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月の綺麗な夜でした (2/2)


「ウサギが住んでるとか、かぐや姫の故郷だとか、そういうおとぎ話もあるし。あ、小さい頃、親に月を取ってほしいって強請る子供の絵本を読んだこともあるや」

「へえ、月を?」

「うん。イッショウさんなら取れそうだけど」

 そう言いつつ傍らで微笑んだナマエの気配に、イッショウは見えない目を夜空へ向けた。
 先ほどナマエが綺麗だと言った月のありそうな方向へと顔を向けて、片手で軽く顎を撫でる。
 あいた手が軽く仕込み刀となっている杖を掴み、その柄を軽く引いた。

「……イッショウさん? あの……取らないよな?」

 沈黙したイッショウに何を思ったのか、ナマエがそっと声を掛けてくる。

「あい、わかりやした。まァ、子供の我儘でお月さんを落としたら、あちこちから文句を言われそうだ」

 それを受けて笑ったイッショウが顎と杖から手を離して頷けば、からかわれたと気付いたらしいナマエが、酷いと文句を言った。
 それから、何かがイッショウの手の上へと乗せられて、つまんだ柔らかなそれをイッショウが自分の口へと放り込む。
 どうやらナマエが作ったらしい小さめの餅が、茶で湿っていた口の中でほのかな甘みを零した。

「『月が綺麗ですね』って言ったら『愛してる』って意味だとか、そういう文学的なのもあるんだよ」

 子供向けのものだけじゃないのだと言いたげに寄越された言葉に、もぐ、と口の中の餅を食んでいたイッショウの顎が数秒止まる。
 それからすぐに咀嚼を再開して、啜った茶で口の中の甘みごと餅を喉奥へ流し込んだイッショウは、そいつはまた、と言葉を零した。

「随分と風流な話だ。どこかの作家先生の御本か何かで?」

「どうだったっけ。貴方と見る月は綺麗だ、みたいな意味があるとかなんとか……」

 教科書じゃなくて先生が言ってたんだったかなァ、なんて言ってうーんと声を漏らすナマエの傍らで、イッショウが湯呑の中身をすする。
 そうしながら、先程ナマエがイッショウを縁側に誘う時に、似たようなことを言っていたのを思い返した。
 けれども恐らくナマエに、そういった意図は無いのだろう、と言うことも分かる。
 面と向かってイッショウへ告白した一か月前のあの日の後も、ナマエのイッショウに対する態度は殆ど変らなかった。
 以前と決定的に違うのは、あまり無遠慮に触れてこなくなったことと、時たま話題にしていた異性の話をイッショウへ全くしなくなったことくらいだ。
 けれどもその変化が、ナマエの言葉が嘘や勘違いではないのだと言うことを、イッショウへと伝えている。
 そして、減ってしまった接触を『寂しい』と感じるようになった自分にイッショウが気付いたのは、つい数日前からの事だった。
 ナマエが楽しそうにしていると己も楽しいし、ナマエが自分の名前を呼ぶ声が好ましい。
 決定的に突き放したりもしなかった酷い男を世話するナマエはいつだって楽しそうで、だからそう、以前より距離があるのが気になってしまう。
 傍にいれば傍にいるだけ惹かれると分かって少し離れてもみたが、イッショウの中に浮かんだものには何の変化も起きなかった。
 堪えることを諦めるべきかと悩みながら久しぶりに早く帰れば、イッショウを出迎えたナマエが嬉しそうな気配を零しているのだから尚更だ。

『……もしイッショウさんが、俺のことをそう言うふうに好きになったら、教えて』

 諦めないと言ったナマエのあの日の言葉が本当なら、恐らくイッショウがそれを言えば、ナマエは大喜びで飛びついてくるだろう。
 もしかしたら、前に大喜びさせたときのように、ぐりぐりと人の胸板に頭を擦り付けてきたりもするかもしれない。
 イッショウの体躯に回りきらないひ弱な腕がぎゅうぎゅうと抱き付いてきたら、イッショウもそれを抱き返すだろう。

「…………」

 そうは思うが実行できないのは、たったの二文字を口にして告げることに、面はゆさを感じるからだった。
 もちろん、言わなくてはならないことは分かるのだ。
 イッショウはナマエが自分を好いていることを知っているが、恐らくナマエはそれを分かっていない。察しているなら、もう少し分かりやすい態度をとる筈だ。
 目は口ほどに物を言うと言うが、イッショウはその目が使えないのだから、口で言う他に無い。
 言うなら早い方がいい。やはり今日か、駄目なら明日か、とわずかに悩んだイッショウは、ふと気配を感じて顔を上げた。
 それに気付いたナマエが、イッショウさん? と不思議そうに声を零すのを聞きながら、そっと呟く。

