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世界から落ちたあの日
 とんでもない浮遊感を感じた、と思ったらすぐに水へ叩きつけられた。
 悲鳴を上げる暇もないまま水を掻いて、必死になって空気を求める。
 口に入り込んだ水が塩辛い。これは海水だろうか。
 いや、どうして俺は今海水に飛び込むことになったんだ。
 さっきまで普通に通勤していた筈なのだ。
 体にまとわりつくスーツやらの不快感と邪魔さ加減からして、それは現実であったはずだ。
 俺に通常のスーツを装備して海へ飛び込む趣味は無い。

「っは、ぶはっ」

 ともかく海面から顔を出して大きく息を吐いた俺は、足で水を蹴りながら顔を拭いて、開いた目の前にあったものにびくりと体を震わせた。
 何故なら、目の前にとてつもなく巨大な生き物の顔があったからだ。

「…………は?」

 爬虫類を思わせる風貌の、俺と同じ水に浸かった巨躯を少しばかり折り曲げるようにしてこちらを見下ろした生き物が、ぐるるる、と低く唸り声を零す。
 俺の身長なんかじゃ全然足りない。鯨より大きいだろう。むしろ、地球上にこんな生き物なんていただろうか。テレビや図鑑でだってお目にかかったことがない。
 むき出しにされた歯の端に、布の切れ端と黄ばんだ何かの骨が挟まっている気がするが、そしてそれがどうも人間とか霊長類とかそういった類の腕の骨に見える気がするのだが、気のせいだろうか。
 ゆっくりとその口が開かれて、はあ、と吐きかけられた生臭い息に、俺はどうやら自分が命の危険にさらされていると気が付いた。
 ざわりと背中を冷たいものが駆け抜けるが、意味も分からずいるこの場所で、どこへ逃げれば陸地があるのかすらも分からない。
 何より、目の前の生き物の背びれからして、これは海に棲む類の生き物のようだ。水泳選手だって勝てそうにないし、俺は水泳選手でもない。
 つまり、どうにもならない。

「は……はは……」

 思わず笑って自分を誤魔化してみたが、俺はその時、丸ごとすべてを諦めていた。
 けれども俺の居場所がその化物の胃の中とならなかったのは、今まさしく俺をいただこうと大口を開けた化物が、がん、と大きく音を立てて横に傾いだからだ。
 ばしゃんと大きく水を波立たせながら体を海面に叩き付けた化物に目をやる暇もなく、揺れる水に身を任せて頭が沈む。
 慌てて水を掻いて顔を上げた時、俺の目の前にはばさりと羽ばたく人間がいた。
 後姿だから顔も分からないが、両腕が青い炎に包まれていてるその人物が、翼のようなそれで羽ばたいている。
 どうやらその人物に攻撃されたらしい化物が、ぎゃううと非難がましく声を上げてから、そのまま水の中へと自ら潜っていってしまった。
 もしや水中から襲ってくるかと身構えたがそんなことも無く、一度彼方で跳ねるその姿が見えたので、本気で逃げ出していったらしい。
 ばさばさと羽ばたきながらそれを見送った目の前の相手が、それからくるりとこちらを振り返る。
 その人物はどうやら男性だったようで、こちらを見下ろして軽く笑った相手に、俺はぱちりと瞬きをした。
 何故だろう。俺はこの人物に初めて会った筈だが、この顔を知っている気がする。
 すぐに頭の中に浮かんだのは、漫画やアニメやゲームで見た顔だった。
 俺が知っている顔より幾分若く見えるが、それでも十分『あのキャラクター』に見える。
 いや、漫画やアニメやゲームのキャラクターと命の恩人を同一視するのはどうなのか。
 だけれども、体を青い炎に包んだり、その両腕で羽ばたいたりするのも同じだ。

「よう、危ないとこだったねい」

「は、あ、どうも……」

 ぐるぐる頭を悩ませながら、寄越された言葉に水を掻きつつ返事をした。
 俺の返事に少しばかり笑った彼が、一度大きく羽ばたいて上へと上昇した後、片腕から炎を消して腰にぐるりと巻くような形で結んでいたらしいロープの端を解き、すぐに炎と変えた両腕でもう一度羽ばたく。
 ぷらんと揺れたロープの端を海面へと垂らしてから、もう一度俺を見下ろした。

