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恋のディザイア(3/4)

「噛んでみてください」

「………………へ?」

 放たれた言葉が理解不能すぎて、口から変な声が出る。
 間抜け面を晒す俺を見つめながら、噛んでください、とフカボシ王子が言葉を重ねた。
 噛む。
 単語の意味に目の前へ晒された白い肌を含めてみると、すなわち今この王子様は、俺に噛みつけと言っていないだろうか。
 何故だ。何の意味があるんだ。
 冷や汗すら浮かんだが、じっとこちらを見つめてくるとてつもなく真剣な顔に必死の色が見えて、仕方なく俺は少しだけ口を開けて王子の腕へと顔を近付けた。
 力んでいないからだろうか、柔らかい肉に、かぷりと歯を当てる。
 こちらを見る王子はやっぱり真剣で、これが一体どういう意味なのかまるで分からないが、唇にわずかに触れる肌は人魚だからかしっとりとしている。
 そのことにむらりと何かが湧きたったのを感じたが、王子にそんなつもりは無いんだから、と必死になって意識を逸らした。
 正直なところ今すぐ床にでも頭を打ち付けたいところだが、毛足の長いラグでは痛みなんてたかが知れている。
 痛みなんて与えないようにこわごわと少しだけ口を狭めたら、舌に肌が触れてしまい、錯覚だろうが甘味を感じた。
 驚いてすぐに口を離して、白い腕を捕まえる。
 歯と舌が触れた白い肌に俺の唾液がついて、てらりと光った。

「わ、悪ィ、唾ついた」

 言葉を放ち、焦りながら服の裾を伸ばして拭う。
 本当は今すぐ洗ってほしいところだが、王子の部屋に手洗い場はなさそうだ。
 水でも持ってきてもらえばいいのか、と部屋の出入り口の方を見やった俺の左腕が、がしりと掴まれる。

「ん?」

 そのまま引っ張られ、視線を引き戻そうとするそれに気付いて顔の向きを戻すと、王子は相変わらず真剣な顔をしてこちらを見ていた。
 引っ張られるがままにされていると、俺の左腕に刻まれた傷跡が、そのまま王子の顔へと近付く。

「……噛んでもよろしいですか」

 今度はそんな風に言われて、ゆるりと開いた唇から肉食の魚のような鋭い牙が覗いた。
 あれに噛まれると下手をすれば流血しそうだが、この王子様が言うわがままは、どうにもならないもの以外は叶えてやると決めている。

「いいぜ。まあ、噛みちぎらないでくれると嬉しいけどな」

 だからそう答えると、開いた口がそのまま俺の腕へ押し当てられて、がぶりと俺の左腕が噛みつかれた。
 ちょうど刻まれた傷跡に食い込むようなそれは、やっぱり少々痛いが、王子には甘噛みの部類なんだろう。俺の体も丈夫なせいでか、傷がついている感覚はない。
 ぎりぎりのところで痛みだけを与えてくるそれに少し息を吸い込んで、振り払うことなく耐える。
 寄越された痛みに少し頭が冷えたので、これなら壁か床に頭を打ち付けなくて済みそうだ。
 俺の腕に噛みつきながら、フカボシ王子の双眸がじっとこちらを見つめて来る。
 それに気付いてじっとその眼差しを見つめ返していると、どうしてかその目が逸らされた。
 恥ずかしげに目を伏せられているが、やっぱりその口は俺の腕を噛んでいる。
 やや置いて、満足したのかその口が俺の腕を離れたが、その手は俺の腕を掴んだままだった。

「…………ありがとうございました」

「お、おう。けどどうしたんだ、急に」

 立派な牙をお持ちの王子様が『歯がうずく』と言うのならいくらだって噛まれてもいいが、それにしては甘噛みだった。
 何より、わざわざそんなことでこの王子様が人間に噛みつこうと思うとは思えないし、俺に自分を噛ませた理由にも当てはまりそうにない。
 何か理由があるんだろうと見つめていたら、その、と少しだけ言いづらそうにしたフカボシ王子が、捕まえたままの俺の腕へと視線を落とした。
 俺の腕に刻まれた傷跡の上に、赤くなった噛みあとが記されている。

