ひだまりのうち
※『幸せ味』から続く家族シリーズ
※若センゴクさん
※ほぼほぼロシーそしてヤギ
めえ、と小さく弱弱しい鳴き声が響く。
それを耳にしてしまったセンゴクは、物陰に隠れていた幼い生き物をその目に捕らえた。
「どうした、そんなところで」
呼びかけつつ近寄って屈みこむと、おずおずとセンゴクを見上げる小さな動物がいる。
本当に幼いその子ヤギは体にいくつか傷を負っていて、血を滲ませていた。
野犬に襲われたか、もしかすると心無い人間に虐待じみたことをされたのかもしれない。
首輪やベルもついていない相手を見下ろし、ふむ、と声を漏らしてから、センゴクの手がそっと小さな生き物へと差し出される。
「おれと来るか」
優しげに響いた海兵の問いかけに、めえ、と子ヤギが鳴き声を返した。
※
「わあ、ヤギさんだ!」
嬉しげな声を上げたロシナンテが、お帰りなさいと飛びつきかけた格好のままでぴょんぴょんと上下に跳ねた。
いつもだったらそのまま飛びつきしがみついてきているのだが、センゴクが布に包まれた動物を抱えていることに気付いてそれを辞めたらしい。
先日、あまりの勢いと靴を脱ぐタイミングだったところでセンゴクがよろけてしまったのを覚えているのだろう。
賢い子供に笑いかけて、靴を脱いだセンゴクが家に上がってから屈みこむ。
「怪我を診てやりたいんだが、専用の救急箱をとってきてくれるか?」
「はあい!」
センゴクの言葉に元気よく返事をして、ばたばたとロシナンテが駆けていく。
転ぶから走らなくていいぞ、とセンゴクが声を掛けたところでなんとも不運に足を滑らせた小さな体が床へ倒れこみ、そしてそれからすぐに起き上がった。
「だいじょうぶ!」
恥ずかしそうに照れた笑いを浮かべて言葉を放ち、ロシナンテはそのまま物置のほうへと向かっていく。
立ち上がるのが早くなったな、とそれを見かけて思いつつ、センゴクは腕の中のヤギを抱えなおした。
「お帰りなさい、センゴクさん。今日もご無事そうで何よりです」
そこでようやく家の奥から顔を出してきたナマエが、そんなふうに行って近寄った。
少しだけ不思議そうにセンゴクの腕を見るのに、土産だ、とセンゴクが笑う。
その言葉だけで中身を理解したらしいナマエは、先ほどロシナンテがやったように布の端から出ている足先を確認して、ヤギですか、と呟いた。
「先月引き取られた子を連れてきた時より小さいですね」
「ん? そうか」
「そうですよ」
言いつつセンゴクを先導するようにして歩き出したナマエのあとを、センゴクは追いかけた。
センゴクの腕の中でおとなしくしている子ヤギが、小さくめえと鳴く。
おなかもすいてそうですねェとそれを聞いて言葉を零し、先に大きな窓の面したリビングへと足を踏み入れたナマエは、端に畳んで置いてあったブランケットを広げた。
よくロシナンテが昼寝に使っているそれを日当たりのいい場所に敷いて、どうぞ、と促すのに頷いてセンゴクもその傍に座る。
それからそっと抱いてきた子ヤギをその上におろすと、痩せた子ヤギがころりと転がり、包まれていた布の内側で頭を上げた。
取り払ってやった布の中から頭が出て、不安そうな目がセンゴクやナマエを見やる。
「小屋片づけてなくてよかったですね、センゴクさん」
「ああ、そうだな」
寄越された言葉に頷きつつ、センゴクは窓の外の庭を見やった。
大きな庭の一角に、センゴクが作った小屋がある。
つい先月まではそれに主が存在したが、センゴクが拾って連れて帰り、元気に育ったあのヤギはつい先月引き取り手が見つかって引き取られて行ったのだ。
動物が好きらしいロシナンテが友人との別離を悲しみ、泣かなくなってからもせっせと掃除をしていたため、小屋自体はきれいなものだ。
屋根は一度ドジで壊されたが、すぐにセンゴクが直してある。
今日からでも使えるだろう。
しかし、あの小屋は、この子ヤギには少し大きいのではないだろうか。
