沈殿する苦み (2/3)
強く拳を握ったセンゴクがふと目を開いた時、そこにあったのはいくらか見慣れた天井だった。
自宅とは違う照明器具に、自分がどこにいるのかを思い出して、ぱちりと瞬きをする。
ゆるりと起き上がった室内は薄暗かったが、小さな灯りが一つだけ灯されていて、室内を見回すには充分だった。
壁の時計は、明け方にわずかに届かぬ時間を示している。
ふう、と零した息は酒の香りが混じっているように感じられて、片手で自分の口元を覆ったセンゴクは、どことなく違和感のある自分の手に小さく笑った。
どうやら、途方もなく強く拳を握っていたらしい。掌を開く動きに違和感があるのだから相当だろう。何か握っていたなら握りつぶしていたかもしれない。
ナマエの自宅で飲んだあと、泊まる際にセンゴクが通されるのはこの客間だった。
すぐ隣が居間であり、その向こう側にはナマエの寝室がある。
昨晩もかなりの酒を口にして、帰るのが億劫になったセンゴクの求めに応じたナマエが案内した客間は相変わらずきれいに整えられていた。
泊まりたいと言えばすぐに泊まれるようにしているあたり、さすがと言うべきだろう。
ベッドに入った後の記憶がないので、そのまますぐに眠ってしまったらしい。
気分よく眠ったはずなのに夢見が悪かったのは、久しぶりにナマエと酒を飲んだからだろうか。
喉の渇きを感じたセンゴクは、少し迷ってからそのままベッドを降りた。
喉が渇いたら冷蔵庫のものは好きにしていいと、確かナマエは言っていた筈だ。
ありがたく水でももらおうと考えて客間を出たセンゴクの目が、照明をつけっぱなしの居間にわずかに眇められてから、そこにあった姿に瞬きをする。
「……ナマエ?」
寝起きの掠れた声で呼んだのは、きれいに片付けたらしいテーブルの上に酒と酒瓶を置いて伏せている男の名前だった。
近寄ったセンゴクに気付いた様子もないナマエの眠りは深いようだ。
その手元のグラスの中身は空で、酒瓶の中の酒も随分と減っていた。
料理の殆どはセンゴクが食らいつくしたからか、つまみの類は見当たらない。
「……せめて部屋で寝られんのか、お前は」
呆れた気持ちで声を掛けて、センゴクの手がナマエの肩を揺さぶった。
そんな姿勢で眠っては、体が痛くなるだろう。海兵たるものどのような状況でも休めるに越したことは無いが、ここは前線に近い軍艦の中ではなく、ナマエの自宅である。
ベッドがあるならベッドで休む方がよっぽどいい。
「おい、ナマエ」
「……んー……」
声を掛けたセンゴクの手元で、眉を寄せたナマエが声を漏らした。
それと共に動いた手が、肩へ触れているセンゴクの腕を掴む。
酔っているからかいつもより熱を感じる掌が、確かめるようにセンゴクの腕をもみ込んでから、そこでようやくナマエがその目を開いた。
「…………あれ? センゴク……」
何してるんだ、と尋ねてくる声が少しばかりぼんやりとしていて、まだまるで酔いが醒めていないらしいとセンゴクは判断した。
ナマエがこれほど酔っているところは、今まで見たことがない。
外で飲むときはきちんと加減する男だし、家ではどちらかというと酒が進むのだとしても、ガープがいればガープが酒を飲み尽くし、つるがいればつるがきちんと加減させている。
どちらもいないのならどちらかの役目を担うべきはセンゴクだったのだろうが、センゴク自身もすっかり酔っていて気が回らなかった。
「水を飲みに来たらお前を見つけた。こんなところで寝るな」
「……んー」
言葉を放つセンゴクに、ナマエがむずがるような声を零す。
立てるか、との問いかけにも同じような反応をされて、センゴクの眉間に皺が寄った。
しかし、ナマエの方はセンゴクの様子に気付いた様子もなく、少し浮かせていた頬を改めて机に押し付けている。
立ち上がるつもりはなさそうだ。
「……まったく」
声を漏らし、センゴクの両手が動いてナマエの体を持ち上げた。
わあ、と間抜けな声を漏らしたナマエの両腕がセンゴクへと縋りつくように回されて、センゴクの手が抱え直す。
ナマエの足がひっかけた椅子が倒れて少し派手な音が鳴ったが、一軒家なので問題はないだろう。
「なにこれ、ゆめ?」
サービスのいいゆめだなあ、と訳の分からぬことを言い放つナマエに、センゴクは一つため息を零してから歩き出した。
目指すのはナマエがいつも使っている寝室だ。ぎゅっとしがみついてくるナマエの体温にわずかに心臓が跳ねたのを感じたが、自分の変化は無視して睨み付けた扉へと近付く。
辿りついた部屋の扉を押し開くと、室内は真っ暗だった。
扉を開いたおかげで居間からの明かりは入り込んでいるが、それがなければ歩くこともままならないだろう。
見た限り客間ほど美しく保たれてはいないが、そこかしこに見える生活感が逆にナマエの寝室であることを明確に示していた。
客間にあるものより少し小さなベッドへと部屋の主を転がすと、酔っ払いがくすくす笑いながらシーツに懐く。
「つめたくてきもちいい」
「そうか。大人しく寝ておけ」
楽しげに笑うナマエに答えつつ、少しばかり屈んだセンゴクの手が、ナマエが着ているシャツのボタンを二つほど外した。
そのまま蹴とばされているタオルケットでもかけてやろうとしたセンゴクの手を、ナマエの掌が掴んで引き留める。
「ナマエ?」
どうした、と尋ねるつもりでの呼びかけに、頬をシーツに押し付けたままのナマエが少しだけ目を開けた。
「そいねは?」
そうしてそんな風に言いながら、センゴクに触れていないほうの手がぽんぽんと軽く己の傍らを叩く。
寄越された言葉からその意味を吟味して、何を言われているのかに気付いたセンゴクはわずかに目を見開いた。
どうやらナマエは、泥酔するといくらか甘えを見せるらしい。
今まで知らなかった事柄だが、はたしてそれを喜んでいいのかは別の問題だった。
センゴクは、ナマエという男をとても好ましく思っている。
そしてそれは外から見ても明確で、しかしセンゴク以外の人間にとってはただの『好意』としか思われていないはずの感情だった。例外は、妙に敏いかの女海兵くらいなものだ。
ナマエに最優先される人物になりたいだとか、誰よりも頼られたい、一番親しい間柄になりたいだなんていう思いは胸に抱きはしても、センゴクの口から出ていくはずもない。
酔った勢いで馬鹿な話をしたことだって無いだろう。センゴクは、酒の席で記憶を失くしたことなど一度もない。
そして、センゴクを『友人』としか思っていないからこそ、ナマエはこんなことを言ってくるのだ。
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