「適当に食いもん獲ってくるつもりだったが、まあロープ持っててちょうどよかったよい」

「えっと……」

「悪ィが、おれァこの通り悪魔の実の能力者で、海には入れねえんだよい。岸まで連れてってやるから、それにしがみ付けるかい」

 にかりと笑いつつ言葉を落とされて、どうしたものかと逡巡する。
 迷った俺に気が付いて、ここにいたってまたあいつに襲われるだけだよい、と男が言葉を放った。
 それもそうだと気が付いて、慌てて目の前のロープを捕まえる。
 俺が両手でそれを握ったのを見てから、行くよい、と声を掛けた彼がばさりと大きく羽ばたく。
 それとともにその体が空中を進みだして、腰に結わえられたロープに引きずられた俺自身も、同じ方向へと海原を進み始めた。
 ぼぼぼと燃え盛る音を零す翼で羽ばたく彼の背中を見やって、あくまのみ、と先ほど言われた言葉を復唱する。
 その名称を、俺はあのキャラクターのいる漫画やアニメやゲームでしか知らない。
 しかし、あれは作者が作り出した『物語』であって、現実じゃない。現実に悪魔の実の能力者なんてものがいれば、俺だってそのくらい知っているはずだ。
 だとすれば、ここは俺が知っている世界じゃないんだろうか。
 そんな馬鹿な話がありえるのか。
 俺は、ついさっきまで通勤途中であったはずなのだ。
 けれども、体に触れる海水も、顔に受ける風の冷たさも、目の前で両腕で羽ばたきながら空を飛ぶ彼の姿も、夢にしてはやけに現実的だ。

「……」

 白い鯨をモチーフにした海賊船が着岸している島へとたどり着いたのは、それから十数分ほどしてからのことだった。
 砂浜では、何人ものクルーが忙しそうに作業をしている。
 ようやく足のつく場所まで連れてきてもらえた俺は、両手で持っていたロープを手放してから浅瀬へ足を進めて、そこでようやく座り込んだ。
 俺がロープを手放したのに気付いて砂浜へ降り立った彼に、クルーの何人かがどうしてか非難がましい声を上げている。

「おいおいマルコ、何してんだよ。約束が違ェって」

「うるせェない、不可抗力だよい」

 リーゼントの男に言われて返事をした彼が、くい、とこちらを顎で示した。
 それを受けて、彼を『マルコ』と呼んだ男の目が、俺の方を見る。
 不思議そうな視線を受けて、俺は慌てて立ち上がった。
 ばしゃばしゃと足元の砂と海水を踏みつけながら、重たい体を渇いた砂浜へと移動させる。
 近寄ってきた俺から視線を外した『マルコ』が、俺を親指で示して見せた。

「そこで海王類に狙われてたから拾ってきた。邪魔はしねェからおれもモビーに入っていいだろい?」

「…………仕方ねェなァ」

 放たれた言葉に、とても譲歩した顔でリーゼントの男が頷く。
 何が仕方ねェってんだよい、と呆れた声を出してから、改めて『マルコ』が俺を見た。

「ほら、行くよい。着替え貸してやるからついてこい」

「あ、はい」

 言いつつ腰のロープを解いてぽいと砂浜へ放置した相手に、俺は慌てて頷いた。
 歩き出した彼を追いかけて、必死になって足を動かす。
 ずぶ濡れの靴下が靴の中でぐじゅぐじゅと不快な音を零しているが、今はとりあえず無視だ。砂浜で靴を脱いだら砂まみれになることは間違いない。
 『マルコ』が向かった先にあったのは岩壁側に着岸している船だった。
 どうやら、この岩壁の下は随分深いらしい。
 掛けられた梯子とロープで、随分と甲板との行き来がしやすくされている。
 今にも楽しく歌いそうな鯨モチーフの船首を見やっていた俺に、ああそうだ、と呟いた彼が足を止めた。
 何だと思いつつ視線を向ければ、今まさに船へ登ろうという恰好のままで、彼が俺の方を振り返る。

「お前、名前は何てェんだよい?」

「ナマエ……です」

「そうかい。おれァマルコだよい」

 同い年くらいだろうそんなかしこまるない、と笑った彼は、どうやら本当に本気で『マルコ』であるようだ。
 ほら来いよい、と俺を連れて船へ上がっていくその背中を見やりながら、俺も恐る恐るロープに手を触れる。
 梯子に足を乗せると、ぎしりとそれがわずかに軋んだ。
 ゆっくりと足を動かしながら、目の前を見やって、小さく息を吐く。

「…………意味が、分からない」

 原因など何一つ分からないが、どうやら俺は本当に、『ワンピース』の世界へと落ちてきてしまったらしい。







 海賊の割に親切なマルコは、俺に服だけでなく風呂まで貸してくれた。
 その間に元の世界へ戻れないだろうかと念じてみたがそんなこともなく、俺はあっさりと着替えまで終えて甲板へと佇んでいた。
 マルコの方が背があるので、大きかったが、まあ見られないことも無いだろう。

