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幸せ味 (2/2)




 柔らかな毛並みが、ふわりとロシナンテの頬を擦る。

「ねえ、くすぐったいよ」

 肩を竦めたロシナンテがそう抗議をして視線を送ると、丸々と肥えた猫が、にゃあと鳴きながらロシナンテの頬からその尾を離した。
 それを追うようにころりと体を転がして、うつぶせになったロシナンテが頬杖をついて相手を見やる。
 真正面から子供に視線を注がれても、猫の方は気にした様子もなく、日向でぐるぐると喉を鳴らしている。
 気持ちよさそうに目を閉じた相手にやれやれと息を吐いてから、転がったままのロシナンテの視線が、すぐそばの掃き出し窓の向こうに広がる庭へと向けられた。

「よしよし、でかくなったなァ、お前も」

 そんな言葉を紡ぎながら、出来上がった小さめの小屋の傍で大きな体を縮めてヤギの相手をしているその人は、ロシナンテをここへと連れてきた張本人だ。
 大きく見える髪形が特徴のあの海兵は、『センゴク』と言うらしい。
 海軍の中の出世株の一人で、ロシナンテが連れてこられた家も彼の持ちものだ。
 そして、彼の家は妙に『動物』の来訪の多い家である。
 昨日は近所の犬がやってきたし、時々鳥が庭先へと集まってくる。ロシナンテの向かいにいる猫も、勝手知ったる風に庭から上がり込んで来た生き物だ。
 最初の頃は戸惑ったが、留守を預かっているらしいナマエ曰く、やってくる動物は全て『センゴク』と呼ばれるあの海兵が何処かから拾ってきた動物であるということだった。
 ボロボロの状態だったりもする動物達がある程度快復すると『引き取り手』を捜して、そちらへ渡すのが常だと言う話だ。
 今、海兵が作り上げた小屋の主となるヤギも引き取り手を捜している途中だそうで、大きな手に頭を撫でられてメエと鳴く彼だか彼女も、どことなく幸せそうな顔をしている。

『本当は全部飼ってやりたいんだけど、際限なく拾ってくるからな、センゴクさんは』

 穏やかに笑ってそう言ったナマエもロシナンテと同じく『拾われた』身の上であるということだから、あの海兵の優しさは筋金入りと言うことだろう。
 それなら自分もどこかの誰かに『引き取られる』のだろうかと不安になったロシナンテに、お前はどこにもやらないぞと言ってくれたのもセンゴクだった。
 『息子』みたいなものだと言って笑ってくれたそれに、泣きそうになったのはつい二週間ほど前のことだ。

「ロシー、ここにココアを置いておくから」

「あ、」

 そこまで思い出したところで声が掛かって、ロシナンテは慌てて起き上がった。
 そのまま立ち上がって手伝いをしようとしたのを、くすくすと笑ったナマエが片方の掌を晒して遮って、他の飲み物が乗っているだろうトレイを片手にロシナンテの隣を通り過ぎていく。
 ありがとうと紡ぎながらそれを見送り、それから視線を動かしたロシナンテは、ローテーブルの上に置かれた子供用の小さなカップと、その上に乗せられたふたを見やった。
 カモメの飾りのついたふたの下にあるのだろうココアの甘い匂いが、ふわりとわずかにロシナンテの鼻をくすぐる。
 とても甘くて穏やかな雰囲気を醸し出すそれに、どうしてだかロシナンテの薄くて小さな胸がぎゅっと痛くなった。
 それから逃げ出すように視線を動かしたロシナンテが、窓の傍に立つナマエとその向こうにいるセンゴクを見やる。
 温かな寝床、温かな食事、穏やかな時間、平穏な毎日。
 ロシナンテが連れてこられたこの家の中には、恐らくはロシナンテの父親が求めたのだろう小さくて確かな幸せが満ちていた。
 嬉しくて、どこかにいる『兄』を思うと少し後ろめたくて、そして失うことが恐ろしくてたまらなくて、自分の素性を未だに打ち明けられないロシナンテに対して、センゴクもナマエもそれ以上の追及すらしない。
 いつかは言わなくてはいけない。それ以上に、必ずこの恩を返さなくてはならない。どこかへ行ってしまった『兄』も、いつかは見つけなくては。頼りになった恐ろしい『兄』だって、きっとこの温かさを知ったら離れられなくなるし、穏やかになってくれるかもしれない。
 そう感じながらも、現状を崩すのが怖くて未だに口をつぐんでしまっている弱いロシナンテの頭を、センゴクやナマエの大きくて温かなあの手は撫でてくれるのだ。

