるなら非力で貧弱な男だった。
もっとちゃんと戦える人間なら、もう少しまともに抵抗できたはずだ。
きちんと逃げることだってできたかもしれない。
そうしたら、こんな顔をさせたりもしなかったのに、なんて言葉を飲み込んで、ナマエはサカズキの顔を見つめた。
不機嫌そうにも見える、いら立ちに彩られたサカズキの『怒り』は、間違いなく自分の方へと向かっていた。
原因の一端が自分にあり、ナマエを助けることもできなかったから、と言うのがナマエを見舞いに来ていた海軍大将の言い分だ。
言っていたことの全てが真実だとは思えないが、それで言うならナマエこそ、何もできなかったふがいなさに自己嫌悪を抱いて当然だろう。
「その……あまり強くはなれないと思うんですが、頑張るので」
そんな風に言いながら、ナマエは拳を握っていた右手を開き、そのままサカズキのほうへと差し出した。
差し伸べられたそれにサカズキがわずかに身を引いたが、それに構わず身を乗り出す。
そうすると背中が車いすを離れ、前のめりになったがためにバランスの崩れたナマエの体が、また前へと傾いだ。
「あ」
「…………」
それをサカズキの腕がまたも抱き留めて、それを狙いすましたかのように動いたナマエの右手が、サカズキの腕の下からその背中側へと回る。
ぎゅう、と抱き着くような格好になった相手に、サカズキは慌てた様子でナマエの体を支えなおした。
手当を受けて固定された足をいたわるような横抱きにされて、少しばかり恥ずかしくなったが、ナマエはそれを無視する。
目の前のたくましい胸板に額を押し付け、ぐうっとさらにしがみついてから、その口が言葉を紡いだ。
「俺のことが嫌いになったんじゃなかったら、別れようとか言わないでくださいね」
囁くようなナマエの言葉に、サカズキの体がびくりと震える。
わずかに身じろいだ相手を逃さず、ナマエはしっかりと相手に抱き着いた。
確かに、海賊たちに殺されることを予感したあの時間は、とても怖かった。
死ぬなんてことは想像したこともなかったし、今までそれはナマエからずいぶんと遠い場所にあったのだ。
そしてそれ以上に、自分の『死』が恋人を傷つけてしまう可能性が、ひどく恐ろしかった。
出会った頃よりもサカズキのことを知ったナマエは、サカズキのことが好きだ。
相手のためを思うなら、弱い自分がふさわしくないことはわかっていた。
それでも離れたいとは思えない、手放さないで欲しいと願う自分の身勝手さを実感したところで、じわり、と目の前の相手の体に熱がこもる。
それに気付いたナマエがその背中に回していた手をそっと前側へ戻すと、待っていたかのように動いたサカズキの大きな手が、ナマエの右手を捕まえた。
いつの間にかいつもの手袋を外していた指先がナマエのつけている指輪へ触れて、それからやがて、真上から深いため息が落ちる。
押し付けたままの顔をゆっくり上向かせると、ナマエを見下ろすサカズキと、その視線が絡み合った。
「…………ほうか」
低い声で言葉を零して、サカズキが目を細める。
それを見つめていると、ナマエの体を抱えたままだったサカズキは、少しばかり身を屈めてナマエへその顔を近づけた。
覗き込むようにされて目を瞬かせたナマエへ向けて、その唇が言葉を放つ。
「なら、せめてわしが鍛えちゃるけェのォ」
覚悟しちょれ、と言葉を落とされて、ナマエの唇に小さく笑みが浮かぶ。
「はい、お手柔らかにお願いします」
頑張りますね、なんて言い放ったナマエの言葉にわずかに口元を笑ませたサカズキは、どことなく申し訳なさそうな目をしていた。
end
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