「雨が」

「え?」

 落ちた言葉に戸惑ったのか、ナマエが傍らで身じろぎをする。
 それと同時にぱた、ぱたと水滴が庭木を叩く音がして、すぐにその音が断続的に奏でられ始めた。

「あ、降ってきた……」

 ぱらぱらと零れ落ちる雨を見やってか、ナマエがイッショウの横で声を漏らす。
 すぐ分かるなんてすごい、と賛辞を送られて、イッショウは微笑みを浮かべて傍らへ顔を向けた。

「雨の匂いがしやしたから……しかし、あれだ……この分なら、すぐにやみそうだ」

「雨の匂い……?」

 ぱらぱらと落ちる雨音を聞きながら放たれた言葉に、すん、とナマエが鼻を鳴らす。
 湿っぽいにおいは分かるけど、と呟く彼の釈然としていないような声を聞きながら、イッショウは手に持っていた湯呑をそっと縁側に置いた。

「雨にも、そちらさんでの呼び方はありやすか?」

「雨? あったよ、それも課題出たことあるから。えっと」

 尋ねたイッショウへ返事を寄越すべく、ナマエが軽く唸る。

「梅雨とか、春雨、霧雨とか、時雨、村雨、天泣、外待雨……あ、そういえば虎が雨って言うのもあったな。イッショウさんとお揃いの虎の字を使うやつ」

「トラガアメ?」

「うん。確か、決まった日付に降る雨のことだったかなァ」

 由来は忘れちゃったけど、と曖昧な知識を語るナマエの声は、雨音に紛れながらも、随分と穏やかだ。
 その口元も笑っているのだろうかと、イッショウの手が傍らへと伸びる。
 イッショウに比べて細いその肩へ掌が触れると、その手の下でびくりとナマエの体が震えた。

「イ……イッショウ、さん?」

 戸惑い交じりの声音が、雨の音とまじってイッショウの耳へ届く。
 逃げようとでもするようにその身が引かれ、それを追うように少しだけ体を寄せたイッショウが服を辿ってその首へ触れると、ナマエは更に身を震わせた。
 それでも、イッショウが自分の顔へ触れようとしていることが分かったのか、そのままそこで動きを止める。
 残念ながらすでに笑みは消えていて、イッショウの指が辿ったナマエの唇は真一文字に引き結ばれていた。
 イッショウの指に触れたナマエの肌がじわじわと熱を帯びていくのは、その顔が赤く染まっているからに違いない。
 ふ、とそちらへ笑みを向けてから、イッショウはゆっくりと言葉を紡いだ。

「今、月は見えてやすか?」

「え? い、いま?」

 寄越された言葉に戸惑い交じりの声を漏らしながら、イッショウの手で顔に触られたままのナマエが、少しばかりその顔を動かす。
 どうやら空を確認したらしく、まだぱらぱらと雨音を落とす庭先の方へ顔を向けたままで、雨雲で全然だよ、とすぐに返事が寄越された。
 そりゃあ残念なこって、と呟いて、イッショウの手がそっとナマエから離れる。

「今なら、あっしにも綺麗な月が見えやしたでしょうに」

 ナマエが傍らにいるのだから、雨雲の向こう側で夜空に転がる月は、目の見えないイッショウにも分かるくらい、それはもう美しいに違いない。

「えっと、それ、どういう……」

 両目の見えないイッショウからの不可解な言葉に、ナマエは更に戸惑った声を漏らしている。
 恐らくつい先ほど交わした会話も忘れてしまうほど混乱しているのだろうナマエの横で、イッショウはわずかに笑い声を零した。
 軒先の向こう側を落ちる雨粒は、未だに庭木を叩いて軽やかに音を立てている。

「……ちィっとお話がありやす。耳ィ、貸しておくんなせェ」

「う、うん……?」

 雨音に耳をすませながらイッショウが囁くと、傍らでナマエが小さく返事を寄越す。
 小さなその声と雨の音以外に、イッショウの耳に届く音はない。
 二人きりであることを強調するようなそれに背を押されて、イッショウが今まで言わなかった言葉を吐いた時、ナマエはようやく、イッショウの先程の台詞の意味に気付いたようだった。



end



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