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他愛もない奇跡の話 (3/3)



 マルコの傍らに陣取り、釣竿から糸を垂らす。
 海面がナマエにとってどういう役割をしているのかは分からないが、糸を垂らした釣竿は、マルコ達からは『浮いて』見えるらしいとナマエは把握した。
 時々近寄ってきたクルー達が、マルコの傍らに座るナマエの方をぎょっとした顔で見やって、それから『ああ、何だナマエか』と言葉を落としていくからだ。
 マルコがナマエという存在を認識してくれる前なら、怪奇現象だと驚かれ騒がれたに違いないのに、ただそれだけ言ってさっさと離れていく彼らを見送って、うーん、とナマエが声を漏らす。

「マルコの影響力ってすごいよなあ」

 一人そんな風に呟いたナマエの横で、魚が釣れたらしいマルコがひょいと竿を持ち上げた。
 びちびちと跳ねる不思議な姿の魚が海面から引き上げられて、針を外されて傍らの樽の中へと放られる。
 すでにその中には何匹かの魚達がいて、釣るの早いなーとナマエは笑った。

「そっちはまだ釣れねえのかい?」

 新たなエサを針につけながら、マルコがそんな風に言葉を寄越す。
 うんとそれに頷いて、ナマエは二回ほど竿を振った。
 音を立てる代わりでもそれがきちんと返事になったのか、まあ、のんびりやれよい、と笑ったマルコが同じように糸を垂らす。
 すぐ隣に並んで座りながら、それにしても綺麗だなと、ナマエは彼方へ続く青い海原を見やった。
 マルコがナマエを連れてきたのは、モビーディック号の船尾にある、魚釣りに随分と適したデッキだった。
 魚人のクルーや泳ぎたいクルー達が海から上がってくるときにも使われている縄梯子がまとめて置かれていて、他の場所より低い壁のすぐ向こう側に海がある。
 風が吹いていて、帆船であるモビーディック号はそれを受けてまっすぐにグランドラインを進んでいるようで、少し白く泡を零した軌跡が水平線の手前で溶けて消えていた。
 いい天気だねいとマルコが零した通り、見上げた空も青空で晴れ渡っている。
 グランドラインと言う名の航路の天気は気まぐれだが、今のところは問題なく晴れていてくれるようだ。
 見上げた空から注ぐ日差しを追いかけてマルコへ視線を向けたナマエは、その体の下にある黒い影を確認して、それから自分の真下を見下ろした。
 釣竿が落とす以外に、そこには影の一つも存在しない。
 光すら素通りするこの体は、本当に、一体どうなっているんだろう。
 マルコに『見つけて』貰う前はよく考え込んでいたそんな疑問を胸に抱いて、ナマエの頭が軽く傾ぐ。

「……いつか、ちゃんと『見える』ようになれたらいいけどなあ……」

 そんな風に望みを口にしても、ナマエ以外の耳には届かないただの独り言だ。
 マルコの目に映って、他のクルー達のようにその名前を呼んで、会話を交わせたらどのくらい楽しいのだろうか。
 こうなった原因すら分からないのだからどうしようもないことだというのにそんなことを考えてしまって、はあ、とナマエの口からため息が漏れた。
 どうしようもないことを考えている自覚はあるので、まあ言ってみたって仕方ないんだけど、とまで呟いたところで、くん、と手の中の釣竿が軽く引かれる。
 え、とナマエがそれに目を丸くしたところで、今度は勢いよくその手の中の釣竿が前へ向かって引っ張られた。

「え? わ、ちょ、うわっ」

「お、引いてるねい。でかそうだ」

 慌てた声を出して立ち上がったナマエの横で、マルコがそんなのんきなことを口にする。
 必死になって釣竿を掴まえて踏ん張りながら、いやでかすぎるよ! とナマエは一人で声を上げた。
 ぐいぐいとナマエの手から釣竿を奪い取ろうとするその引きに、ずるりと足元が滑っていく。
 このまま引き寄せられたら、海の中へ飛び込んでしまいそうだ。そう判断して姿勢を低くしたナマエの手の中で、ぎぎぎと釣竿が軋んだ音を立てた。

「あ……っ!」

 折れそうだ、と気付いて、ナマエの力が少しだけ弛む。
 その途端ぐいんと引かれた釣竿が更にナマエの体を船の外側へと引き寄せて、さすがにおかしいと思ったらしいマルコが慌てたように声を上げた。

「ナマエ? おい、大丈夫かよい」

 その手が自分の釣竿を固定して、すぐにナマエの方へと近寄ってくる。
 触れることのできない体がナマエの後ろからナマエと一緒に釣竿を掴まえて、ぐい、と力任せに引っ張った。

「駄目だってマルコ、折れるっ!」

 慌ててそれに声を上げながら、ナマエは必死になって手元の釣竿を確認する。
 つい先ほどマルコから贈られたばかりのそれが、みしみしと哀れな音を立てていた。
 今にも砕けそうなそれを握り直して、どうしたらいいんだよと眉を寄せたナマエの後ろで、折れてもいいからめいいっぱい引けよい、とマルコがまるでナマエの声が聞こえたかのような言葉を零す。

「もし折れたら、後で直すか買い直すかしてやるよい」

「で、でも、」

「ほら、行くよい!」

 迷うナマエの後ろで言葉を零して、ぐい、とマルコの手が思い切り釣竿を引く。
 力任せにしか思えないそれにぎしぎしと釣竿が更なる悲鳴を上げて、このままじゃ本当に折れてしまうと慌てたナマエの体が真後ろに傾いだのは、つい先ほどまで釣竿ごとその体を引っ張っていた引きが無くなったからだった。

