蟲毒の澱 (7/7)
「う、動くな!」
さて次はサカズキの方を手伝わねば、と体を翻した俺の耳に、鋭いそんな声が届いた。
怪訝に思って顔を向ければ、島民達を避難させていたはずの後輩達が、また何かを取り囲んでいる。
島民もまた同じで、サカズキもその輪の中に入っていた。
見やったサカズキ側には、いくつかの焼死体が転がっている。生きている人間は見当たらない。
いやな予感がして足早にそちらへ近付くと、またしても、動くなという悲鳴じみた命令が放たれた。
「…………お前……」
そうして、その声の主を視界に入れて、俺は思わず目を見開く。
服のあちこちを焦がしながら、震える手でナイフを手にしているのは、日に焼けた黒髪の『同期』だった。
そして、その腕には芸のないことに人質がいる。
しかし問題は、その人質が今度こそ、誰がどう見ても『協力者』ではないということだった。
「う、ぇ……っ」
大きな目に涙を浮かべた子供が、『同期』の腕の中でがたがたと震えている。
見覚えのあるその顔は、昨晩顔を合わせた子供のものだった。
その首に食い込んだナイフが小さな傷口から血を零させて、すでに上着の襟が汚れている。
「……サカズキ……」
「あァ、すまん、取りこぼした」
思わず呻いてしまった俺の横で、憎々しげにサカズキが声を漏らす。
どう見ても海兵の姿をしている男だ。思わず手心を加えてしまったんだろうと判断して、俺はわずかに息を吐いた。
「武器を捨てろォ!」
人質をとった卑怯者からの求めに、仕方なく血まみれのサーベルを放り捨てる。
がらん、がらんといくつか音が鳴り、同じように他の海兵達も武器を捨てたのが聞こえた。
「…………元とは言え海兵が、子供を人質にとるのか」
非難がましく声を掛けると、うるさい、と金切り声が上がった。
汗を浮かべ、ふうふうと荒く息を吐く相手の目が揺れている。
様々なことを考えているのだろうと分かるそれを見ながら、俺は片手で後方を示した。
「もう船も無いのに、そんなことをしてどうする」
サカズキが潰した船は、すでに海の藻屑だ。
村の電伝虫で船を呼ぶにしても時間がかかるし、それだけの間の時間を人質を取って費やすることは出来ないだろう。海兵側の人員を増員してしまうだけだ。
当人もそれは分かっているんだろう、うるさいともう一度声を上げた相手が、自身を落ち着かせようとでもするように大きく息を吸い込んだ。
「お前らが……お前らが悪いんだ、俺達は島民に危害を加えるつもりはなかった! ただあのまま、アイツらについていくだけだったのに!」
「人質を装ってか。それならまあ、サカズキもさすがに攻撃できないだろうからな」
俺の知る『サカズキ』なら構わずマグマを打ち込んだだろうが、俺の傍らの男は違う。
そうだ、なのに計画は丸つぶれだ、と悲鳴を上げて、よどんだ目が俺達を睨みつけた。
「俺も殺されるんだろ? 『ナマエ』、『サカズキ』、お前らはそういう奴らだ……」
何かをあきらめたようにそう言って、それから何かに閃いたようにわずかにその目が見開かれる。
そうしてそれから、おい、と『同期』は俺より少し前にいる海兵の一人に声を掛けた。
「海楼石の手錠、持ってるよな?」
「は……?」
「それを掛けろ、今すぐ、そいつに! せめてあいつを殺すお前だけでも!」
気がおかしくなったのか、意味不明なことを口走った『同期』が、その足先で俺とサカズキのいる方を示す。
戸惑ったように身じろぐ後輩に、構わん、と声を掛けたのはサカズキだった。
それもそうだ。海楼石の手錠なんて、悪魔の実の能力者であるサカズキにしか意味がないのだから、サカズキのことを示しているとしか思えない。
問題は、相手の要求に従ってしまったら、悪魔の実の能力者であるサカズキが、恐ろしく弱体化してしまうということだった。
マグマになることのできない体になれば、どんな物理攻撃だって効いてしまう。
「着けたら、俺の方へ来い! ゆっくりとだ!」
そして、間違いなく、相手の狙いはそれだった。
何を馬鹿なことを、と唸る俺の横から歩み出たサカズキが、その片手を仲間の一人へと差し出した。
「サカズキさん、でも、それじゃあ……」
「構わん、と言うちょる。はようせんか」
言葉を吐き出して、サカズキが年下の同僚を急かしている。
しばらくの逡巡ののちに、やがて海楼石の手錠がサカズキの方へと差し出された。
無抵抗になることを示すそれに、何故だか俺の体が強張る。
視界に入るサカズキの背中と、そして子供を人質に取ってゆがんだ笑みを浮かべる『悪』に、ぞわりと背中が冷えたのを感じた。
俺は、この光景によく似たものを知っている。
あの時は、確か。
『だーいじょうぶ、だろ?』