「もう少し大きくなったら、あそこがお前のおうちになるからな。元気に育てよー」
センゴクの考えを読んだように、そう声を掛けたナマエがそっと子ヤギへ手を伸ばす。
一応センゴクが軽く手当てをした子ヤギの体を見分し、水が必要ですね、と呟いたナマエはひょいと立ち上がった。
「水を汲んできます。一人にしたら可哀想ですから、少しだけ着替えるの我慢しててくださいね」
「ああ、わかった」
微笑んでそんなことを言う相手にセンゴクが頷くと、ナマエはすぐに水を汲みに台所の方へと進んでいった。
途中で少し大きな物音が聞こえたので、物置でロシナンテが何かをひっくり返したのかもしれない。
びくりと体を震わせた子ヤギを落ち着かせるように無傷だった背中を撫でてやりながら耳を澄ませば、ロシナンテの名前を呼んで歩いていくナマエの足音がきこえる。
言葉までは分からないが、ナマエとロシナンテのやり取りが少しだけ漏れて聞こえて、自宅へ帰ってきたことをセンゴクへ感じさせた。
センゴクには、今、血のつながらない『家族』がいる。
どちらも、センゴクが保護した人間だった。
海兵というのは、困っている民間人を守ってやるのも仕事のうちだ。
動物はともかく、人の場合はセンゴクが助けた後は海軍の監察を経ていくべき場所を見出すか、はたまた帰るべき場所へと帰っていく。
そのどちらもせずセンゴクの元を『自分の居場所』と定めたのはナマエと、そしてロシナンテだけだった。
ロシナンテも、ナマエがいなかったならおそらく、センゴクの近くにはいなかっただろう。
胸に大きなやけどを負い、生死の境だったナマエはセンゴクがそれを見つけて保護してからずっとセンゴクの傍にいて、センゴクが拾った様々な生き物の世話を焼く。
ついでのようにセンゴクの世話もして、毎日がいたく快適になった。
『そこまで頑張ってくれなくても、追い出したりはしないぞ』
家事をこなすナマエがあまりにも頑張っているように見えて、思わずそんな風に言ってしまったのはともに暮らし始めて数か月した頃だったろうか。
負担なのではないかと考えてのセンゴクの言葉に、ナマエはすこしばかりきょとんとした顔をして、それから穏やかに笑った。
『センゴクさんが気持ちよく過ごしてくれるのを見るのが好きなんですよ』
俺の自己満足なんで気にしなくて大丈夫ですよと、気遣うようにそんなことを言われたのがこそばゆく。
そして弁当まで作り始めたナマエによってセンゴクが密かに結婚したなんていう馬鹿な噂を立てられたのも、もはや懐かしい思い出である。
『いいじゃないか、そんなに大騒ぎしなくても。悪く思っちゃあいないくせに』
噂の出所を探し回り、適当なことを言ったガープを怒鳴りつけて喧嘩にすらも発展したが、その時に止めに入ったつるのせいで自覚してはならないものまで知ってしまった。
おかげで結局ナマエを手元からは逃がしてやれないまま、ナマエはすっかりセンゴクの『家族』となり、そしてそこに息子のような存在としてロシナンテが加わった。
いつまで続くかもわからぬ幸福は、センゴク自身が壊したいとは思えないほどに深くセンゴクの身のうちに染み込んでいる。
ロシナンテについても、親がその立場を捨てたとは言え、『天竜人』を保護しているだなんてこと、本来なら上層部に報告なりしなくてはならない事実だが、口が裂けようとも言うつもりはない。
そして、大事なただ一人に自分の胸の内を告げることもまた、その後の拒絶を想像すればするほど口にはできないことだ。
「……ん? ああ、すまないな」
考えている間に手が止まったらしく、めえ、と側から子ヤギの鳴き声が掛かった。
それを聞いてもう一度背中を撫で、それから頭のほうへと手をやると、子ヤギがじっとセンゴクを見上げている。
人におびえる様子の無いそれに、やはり野犬に襲われただけか、とセンゴクは判断した。