「それで、ナマエはなんであんなところにいたんだよい」

 モビーディック号の甲板で、俺を見やったマルコが尋ねる。
 樽に座っている彼の隣に佇んで、俺は首を傾げた。
 なんで、なんて、それはおれこそが一番聞きたいことだ。

「……何だか、気が付いたら落ちてたみたいで」

 確かに通勤途中の路地を歩いていた筈なのに、踏み出した先には何も無かった。
 マンホールのふたでも空いていたのかと思って目を見開いたのに、周囲はすでに市街地では無くて目の前には海面が迫っていた。
 まるで何かを踏み外したかのように、俺はいともたやすく海に落ちたのだ。
 俺の説明に、マルコが首を傾げる。

「空島から……落ちたってェと、そんな無傷じゃ済まねえよない」

「普通の人間だから無理だ」

 空島というのは、確か雲の上にあるような島じゃなかっただろうか。
 そんなところから落ちるなんて、やったこともないしできるとも思えない。確実に海面がコンクリート並の硬さになるだろう。
 俺の回答に、そうだろうねい、と頷いたマルコが、それからもう一度俺をしげしげと眺めた。
 俺の顔を見て、それから俺の腕や足を眺めて、再び俺の顔を見たその視線を受け止めて、なんだ、と少しばかり眉を寄せる。
 俺の怪訝そうな眼差しを受け止めながら、マルコが口を動かした。

「それでナマエ、お前行くあてあんのかい」

「……いや」

 寄越された言葉に、とりあえず首を横に振る。
 唐突に海へ放り出された俺に、行くあてなんてある筈もないことくらい、マルコにだってわかっていることだろう。
 そうだろうねい、と呟いたマルコが、肩を竦める。

「それじゃあ、おれが面倒見てやるよい」

 そうして寄越された言葉に、俺はぱちりと瞬きをした。
 何を言い出すのかとその顔を見やってみるが、笑ってはいるものの、マルコの顔は今の発言を冗談とするには値しないものだった。
 面倒を見る、とはどういうことだろうか。
 この船に俺を乗せてどこかの島へ連れて行ってくれる、というならそれは随分とありがたいことなのだが、そんなことを一クルーであるマルコが決められるのか。
 一番隊の隊長だからか? いや、俺が知っているより若く見えるマルコが、今隊長なのかも俺には分からない。

「……俺はありがたいが、勝手に決めていいのか?」

 問いかけると、大丈夫だよい、とマルコが安請け合いしながら樽から降りた。

「ちょうどよかった、何にも思いつかなくて困ってたんだよい」

 一人一ワガママだからねい、なんて言い放つマルコの言葉の意味が分からなくて、俺は首を傾げる。
 こちらを見やって笑ってから、マルコの手が軽く俺の肩を叩いた。

「まあ、拾ったのはおれなんだから面倒見るのもおれだよい。見つけたものは見つけた奴のものってのがうちのルールでねい」

「それは、人にも適用されるのか」

「させんだよい。お前だって、そんな弱そうななりで一人で海に放り出されたくないだろい?」

 ひょいと手を離しながら言葉を寄越されて、う、と言葉に詰まる。
 俺だって平均的な体つきをしている自信はあるのだが、目の前を歩くマルコや他のクルー達の体は、海賊なので当然ながら随分と鍛えられていた。現代日本人である俺と比べるなんてこと、していいはずが無いではないか。
 眉を寄せた俺を見やって、楽しげにマルコが笑う。

「なんならおれが鍛えてやる。その方が、船を降りた後も楽できんだろい」

「…………ヨロシクオネガイシマス」

 寄越された言葉に、とりあえず俺は恭しく頭を下げた。
 けらけら笑ったマルコが俺を促しながら甲板を歩いていくので、それに付き合うように後を追う。

「どこに行くんだ?」

「モビーと浜には近付くなって言われてんだよい、主役は」

 後ろから尋ねた俺の言葉に、マルコが寄越したのは返事と言っていいかも分からないものだった。
 それでも、そうか、ととりあえずは頷いて、こちらを一度見てから梯子を使って降りていくマルコを追って俺も船を降りる。
 職場や家族のことが気になったが、俺の仕事道具は鞄の中に入っていなかったから引継ぎは何とかなるだろうし、家族も嫁に行った妹が一人だけだ。位牌の中の両親には心配をかけてしまうかもしれないが、俺にだってどうしようもない。
 元の世界へ帰れない以上、俺はマルコしか頼る相手がいない。
 どうやら散歩に出たらしいマルコとともに島をうろついて、モビーディック号近くの砂浜へと戻ったのは、日が暮れ始めてからのことだった。
 砂浜では宴が開かれていて、なんだかんだと飲んだり食べたりした俺はぐっすり眠ってしまい、目が覚めたのは翌朝のモビーディック号の甲板でのことだ。
 実はその日がちょうどマルコの誕生日で、船長に『ワガママ』を叶えてもらったマルコのおかげで俺はモビーディック号に乗ることになっていて、つまり自分がマルコの貰った『誕生日プレゼント』であると知ったのは、それから一週間ほど後のことだった。




end


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