コーヒーブレイク (2/2)
「くさい」
「それ面と向かって言われたくない台詞過ぎるんだけど」
「くさいものはくさいよ。ナマエ、くさい」
思春期の娘のようなことを言い出したミス・ゴールデンウィークに、俺はがくりと肩を落とした。
すっかり鼻が馬鹿になってしまっているので分からないが、俺は今、余程きつく香っているらしい。
それもこれも、あの可愛くも恐ろしい船医を巻くためだ。
買い物まで済ませて戻った船はもう物資の補給も終わったらしく、今夜にも出航するらしい。
タラップを上がった先の甲板で、よかった、と息を零す俺をよそに、何買ってきたの、と言う問いかけが寄こされた。
そのままじっと向けられた視線は、俺が持ってきた紙袋へ注がれている。
「食べ物の材料だよ。スコーンでも作ろうかと思って」
「スコーン?」
「あまり甘いものは食べないみたいだから」
当人に聞いたことは無いが、クロコダイルは俺が見ている限り、あまり甘いものは食べない人だ。
それじゃあどうしようかと考えて、結局スコーンと言うことで落ち着いた。簡単なレシピも聞いたし、一応それが載っている本も買ったから、これから何度か試作する予定だ。
ふうん、と相槌を打ったミス・ゴールデンウィークは、試作品いくつかちょうだい、と可愛らしいおねだりを言った。
いいよ、とそれに答えると、あまり表情は変わらないながらも嬉しそうな眼をした彼女の手が、ひょいと筆を掴む。
「それじゃあ、これはサービス」
「ん?」
言葉と共に筆先が俺の腕に触れて、くるりと丸く円を描いた。
いつも使っているのとは違う、少しオレンジの色味が混じった赤に戸惑った俺を見上げて、彼女の口が言葉を紡ぐ。
「これはねナマエ、『勇気』の赤。ナマエが逃げたりしないように」
「逃げたり……?」
どういう意味だと尋ねた先で、そう、と答えたミス・ゴールデンウィークの手が、持っている筆で俺の方を示す。
寄こされたそれが背面を示しているものだと気付いて振り向いた俺は、そこで葉巻をくゆらせている相手を見つけて、思わず顔を彼女の方へと戻した。
「何度かナマエが戻っているか確認してたよ」
がんばれ、と無表情に激励を寄こされたが、骨は拾ってもらえるんだろうか。
そんな馬鹿なことを考えつつ、俺は小さな手に押しやられるがままにくるりと後ろを向いた。
煙を零した相手が、俺が振り向いたのをじろりと見やってから、こちらへ背中を向ける。
そのまま船内へ入っていくその仕草は、俺の受け取り方が間違いなければ『ついてこい』と言っているのだ。
だからそれを追いかけて、俺は船内へ足を踏み入れた。
※
まさかクロコダイルに『来い』と示されて、荷物を置きに行く暇があるはずもない。
だから荷物を手に持ったまま室内へ足を踏み入れた俺は、足元へ落ちた砂達に、自分の失敗に気が付いた。
ミルクもバターもレシピ本も、ついでに言えば紙袋もすべてが可哀想な砂になっている。
一部白いのは小麦粉がそのまま混ざっているからなんだろうが、さすがに砂と混じったものを使おうとは思えない。
「……何を買ってやがるんだ、てめェは」
俺の手荷物を丸ごと砂に変えた相手の方は、俺の足元へ落ちた砂を検めて、怪訝そうに声を零した。
とりあえず砂が広がって部屋を汚さないように気を付けつつ、俺は軽く腕についた砂を払い落とす。
「スコーンの材料です」
部屋に入った時に聞かれて答えたのと同じ台詞を紡ぐと、わざわざ船を降りて買いに行くもんじゃねェだろうとクロコダイルが口にした。
確かに、レシピ本以外のどれもが、恐らくこの船の厨房へ行けば用意できるものだ。
けれども、それはみんなが食べるためのもので、今砂になったのは俺が自分の為に買ってきたものだった。
「どうせなら、自分で選んでみようと思ったので」
だからそう言うと、どこの誰にかぶれた、と低い声が問いを寄こした。
意味が掴めず首を傾げると、こちらを見下ろしたクロコダイルの手が俺の顎を救い上げるようにして捕まえる。
「料理なんざ興味もねェだろう。誰の影響だ?」
尋ねつつ見下ろしてくる眼差しは鋭く、初めて出会った頃の俺だったら今すぐ土下座でもして見逃してもらおうとしたに違いない。
けれども今の俺は、探るように注がれるその視線をじっと見つめ返すことが出来るくらいにはなっていた。