それなら、人にも懐きやすい。引き取り手もすぐに見つかるだろう。
傷を癒し、もう少し育ったら探してみるかと一人思案したセンゴクの脳裏に、ふと先月大泣きしていたロシナンテの顔が浮かぶ。
また泣かせてしまうのではないかと考えると忍びないが、これも経験だろうか。
なんと言って慰めたものか、と気の早い考えをしたセンゴクの口が、ふうとため息を零した。
「センゴクさん、持ってきたよ!」
ぱたぱたと足音を立てて駆け寄ってきたロシナンテに、ああ、と声を漏らしたセンゴクの視線が向けられた。
急に近寄ってきた子供に子ヤギが慌てたように身を揺らすが、センゴクがもう一度その背中を撫でてどうにか落ち着かせる。
怯える子ヤギに気付いたロシナンテが足を止めて、少しだけ困ったような顔をした後、そろり、と近寄る速度を極端に落として足を踏み出した。
「すごくたくさんケガしてる?」
「命に別状はなさそうだが、まあ少しだけな。どれ、貸しなさい」
「うん、でも、すごく痛そう」
憐れむようにそう言い放ち、動物達用の医療具が入った箱を差し出してきたロシナンテから受け取って、センゴクがそれを自分の側へと置いて広げた。
ナマエがきちんと補充しておいてくれたのか、薬品に足りないものはなさそうだ。
「ナマエはどうした?」
「あ、やっぱりあったかいほうがいいからって、おゆ作ってたよ」
そろそろと近寄り、それからそっとセンゴクの後ろに座り込んだロシナンテが、そんな風に言いながらセンゴクの後ろから子ヤギのいる方を覗き込んだ。
隠れて伺っているつもりなのかもしれないが、子ヤギはしっかりとロシナンテを見つめ、ぱちりとその目を瞬かせている。
「めー」
「めえ?」
「めえ」
「めー」
めえ、と鳴かれてめえと鳴き返すロシナンテにセンゴクが軽く笑ったところで、湯を用意したらしいナマエがちいさなタライとタオルを手に戻ってきた。
「そういえばセンゴクさん、ちょっとお耳に入れたいことが」
「ん?」
救急箱を置いたのとは逆側に屈んだナマエがタライなどを置きながらそう声を掛けてきて、センゴクは少しだけナマエのほうへと体を傾かせた。
その分見える範囲が大きくなってしまったが、ロシナンテはすっかり子ヤギと鳴きかわすことに夢中で、気にした様子もない。
「あのですね……ロシーがその子をずっと飼ってほしいと言ってましたよ」
そろりと耳打ちされ、さらには『俺もそれに賛成です』と言葉を続けられて、センゴクは少しばかり目を丸くした。
戸惑ったように視線を向ければ、ナマエが申し訳なさそうな笑顔を浮かべる。
「次に『ヤギ』が来たらお願いするから味方してほしいって、お手伝いがたくさんできる良い子におねだりされちゃってて」
だからよろしくお願いします、と続いた言葉に、センゴクは自分の傍で先ほどからずっと子ヤギに鳴き声を投げている可愛らしい子供を見やった。
センゴクの視線にも気付いた様子がなく、あいかわらずセンゴクの後ろに隠れるようにしたまま、めえめえと鳴き声を零したロシナンテがそろりと短い手を伸ばして子ヤギの体に触れている。
かなりのドジを発揮する子供はまだまだ幼く、センゴクがただ守り慈しむべきか弱い相手なのだと思っていたが、どうやら賢いロシナンテは、センゴクに対して誰を味方につけるべきなのかをしっかりと把握したらしい。
なにせセンゴクは、『家族』のうちでも特に傍らの青年の言葉に、滅法弱いのだ。
「…………そう、か。それなら、仕方ないな……」
子供の成長をひしひしと感じ、わずかな寂しさを抱いたセンゴクのすぐそばで、ロシナンテがまためえと鳴いて、子ヤギがそれに鳴き声を返す。
窓から注ぐ温かな陽だまりの中、まるでセンゴクの胸の内を読んだかのように、ナマエはそっとセンゴクの背中を軽く撫でてくれていた。
end
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