檻の中で二人 (3/3)
「あいた」
小さくそんな声が聞こえて、それからふと鼻先を血の匂いが掠め、アーロンはぱちりと目を開いた。
一瞬自分がどこにいるのかも分からず、数回瞬きをする。
それから数秒を置いて、自分が壁にもたれかかるようにして座っていることを思い出し、その視線が自分の足の間へ向けられた。
「…………何をしていやがる、ナマエ」
「あれ、起きたのか」
アーロンの片腕を腰に回されて、ほとんど身動きが取れないような状態で座り込んだナマエが、アーロンの声に気付いてその顔をアーロンの方へと向ける。
どうしてかその片手には糸のついた針を持っていて、もう片方の手の指一本がその唇に押し当てられていた。わずかに漂った血の匂いが、ナマエがそこに怪我を負ったことをアーロンへと伝えている。
ナマエの前には、貧弱なナマエが着込むことなど出来そうにない大きさの服が一着広げられていて、それのボタンが取れ掛かっているのを視界に収めたアーロンが、その眉間のしわを深くした。
アーロンの記憶が確かなら、つい先ほどまで、ナマエはアーロンへ荒唐無稽などこかの世界の話をしていた筈だ。
何の話がいいと尋ねられて、何も覚えてねえんだ好きにしろと唸ったことは覚えている。
どうしようもない夢と希望に塗れたあり得ない話に、仕方なく耳を傾けていた筈が、あまりのつまらなさにうつらうつらとしてしまったのだ。
とりあえず、自分が眠ってもナマエが何処かへ逃げ出したりしないよう、鎖を引いたことは覚えている。
いまだにアーロンの手には鎖がしっかりと握られていて、間違いなくナマエを自分の傍に拘束していたに違いない。
しかし、それがどうして今、この人間を抱え込むような姿勢になっているのだろうか。
まるで先程の夢の延長のように、片腕に人間の温もりを感じている。
もしかすると、ナマエを抱え込んだからあんな夢を見たのだろうか。
小さな頃の記憶をたどっただけのようなあれが本当にあったことなのかどうかも、アーロンには分からない。
そんなことを寝起きの冴えない頭で考えながら、アーロンの片手がぐっと触れていたナマエの腹を掴む。
鍛えていないらしいナマエの腹は柔らかく、指先が食い込んだのか、くすぐったいとナマエがわずかに身を捩った。
「ちょっと、くすぐらないでくれ」
「……てめェは、もう少し鍛えろ」
こんなに柔くては、アーロンの歯が当たれば噛みつくまでもなく裂けてしまうのではないだろうか。
そんなことまで考えて目を眇めたアーロンの手元で、身を捩ってどうにか自分の腹を救い出したナマエが、そうするよ、と言って笑いながらアーロンの方を向く。
先ほどまで唇に当たっていた指がその口から離れているが、どちらからも少しばかり血の匂いがする。
それを嗅いで、何をしていやがったんだ、とアーロンはもう一度尋ねた。
「さっき繕い物を頼まれたから、それで時間を潰してたんだ」
裁縫道具が小さいものしかなかったんだそうだ、なんて言いながら、ナマエが手元の針と糸をアーロンへと晒す。
なるほど確かに、一見してナマエの様子は繕い物をしていたとみて間違いはなさそうだ。
寝ぼけた頭でそう判断してから、数秒を置いて、アーロンはわずかに目を見開いた。
「…………さっきだと?」
「そう、さっき」
十分くらい前かな、とナマエがこともなげに言う。
それはすなわち、アーロンが壁にもたれて寝こけていた時間帯だ。
しかも、もしかすると下等種族である人間を抱え込んで。
それを、同胞に見られたというのか。
あり得ない失態に不愉快になったアーロンが、誰が来た、と尋ねると、ナマエが魚人の名前を一つ挙げる。
それはナマエの世話を率先して行っているタコの魚人の名前で、後で脅かして口止めをしてやろうとアーロンは決めた。
そんなアーロンをよそに、それにしても、とナマエが呟く。
「眠ってる顔は小さい頃と変わらないな、アーロンは」
まるでアーロンの夢が事実だったと肯定するような声音で紡いで、下等種族が笑った。
賞金首でもあるノコギリザメの魚人を相手に、『可愛かった』とまで言い放つナマエに、アーロンの眉間のしわが深くなる。
苛立ち以外の何かが胸の隅にわいた気がして、それを遮るように舌打ちを零し、低い声で言葉を紡いだ。
「てめェの目は、どっかおかしいんじゃねェのか」
「酷いなァ」
アーロンの精一杯のうなりに、ナマエは傷付いた様子も怯える様子もなく笑っている。
その笑顔がまた記憶の中のものに重なった気がして、アーロンはそれ以上何も言えず、もう一度だけ舌打ちを零して誤魔化したのだった。
end
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