「ナマエが、噛まれていたので」

 この傷跡がどうしても気になってと、そんな風に言葉が寄越された。
 心配してくれたという事かとも思うが、それは俺の腕を噛んだことにも俺に腕を噛ませたことにも繋がらないだろう。
 言葉が続くのかとじっと見つめていると、沈黙の後で、小さな声が向かいの王子様から漏れる。

「あの、軽蔑しないで欲しいのですが」

 もじ、と大きく育った体をわずかに揺らしてから、フカボシ王子は続けた。

「貴方を噛むなら、私だけがいいと思ってしまって」

「…………え?」

「私を噛むのも、同じように」

 とてつもなく恥ずかしそうにそう言い放って、フカボシ王子がじっと俺のことを窺ってくる。
 可愛いとかいじらしいだとか美しいだとかいやらしいだとか、様々なことが脳裏をよぎった。
 必死になって結んだ唇からは変な声すら漏れなかったが、この王子は一体どういうつもりなんだろうか。
 そんな独占欲みたいな言葉を、『友人』に吐いていいと思っているのか。
 いや、百歩譲って『友人』に吐いていいとして、この俺にそんなことを言っていいと思っているのか。
 どうにもならない気持ちを持て余して膝立ちになった俺は、動いた俺に戸惑ったフカボシ王子の唇に、掴まれたままだった自分の腕をあてがった。

「……もう少し噛んでみるか?」

 何を馬鹿なことを言っているのか分からないが、どうしてかそんな言葉が口から出て、そして目を瞬かせた王子の口がおずおずと開く。
 先ほどよりもそっと尖った歯が触れて、深く入り込むのを恐れるように添えられた舌が生温かい。
 こちらを窺う目は俺が膝立ちになったせいでどことなく上目遣いで、思わずその体を押しやると、何故だか抵抗らしい抵抗をしなかった王子の体がころりとラグの上に転がった。
 俺はそれを押し倒しているような恰好で、相手の体をまたぐようにしながら自分の体を支えている。一応体を浮かせているので、王子を全身で抑え込んでいるわけじゃない。
 上から覆いかぶさるようにして見つめてみるが、王子は俺の腕を口に銜えたまま、やっぱり抵抗らしき抵抗をしなかった。
 なんだこれは。据え膳なのか。
 そんなことを考えると体のとんでもない部分がとんでもなくなった気がしたが、いや違う、と自分を否定してどうにか必死に落ち着けた。
 だって絶対に、この王子様は状況をお分かりでないのだ。

「…………?」

 堪えようとふるりと震えた俺に、フカボシ王子が不思議そうに瞳を揺らす。
 それを見下ろし、思わずそっと顔を近付けた俺は、これくらいなら許されるだろうと青い髪からのぞく額に唇を押し付けた。
 びく、とフカボシ王子が震えたので、すぐに顔を離して、ふは、と小さく笑い声を零す。

「驚いたか?」

 尋ねたが、俺の腕を銜えている王子は籠った声を漏らすだけだ。震えたのが恥ずかしいのか、白い額まで赤くなっている。
 目までうるんでいるようで、滲む色気に喉を鳴らしそうになり、慌てて意識をそちらから逸らした。
 そういえば、押し倒すようなこの体勢で口に腕を押し当てているだなんて、まるで無体を強いる狼藉者みたいだ。しかも小さな頃から知っている相手にだ、変態野郎もいいところである。

「悪い、今退くから……」

「貴様ァ!」

 そんなことにようやく思い至り、慌てて身を引こうとしたところで、部屋の扉が大きくあけ放たれた。
 王子と二人で驚いてそちらを見やれば、俺をここまでまさしく連行してきた護衛殿が、怒りにその目を赤くしている。
 まずい、と考えた時には魚人に襲い掛かられて、俺は慌てて飛びのいた。
 驚いた王子が牙をひっかけたので少し腕に傷がついたが、王子がつけた傷なら別に構わない。

「待って、待つんだ、話をだな!」

「黙れ!」

 ぶち切れた魚人は俺の言い訳を聞いてくれず、追いかけ回されて捕縛され、そのまま牢へと叩き込まれて、危うくそのまま処罰されるところだったが、どうにかフカボシ王子のとりなしで不問になった。
 何と言い訳してくれたのかは聞かされないまま、王子と顔を合わせることも出来ずに俺がモビーディック号へと戻されたのは、その日の夕方のことだ。





 


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