幸福的日常 (4/4)
『ただの迷子だったら飼い主が哀れだから』という名目で数枚の写真を撮って、ボルサリーノは部下二人を連れて帰っていった。
撮影用の電伝虫を持っていた海兵二人は随分と用意周到だった。誰かが入れ知恵したのかもしれない。
とりあえず『飼う』のだと決めたので、近いうちに寝床になる小屋を庭へ置いてやる必要があるだろう。
「わう、ぐる、きゅううん!」
「大人しくせんか」
浴室に悲鳴のように鳴き声を響かせて抵抗する犬を洗ってやりつつ、サカズキは眉間に皺を刻んだ。
脱衣所の方で、ナマエがそわそわと落ち着かない様子でいる気配がする。
薄汚れた毛皮を洗ってやっているだけだというのに、この犬ときたらまるで虐げられてでもいるかのような反応だ。暴れる手足がサカズキの足や手をひっかき、ついでに言えばその口がサカズキの腕に噛みついてはまとわせた覇気に負けている。
最初はナマエが自分でいれると主張していたが、させなくてよかったとサカズキは思った。サカズキならともかく、ナマエではその身に傷がついてしまいかねない。
「これで終いじゃァ」
ざばりと最後に勢いよく湯をかけてやって、どうにか汚れを落とし終えた犬の尻を軽く叩くと、慌てたように尻尾を丸めた犬がぶるると身を震わせてから逃げ出した。
閉じられている戸に縋りつき、助けてくれと言わんばかりに鳴き声を零している。
「ほれ」
「!」
それを追いかけて手を伸ばしたサカズキが扉を開くと、小さな犬はそのまま脱衣所へと掛け出て行ってしまった。
待ち構えていたナマエが大きなタオルを広げてそれを迎え撃ち、わしゃわしゃと濡れてしまった体を拭いてやっている。
ナマエへ縋りつく犬に一瞥を向け、浴室の扉を閉ざしたサカズキは、適当に自分の体を洗った。どうせ濡れるだろうと考えて服は脱いであったのが功を奏したらしい。
頭も体も洗ったところで脱衣所から出ていく気配がして、それを確認してから自分も浴室を出る。
サカズキの為にと用意されていたタオルは柔らかく、それを使っておざなりに体を拭きながら、なんとなく先ほど犬の体を拭いてやっていたナマエの姿を思い出して、サカズキの眉間の皺が深くなった。
何が不愉快なのかはよく分からないが、どうにも少しばかり面白くない。
もしや自分は犬が嫌いだったのか、と数十年生きた中で初めて考えながら、さっさと服を着こむ。
少し頭や体が濡れているような気もするが、もともとサカズキは短髪で、能力のせいか体温も高い。涼みながら軽く拭いていればすぐに乾くだろう。
体を拭いたことで全体的に湿ったタオルはそのまま籠へ入れ、別のタオルを適当に手に取って肩にかけたまま脱衣所から出たサカズキが向かったのは、いつもと同じ居間だった。
そこで風呂上りのサカズキへナマエが飲み物を用意して待っていてくれるのも、いつもと同じだ。
しかしいつもと違うのは、ナマエの傍らに一匹の犬がいる事である。
ナマエが用意したらしいタオルの上でごろごろと体を転がし、または自分の体を舐めたりと忙しい犬を見て、ナマエが嬉しげに笑っている。
「ナマエ」
その視線が傍らを向いていることに目を眇めたサカズキがその名前を呼ぶと、ナマエはすぐにサカズキの方へと視線を向けた。
不思議そうに首を傾げて、どうしたの、とその唇が音も無く言葉を紡ぐ。
なんでもありゃあせん、とそちらへ答えて、サカズキの足はナマエの方へと向かった。
いつもならローテーブルをはさんだ向かいに座るサカズキが、自分の横へ来たことに、ナマエが戸惑ったように瞳を揺らす。
けれども気にせず、座布団も無い場所へと腰を下ろして、サカズキはじろりと傍らを見た。
「……?」
自分を見つめるサカズキに、ナマエがますます戸惑いをその顔へと浮かべる。
それを見て、ゆっくりと動いたサカズキの手がナマエへと伸ばされ、そして間に挟まったものによって触れることを阻まれた。
「……わう!」
鳴き声を放ち、ついでにぐるるると唸って見せたのは、ナマエを挟んで反対側で毛づくろいをしていた筈の迷い犬だ。