その顔を見やると何となく思い出すのは、ついこの間、ミス・バレンタインと交わした会話だ。
『だって、それって』
言われた時はまさかそんなと笑い飛ばして、けれども、もしかして、と思ってしまった。
全部俺の浅はかな欲望が現実を曲げているのだと分かっているのに、期待してしまう自分もいる。
「趣味の悪ィ香水もそいつに合わせたのか」
だってそんなことを言うクロコダイルが、なんだかイライラして見える。
支配欲からくる独占欲だとか、もし発生してもそのくらいだろうに、クロコダイルが俺を『独占したい』と思ってくれていたらそれはそれで嬉しいというのだから、人間と言うのはきっと生まれつきどうしようもない生き物だ。
「……香水は、あの、買って試してみたら付け過ぎてしまって」
帰ってくる途中で用意した言い訳を口にしてから、俺はもぞりと身じろいだ。
誰かさんが俺の行方を辿ったり出来ないように、念入りに使った香水は多分、俺の体のあちこちから香っていることだろう。
「それで、買い物は、その」
足元の砂が靴に当たって、わずかに音を立てる。
なんと言ったらいいものか、考える俺を見下ろすクロコダイルは怖い顔だが、言わなければ多分解放すらもされないだろうということはさすがに分かった。
「…………実は俺、もう少しまともにコーヒーを淹れたくて、練習中で」
だからこそ紡いだ俺の言葉に、わずかにその眉間の皺が深くなる。
指に力が入ったのは、関係の無いことを口にしていると思われたからだろうか。
少し体が乾いた気がしたが、気にせず言葉の続きを紡いだ。
「うまく作れるようになったら、その、コーヒーと一緒にスコーンとかどうかと、思ってまして」
『ナマエに会いたいだけでしょ』
そのお供のコーヒーくらい上達しなさいよ、とかなんとか、そんなことを言われた時にはいやいやまさかと笑い飛ばした。
しかしそれでも数日を置いて、もしも本当にそうだったら、と考え直したのだ。
いや、ミス・バレンタインが言うようなことではないとしても、あの味のコーヒーをわざわざ求めているわけではないとしたら、と言うことだ。
だったら俺としても、クロコダイルの口に入るのは美味しいものが良いに決まっている。
とは言え急に味を変えても飲まなくなる可能性があるし、何かきっかけに出来そうな変化を付けられないかとしばらく考えていたのだ。
それならついでに朝食になりそうな軽いものを付けろ、と言ってきたのはダズだった。
何がついでなのかは分からないが、寝起きはいつもコーヒー一杯のクロコダイルを心配しているらしいので了承した。
コーヒーに合うものなんてよく分からないが、俺でも作れるものがいいと話していたらスコーンはどうかとなり、それならばと練習用の材料を求めて島へ降りたのが、今朝のこと。
その結果が足元の砂なわけではあるが、今は気にしても仕方ない。
「…………チッ」
口を閉じてしばらく、じっと見つめて待っていた俺の前で、クロコダイルが短く舌打ちを零した。
その手が俺の顔を手放して、口に咥えたままだった葉巻が煙を零す。
「おい」
「は、はい!」
「さっさとそこを片付けて、その悪趣味な匂いを落としてこい」
声を掛けられて直立不動の姿勢を取った俺に、クロコダイルはそう言った。
そのままふいと顔を背けられ、ソファへと歩いていく姿を思わず見送る。
それを見つめて目をぱちりと瞬かせると、ソファへと座ったクロコダイルの手が小さな電伝虫を取り出した。
「その間に材料を手配してやる。好きなだけ厨房で遊んでろ」
そんな風に言葉を零され、俺はソファに座った相手の機嫌が良くなったことを知った。
ちらりと視線を寄こしたクロコダイルが、ローテーブルへ電伝虫を置いてからひじ掛けに頬杖をつく。
「完成品は練習の成果とやらと共に持ってこい、ナマエ」
犬にでも言うように言い放たれて、むず、と腹の底がくすぐったくなった。
どうやら今日のクロコダイルは、寝起きでもないのに俺のコーヒーを飲んでくれるつもりらしい。
そんなの初めてで、緊張でドキドキする。
「……はい!」
それでも嬉しいことは間違いなく、口から出た声は間違いなく弾んでいた。
それを聞いてクハハハと笑ったクロコダイルが零した煙は、ゆらりと揺らいで部屋の空気へ溶けていった。
end
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