「センゴクさん、そろそろ休憩にしませんか」

「ん? ああ、もうそんなに経ったか」

 窓の内側からナマエが言葉を投げかけると、身を起こしたセンゴクがそんな風に言って笑う。
 肩に掛けていたタオルでその顔ににじんでいた汗を拭って、近付いてきた相手へナマエが濡らしたタオルを差し出した。
 受け取ったそれで手を拭きながらセンゴクが、そのまま窓の端へと腰を降ろす。
 外に足を放ったままのセンゴクの傍らへ同じように座って、ナマエが持っていたトレイから掴んだグラスを相手へと差し出した。
 それを受け取ろうとしたセンゴクの手がわずかにナマエの指に触れて、ぴく、とわずかに硬直する。

「い、いつもすまないな」

 ほんの少しのそれを誤魔化すようにそう言ったセンゴクが笑いかけると、いえ気にしないでください、とどことなく慌てたように答えたナマエが少しだけ身を引いたのがロシナンテの視界に入った。
 恥じらうようにその目を伏せてから、すぐにナマエが立ち上がる。

「おやつも持ってきますね。おかきじゃないですけど」

 普段と変わらぬ様子で言葉を放ったナマエに、目に見えてほっと息を吐いたセンゴクが、いつもと変わらぬ笑顔でそれへ応えた。

「何だ、違うのか」

「うちにあったおかきは全部誰かさんが食べちゃいましたからねー、新しいのは今日の夕方に買いに行くんです」

「なるほど、けしからん奴がいるもんだ」

 おれが後でとっちめておこう、なんて言葉を放ったセンゴクに、それじゃあ鏡の前に行ってみてくださいと笑って返して、ナマエが窓の傍から離れてくる。
 途中でロシナンテの傍も通りかかり、プリンだから手を洗っておいでと優しく寄越されたそれに頷いて素早く立ち上がったロシナンテは、最後にもう一度とまどろむ猫の頭を撫でてから手洗いの出来る洗面所へと移動した。
 ぱたぱたと小さな足で足音を立てながら、うーん、と幼い声が小さく声を漏らす。

「やっぱり、そうだよね」

 誰にともなく呟いてみるが、ロシナンテへ返事を寄越してくれる相手はいなかった。
 聡明な『兄』なら『そうだえ』と頷いてくれたかもしれないが、今ここに『兄』はいないのだからどうにもならない。
 しかし、幼いロシナンテにも分かるほどに、ナマエとセンゴクはあからさまだった。
 手と手が触れ合うだけでドキドキするのは『運命の相手』なんだと、いつだったか『母』がロシナンテへこっそりと教えてくれたから、つまりナマエとセンゴクは『運命の相手』同士だということだろう。
 ただ一つの問題は、お互いがお互いに、『相手が自分を愛してくれている』と思っていないようであるということだった。
 それぞれに別々に訊ねてみたが、ロシナンテの問いにナマエはどことなく寂しそうに首を横に振ったし、センゴクの方と言えば後退って転び小さかったヤギ小屋を破壊した。
 相手は貴方を好いているのだとロシナンテが訴えてみても、小さな子供の言うことだと受け止められてしまうらしく、どうにもならない。
 それどころか『お前はどうなんだ』と返されて、真っ赤になって答える羽目になったのはロシナンテの方だった。
 こうなれば、あとはお互いが自身で確かめてくれるしかないのだと思うのだが、『母』や『父』の読んでくれた絵本の内容しか知らないロシナンテに恋愛の技術は皆無だ。
 男と男がロシナンテの『父』と『母』のようになれるのかはロシナンテには分からないが、二人の間に子供が生まれれば、それはロシナンテの弟か妹のようなものだろう。もしもここへ『兄』を連れてくることが出来たなら、『兄』にとっても同じだ。
 あの日々の中、ロシナンテを守ろうとしてくれていた『兄』のようには出来なくても、ロシナンテだって全力でその子供やナマエやセンゴクを守ると決めている。
 助けてくれた恩を返すのには、やはりそれが一番だ。
 いつか秘密を打ち明けた時、『天竜人』であるロシナンテが拒絶されたとしたって、ロシナンテは自分の全てを使って彼らを守るのだ。
 ロシナンテの決意は固いからこそ、あとは二人が夫婦となって子供が生まれればいいのだが、ロシナンテに何かできることは無いだろうか。

「……んー」

「どうしたんだ、難しい顔をして」

 思い悩みながら手を洗って戻ったロシナンテへ、そんな風に言ったナマエがプリンを運んでくる。

「何でもないよ」

 ロシナンテがそう言って誤魔化すと、やはりそれ以上の追及はしないナマエが、ただ『そうか』と言ってからもう一つのプリンをロシナンテのものの隣へ置く。

「今日はプリンか」

 いつの間にか家の中へ入ってきたらしいセンゴクが、すぐそばのキッチンで洗ったらしい手をタオルで拭いてから、ロシナンテの隣に座った。
 両手を合わせて『いただきます』を言ったセンゴクに、慌ててロシナンテも動きを倣って同じ台詞を口にする。
 召し上がれ、なんて言って向かいに座ったナマエもまた同じ言葉を口にして、三人で揃って大きさの違うスプーンを掴む。
 みんなで一緒に食べたプリンはとても甘くて、幸せの味がした。



end



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