鼻に皺をよせ、サカズキを睨み付ける犬に、ナマエが慌てたように体を反転させた。
自分をサカズキと犬の間に挟まるようにさせて、まるでサカズキを庇おうとするような動きにわずかに目を瞬かせたサカズキが、片手でひょいとナマエを持ち上げる。
「!?」
慌てたように身を強張らせたナマエは、サカズキがその体を膝に座らせたことでとりあえずは体の力を抜き、改めて犬の方へとその顔を向けた。
「わう! わんわん!」
「! ……!!」
耳に痛い鳴き声を放って何かを抗議している犬に、ナマエはどうも一生懸命何かを言いつのっているようだ。
残念ながらそれはサカズキの耳には届かない。何故なら、ナマエの喉は音を発することが出来ないからだ。
だというのに、じわりと鳴き声を弱めた辺り、唇も読めない筈の犬には聞こえているのだろうか。
「……」
「……?」
そんなことを考えていたら腕に力が入ってしまったのか、サカズキの腕に手を寄せたナマエがちらりとサカズキの方を見やった。
長く伸びた黒髪が首元を滑り、目につく白さが晒される。
犬にでも齧りつかれたら簡単に致命傷を負いそうなその首筋に、サカズキはぐいとナマエの体を自分の方へと引き寄せた。
膝の上に座っていたナマエの体が傾いて、背中がそのままサカズキの体へと触れる。
驚いたように離れようとするナマエを逃さずしっかりと捕まえれば、ナマエにはもはや抵抗など出来はしない。
「? ……?」
両手をサカズキの腕に寄せて、どうしたのだとサカズキを仰ぐナマエの顔には困惑でいっぱいだ。
近くにスケッチブックがあれば何がしかの質問を投げられただろうが、サカズキにとっては好都合なことに、ナマエの声の代わりを担うあれは二人と一匹から少しばかり離れたところに落ちている。
「なんでもない」
背中を丸めるようにして相手を自分の方へ引き寄せ、問いかけて来る眼差しを受けながら答えを紡ぐサカズキに、ナマエが少しだけ眉を寄せた。
非難がましくサカズキを見ながら、そろりとサカズキの腕から離れた両手が、そのままサカズキの方へと伸びる。
その手が肩にかけたままだったタオルを掴み、ふわりとサカズキの頭にかけられて、小さな手がその上からサカズキの頭へと触れた。
ごし、と頭を擦られてサカズキがわずかに目を丸くすると、さかさまになったナマエの唇が、サカズキを仰いだままで言葉を象る。
『風邪ひくよ』だとか、恐らくはそういった言葉を紡いだらしいナマエの顔はやはり不満げで、しかしその手はやさしく動いた。
そのことに、先ほどの不快感が馬鹿馬鹿しいほど彼方に放られたと気付いて、サカズキがその眉間の皺を深くする。
むっと唇を曲げてしまったサカズキにナマエが慌てもしないのは、すっかり彼がサカズキに慣れてしまっているせいだろう。
「わうっ」
放っておかれたと感じたらしい犬が、鳴き声を上げる。
それと共にその両前足が放られていたナマエの足を捕らえ、頭がどすりとナマエの膝の上へと乗った。
それを受けたナマエが犬の方へと伸ばすためにサカズキの頭から両手を放そうとするが、サカズキの右手がその片方の手を捕まえて引き留める。
左手で犬の鼻先に触れながら、サカズキの方へと視線を向けたナマエへ向けて、サカズキは言葉を落とした。
「まだ濡れちょるじゃろうが」
言外の求めを絡めたサカズキの発言に、ぱちりとナマエが目を瞬かせる。
それから、声もないまま笑い始めてしまった彼の左手も、もう一度サカズキの方へと伸ばされた。
手を奪われた犬は少しばかり不満げだったが、サカズキの日常に混ざるつもりならば、ナマエが誰のものなのかは教え込まなくてはならないことである。
ふん、と鼻で笑ったサカズキに、更にどうしてか身を捩らせて笑ったナマエは、それでもしっかりとその両手でサカズキの髪を拭いていた。
いつもとは少し違うが、これもまた、サカズキとナマエの日常だった。
end
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