耳に蘇ったのはもはやずっとずっと昔に失ったはずの声で、掌に冷え切った幻覚を覚えた次の瞬間には、俺は自分が大地に転がしたサーベルを握っていた。
屈みこんだその体勢のままで大地を蹴飛ばし、今まさに手錠を掛けようとしていたサカズキと海兵の間をすり抜ける。
首にナイフを突きつけられ、びくりと男が震えただけでさらに傷付くだろう人質の無事なんて、何一つ頭には浮かばなかった。
いやむしろ、人質に取られた方が悪い。あの日の俺のように。
それなら、『悪いもの』は、排除しなければ。
「……ナマエ!」
じゅ、と肉を焼く音が聞こえて、左手に握っていた『ナイフ』が落ちた。
それに気付き、ならばと右手で握ったままだったサーベルを引き抜こうとしてから、それを後ろからしがみついて抑え込まれる。
「ナマエさん、おちついてください、ナマエさん!」
それから必死になって上がる声が聞こえて、そこでようやく、俺は状況に気が付いた。
ぜい、はあ、といつになく息が荒れていて、片手に握ったサーベルが重い。
確認するように視線を向ければ、それはそのまままっすぐに、あの『同期』の口へと差し込まれていた。
わずかに上向いた切っ先はそのまま口蓋から頭の方へと抜けていて、身じろぎもしない男は間違いなく死んでいる。
初撃で殺したなら何を必死になっていたのかと戸惑い、視線を下へと向けた俺は、その理由にたどり着いた。
「あ……あ、あ……っ」
恐怖にひきつった顔をした『人質』が、死んだ男の腕に掴まれたまま、怯えたその眼差しをこちらへ向けている。
俺が奪い取ったときにナイフの先がひっかいたのか、細くて貧弱な首には少しばかり傷がついていて血がこぼれ、先ほどよりもその服を汚していた。
傾いた幼い体は、俺の膝に押されてもはや物言わぬ躯と化した男の体に押し付けられ、わずかに上向いた首元が俺の方へ向けて晒されている。
そう仕向けたのは俺だ。
片手がサーベルで塞がっていたから、そうするのが効率的だった。
そうして、奪い取ったナイフの切っ先を、そこへ振り下ろすつもりで。
今、俺は、何をしようとしていたのか。
「…………!」
思い出したのと同時に左手が酷い痛みを訴えて、視線をそちらへ動かした。
そうして、腕の先の手首から指の付け根までが焦げていることに、思わず目を見開く。
「手! 手ー!」
俺と同じく俺の左手を見たらしい後輩が、悲鳴じみた声を上げた。そういえばこの声は、山道の途中で置き去りにしてきた彼のものだ。
慌てたように近寄ってきた他の海兵達が俺の右手をサーベルから引きはがし、子供を抱き上げ、俺のことも引き離す。
改めて見ればすぐそばには小さなマグマだまりができていて、俺の手を焼いたものがそこに着地したんだろうと、どうでもいいことに考えが廻った。
ゆっくりと瞬きをして、それからゆるりと視線を向ければ、近寄ってきたらしいサカズキが俺のことを睨んでいる。
その腕には海楼石の手錠が片方ぶら下がっていた。俺の腕を焼いてから着けたんだろうか。
もう片方の手にはサカズキには少し小さい白いコートが握られていて、そういえば自分がコートを羽織っていないらしい、ということを認識する。また落としたのか。
「おどれ、どういうつもりじゃァ」
低く落ちるその声は、怒りが滲んで聞こえる。
それもそうだろう。『同期』だった男を殺すのまではともかく、海兵が人質を殺そうとするなんて普通ならありえない。
いくら俺が見境なく海賊を殺すとしたって、民間人を殺したことなんてなかった。
けれどもつい先ほど、止められるまでのあの瞬間、俺の頭には『人質』を排除することしかなかった。
それが何故だったのかなんて、考えるまでもなく、理由は分かっている。
「……俺、駄目な奴だなァ」
自分への呆れが声に宿ったのを感じながら呟くと、ぴくりとサカズキの眉が動いた。
「答えになっとらん」
苛立ちの滲む声を落として、サカズキが拳を握りしめる。
怒りに満ち溢れたその眼差しの中には、それでも俺を理解しようと考える心があるように見えた。
俺が知っていた『サカズキ』だったら、自分の正義以外の信念なんて歯牙にもかけないだろう。
やっぱり違うんだなと、片手に手当てを受けながら諦めに近いそんなことを考えたところで、サカズキの拳が振り上げられた。
「おどれ、この期に及んでそがいなツラをしよるたァ、いい度胸じゃァ!」
苛立ちの目立つ声の歪みに気をとられている間に、がつんと頭を殴られる。
普段のサカズキよりも少し弱い感触だったはずなのに、倒れこんだ先が石畳だったせいか、俺はそのまま気を失っていた。
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