「うわっ!」

「っ!」

 驚いて声を上げたナマエが後ろ向きに倒れ込むのと同時に、同じように竿を引いていたマルコの体も甲板へと倒れ込む。
 糸が切れたのかと思ったが、ばしゃりと大きく跳ねあげられた海水を頭から浴び、飛び上がってきたそれがどすりと真上に落ちて来た衝撃に、ナマエはそうでなかったと言うことを知った。

「うぐっ」

 思い切り腹を強打されて、思わずナマエが声を漏らす。
 マルコが蹴り飛ばしたのか、びちびちと跳ねる巨大魚はすぐにナマエの上から甲板の上へと移動したが、その攻撃力に内臓が悲鳴を上げているのが分かる。
 跳ねた海水が口に入り込んだ分を驚いて飲んでしまったのか、気管に水が入りかけた苦しさに、げほげほとせき込んだ。

「い、いだ、い……っ」

 硬い魚の体がぶつかった腹を押さえながらどうにか呻いて、甲板に転がったままでせき込みながら口を押さえる。
 そうやってどうにか自分の体が落ち着くのを待とうとしたナマエは、それからふと違和感を持って、あれ、と涙目のままで瞬きをした。
 甲板に殆どうつぶせになった状態で、自分の真下に日差しが落とした影があるのだ。
 それどころか、体がびっしょりと海水で濡れている。
 そして何より、いつもなら素通りしてしまう筈の攻撃を受けて、未だに腹部が強烈に痛い。

「…………あ、れ?」

 小さく声を漏らしながら、どうにか咳を落ち着けて、ナマエはゆっくりと体を起こした。
 戸惑いながら顔を上げれば、すぐ傍らにいたただ一人が、ナマエと同じくびっしょりと体を濡らしたまま、驚いたような顔でナマエの方を見ている。
 その目がしっかりと焦点を合わせていると言う事実にぱちりと瞬きをして、ナマエはごし、と濡れた顔を袖口で拭った。
 目を一度閉じてまた開いてみても、驚いた顔をしているマルコの表情も、その視線が注がれているという事実も変わらない。

「…………あれ?」

 先ほどよりしっかりと声を零したナマエの前で、恐る恐る、と言った風にマルコが口を動かした。

「……ナマエかい」

「あ、うん」

 寄越された問いに、こくりとナマエが一つ頷く。
 しん、と静かになったその場所に、未だびちびちと跳ねている魚が甲板を尾で叩く音が響いていた。







 数日の間、他のクルー達も巻き込んでいくつかの検証をした結果として言うならば、あっさりと起きてしまった『奇跡』の原因は、ナマエが海水を口にしたと言うものだった。
 飲んだ量に応じた時間の間、ナマエはその姿を現していることが出来るらしい。
 それはすなわち放っておけばまた消えてしまうということをあらわしていたが、海水を口にするだけで一日半ほど打開できるのだから、もはやそれはただの特異体質でしかない。

「……さすがに海楼石を食べようとは思わないもんな」

「まあねい」

 しみじみと呟くナマエの近くで、書類をいじっているマルコが軽く肩を竦める。
 今のナマエの体を覆っているのは、マルコが次の島までと言う約束で渡した衣類のうちの一つだった。
 少し大きいそれの裾を軽く結んでから、椅子に座ったナマエがマルコを窺う。
 一等変わった体質であるナマエを、白ひげ海賊団のクルー達はあっさりと『きょうだい』として受け入れた。
 そして姿が見えるようになってからも変わらずナマエを傍に置くマルコに、ここにいていいのか、とナマエが訊ねたのは昨日のことだ。
 マルコがナマエに傍にいることを許していたのは、このモビーディック号で一番初めにナマエに気付いたのがマルコだったからだ。
 だからこそ、姿を現すことが出来るようになったナマエならすぐに放り出すことだって出来るはずなのに、マルコは気にした様子もない。
 それどころか、尋ねたナマエを不思議そうに見やって、何を言っているんだと首を傾げる始末だった。
 それに付け込み、『別にマルコがいいならいいんだけど』なんて卑怯なことを言った数日前を思い出し、くすぐったいのだか何だか分からなくなった感情に口元が緩みそうになったのを感じて、ナマエはぎゅっと口を引き結ぶ。
 その状態で見つめた先で、マルコがちらりとナマエの方へ視線を寄越した。

「どうかしたかよい」

 問いかけられて、何でもない、とナマエは首を横に振った。
 それを眺めて、書類を持ったままのマルコの口元に笑みが浮かぶ。

「何かいいことでもあったのかい」

 分かっている癖にそんなことを訊ねたマルコに、まあ、うん、とナマエは一つ頷いた。
 その手がマルコに借りた服の端を握りしめて、結局、へら、とその口元がだらしなく緩む。
 自分の姿が誰かに視認されて、話しかけられて、たわいもない会話が出来ると言う事実は、数日前までのナマエにとっては奇跡に近いことだった。
 いつかはそうなったらいいなあなんて呟いていたものが現実になって、嬉しくない筈がない。
 何より、この船で誰よりも一番最初にナマエに気付いてくれたマルコが、その目でナマエを見ているのだ。
 締まりのない顔になったナマエを見やって、そうかい、と頷いたマルコがそのまま頬杖をつく。

「そいつァ良かったねい」

 いつだったかのようにそんな風に言い放つマルコに、うん、とナマエがもう一つ頷く。
 嬉しげなナマエを見やったマルコもまた、その顔に楽しげな笑みを浮かべたが、当人に自覚があるかどうかはナマエには分からなかった。



end



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