絶対の絶対 (3/3)
「……あの二匹、お前がやったのか?」
あの、とシャチが示したのは、波間を漂っていたあの死骸のことだ。
海王類を呼ぶほど血を垂れ流していたあれらもまた、随分と大きな生物だった。
あれらから噴き出した血を浴びてしまったら、確かにこれほど全身が汚れてしまうだろう。
じっと窺うシャチの前で、ナマエが首を横に振る。
「相打ちになったんだ」
そうして寄越された言葉には、全く真実味が無かった。
何だそれ、と言葉を落として、シャチが体から力を抜く。
「お前、冗談も言えるんだな」
そう言ってやりながらあまり汚れていない手で顔を拭ってやると、血まみれの状態から少しはましになった顔のナマエが、軽く首を傾げた。
先ほど海賊船の上でもやって見せたそれに、何誤魔化そうとしてるんだよ、とシャチが笑う。
それから、軽くため息を零した。
「何でおれのこと庇ったんだよ」
そんなことをしなければ、ナマエの腕はこんな風に傷ついたりはしなかった筈だ。
その代わりにシャチが怪我をしていたかもしれないが、思わずそんな風に尋ねてしまったシャチの前で、ナマエがわずかに瞬きをする。
それが目に入りそうな血を厭ってのものだと気付いてもう一度シャチがその額から垂れてくる血を拭ってやると、ありがとう、と一言置いてからナマエが言葉を寄越した。
「シャチは、この船の人間だろう。ローの仲間の」
そうしてあっさりと寄越された言葉に、はあ? とシャチの口から声が漏れる。
血まみれになってしまった両手を軽く自分の服で擦ってから、つまり、と呟いた。
「だから助けたって?」
『ローの仲間』だから、なんてそんな簡単な理由で庇ったのかと尋ねるシャチに、ナマエが頷く。
「怪我をしたら痛いからな」
あっさりとしたそれは、助けることが至極当然であると言いたげなものだった。
何だそれ、と声を漏らして、シャチはじっとナマエを見上げる。
シャチを見下ろすナマエの顔は、相変わらずの無表情だった。
何の感慨も無い瞳は底知れぬ深さを持っているように見えて、やはり、その姿はどこか異質だ。
しかし、とシャチは思った。
少なくとも、この得体のしれない男にとって、『トラファルガー・ロー』と言うのは『特別』な存在であるらしい。
確かにナマエは得体がしれぬおかしな男だが、そこはシャチ達と『同じ』だ。
「……なあ、お前、今痛くねえの?」
「いや、痛い」
「顔変わんねーな!」
表情も変えずに首を横に振ったナマエに、シャチが笑って声を上げる。
ばしばしと背中を叩くとべちゃりと血の飛び散る音がして、いいかげん汚れた服を脱げと一番上に着ている上着をシャチがナマエからはぎ取ったところで、ペンギンが戻ってきた。
「ナマエ、船長が呼んでる。これである程度拭いてから、船長室へいけ」
古びたタオルを差し出してのペンギンの発言に、従ったナマエが受け取ったタオルで体を拭き始める。
自分の代わりにタオルを血まみれにしたナマエの手からシャチがタオルを受け取ると、軽く会釈をしたナマエが船長室の方へ向けて歩き出した。
少しばかり血で出来た足跡がついてしまっているが、それほど酷くはないので、後で拭いてやることにしよう。
そんなことを考えて見送ったシャチの傍で、シャチ、と彼を呼ぶ声がする。
それを受けてシャチが見やると、ペンギンがわずかに怪訝そうな顔をしていた。
何かを言いたげなその顔ににんまりと笑ってやって、シャチが手元の血まみれの上着とタオルをペンギンへと押し付ける。
「おれ、あいつ仲間のまんまでいい気がするわ」
「何だ、急に」
「助けられちまったし」
そんな風に言って笑うシャチに、しばらくその顔を睨んでいたペンギンが、小さくため息を零す。
了承とも呆れとも取れるそれを放っておいて、おれも着替えてくる、と一言置いたシャチは、ペンギンを置いてその場から移動した。
大部屋に向かって着替えをしたところで、そういえばナマエは着替えを持って行っていないな、と気付く。
一枚着てはいるが、それも少し血で汚れていたことだし、何か代わりを持って行ってやった方がいいだろう。
脱いだ服で入念に手を拭き、汚れたそれを適当に片付けながら大部屋の一角でずっと放置されていた真新しいつなぎを掴まえたシャチが、その後で向かったのはあの倉庫だった。
変わらず棚の一角に置かれた鞄に触れて、その中身を改める。
「おれ、恩も仇もちゃんと返す主義なんだよなァ」
そんな風に言いながら、つなぎを小脇に抱えたままで、シャチは他人の鞄から下着以外の衣類を全て引っ張り出した。
綺麗に畳まれたそれらを、そのままそっと鞄から離れた場所にある箱の中へと押し込める。
きちんと蓋をし、どこからも見えないことを確認してから、よし、と頷いて、シャチの手がつなぎを掴み直す。
「それに、お前だって船長の仲間だろ。おれらと同じで」
誰にともなく機嫌よく呟いて、シャチは一着のつなぎを手に、そのままその足を船長室へと向けた。
鼻歌交じりに歩いたシャチには、船長室で、己の船長が半裸な男の腹の上に跨っていることなど予想できるはずもない。
「…………チッ」
であるからにして、舌打ちした『死の外科医』に『ノックくらいしたらどうだ』と唸られ、じろりと睨まれてしまったのは、不可抗力である。
end
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