透明な言葉に花を添えて
 突如アガイドが話さなくなった。否、話せなくなった。元々口数は多い方では無かったが、何かの原因でそうなったのだろう。浮遊する両手がアガイドの前で騒がしく動いた時には思わず鼻で笑ったが、さすがに様子がおかしいのとやたらと喉を指さした事からそう察した。今早急に自身のプログラムを見直しているらしい。いつもより反応が遅いが、それでも同時進行で会話が出来る。プログラマーとしてぜひとも手伝いたい所だが、アガイドのアバターはかなりの精密さと繊細さの上で成り立っている。下手に手出しが出来ないため、ただ原因解明し終わったその時を待つしか無い。なるべく作業は邪魔したくないため、俺はぼうとアガイドを見つめた。姿勢正しく直立で前を向くアガイドはそのまま人形になったように動かない。いつもより少しだけ伏せられた目はたしかに前を向いているだろうが、意識は未だ自己プログラム見直しのために奮闘している。心、此所に在らず、とは言葉通りだった。瞬きもする必要がないせいかデスクトップに描かれた絵だと認識さえしてしまいそうになる。
 ──……彼女は人間だ。
 忘れてはならない、忘れてはいけない事なのにそう見えるだけで不安は高ぶる。石化していくように彼女もまた本当のアバターになるのではないか。“恐怖心”と“願望”だけで繋がれている心の破片が全てこぼれ落ちる前にどうにかしてやらねばならないのに、手掛かりが何も掴めない。“鍵”の形態や在処の情報は今のところ何一つ無い。ハノイプロジェクトとは方向性が異なるアガイドに関する情報は、多分ハノイの騎士に問いたところで情報は得られないだろう。完全なるこちらの出待ち状態だ。
 パチリ、とアバターが瞬きした。
 同時に目に生気が戻ったように光が差し、そしてアガイドは俺の方を向いて首を振った。
「……原因が、分からない?」
 そう遊作が聞くとコクリと頷く。これには溜息が出た。頭を下げるアガイドに「お前のせいじゃない。」と言えば彼女は恐る恐る顔を上げた。そして手が特定の動きをした。……そう見ると先程の騒がしいジェスチャーも何かを言っていた気がする。
「……手話、か?」
 こくりと頷いた。
「……俺、手話はわからないぞ。」
 するとアガイドが目を反らして少し迷った後、右手で胸を上から下に撫でた。降参だ、とスマートフォンで『手話』と検索かける。今のジェスチャーは……。
「“わかりました”?」
 こくりと再び頷いた。
「そういやなんでお前、手話が分かるんだ。」
 これにはすぐに聞いた俺が困った。手話が分からないのに手話で返答を求めているようなものだ。「いや、なんでもない。」と頭を振る。別に話す話題など持ち合わせていないため会話に今更困りはしないが、それでも今後はどうするかと悩む。これが一時的なものであればいいが、何かの原因で今後も治らないとなるとさすがに不便だ。
 アガイドが顔の前まで手を持って行き、そのまま何かを掴むような動作をしながら前に持って行く。そして両手の人差し指を左右から合わせ、そのまま右手の人差し指で自身の頬を軽く二度叩いた。
「……なんだ。」
 目を細めた俺に対し、アガイドは少し悩んでから、右手の人差し指と親指で“少し”のジェスチャーをしてからその右手を開き顎の高さで平面にしたあと、手を縦にして頭を下げた。なんとなく『少々お待ち下さい。』と言われたような気がする。そのままパソコン内にあるメモ帳機能を引っ張り出し、半身ほどの大きさに調整してから、先程の手話をした。するとテキストに『興味があるなら一緒にやってみませんか。』と書かれた。
「……誘っていたのか。」
 そう言うとアガイドは頷いた。
『スタンダードにまずは挨拶からやってみませんか。』
 今度は手話ではなくテキストにそのまま文字を起こした。
「手話なんか覚えたところで何に使うんだ。」
 俺がそう言ったらアガイドは少しだけ目を細めて眉を上げた。
『手話は全世界共通言語です。浸透率は低いものの、手話があれば全ての方とお話しすることが出来るのです。馬鹿になされてはいけません。』
「……全世界共通なのか、手話って。」
『はい。』
 少しだけ口角をあげ嬉しそうに頷いた。その顔に少しはやってみてもいいかもしれない、と思ってしまうのだからだいぶアガイドに甘いなと溜息を付いた。
「……分かった。少しだけ、だからな。」
 再び嬉しそうに頷いたアガイドはテキストに『この際少し覚えてみましょう。』と書いた。
『まずはこんにちは、と言ってみましょう。』
 顔の前で右手の人差し指と中指を立て少しだけ前に移動させたあと、両手の人差し指を肩幅に持って行き同時に曲げた。
『これが「こんにちは」という意味です。最初の動きは忍者のような構えをしたほうが分かりやすいでしょう。二度目の手話は人差し指同士を向かい合わせてぺこりとお辞儀させるようなイメージです。』
「……なるほど。だが忍者の構えというとこうだろ?」
 そう言って俺は左の人差し指を人差し指を立てたままの右手で包む。
 するとアガイドは少しだけ頭を捻り思案したあと『それはあまり人前でしないほうが良いでしょう。』とテキストに打った。
「なんでだ?」
『正確には両手とも親指ですが……。』
 右手の親指を同じく親指を立てた左手で包み、そのまま右手だけ下に降ろした。
『……これはshit、罵倒する時のジェスチャーですね。初動が似ているのであまりしない方が良いと思います。会話の流れでもちろん違うのだと分かりますが。』
 そっと俯くアガイドに良心が覗えた。
「……『こんにちは』の次は『クソが』か。」
 からかうように少しだけ鼻で笑うとアガイドはハッとして慌てて頭を下げた。そして顔の前で右手を立てて前に持って行った。
「それは『すみません』か?」
 訊くとぎこちなくアガイドが頷いた。
「気にするな。印象深くて覚えてしまったが、使う機会は一生無いと思うからな。」
『そうであってほしいです。』
 重々しく頷くアガイドにまた少し笑ってしまった。顔は変わらず無表情なのに手話になると少し感情が豊かになったようにみえる。
「こんにちは、ってなんてやるんだったか?」
 とりあえず人差し指と中指を立てると、アガイドが次の動きをした。見習って両手の人差し指同士を向かい合わせてぺこりとお辞儀させる。
『はい、その動きで合っています。』
「挨拶なのに動作が2つなんだな。」
『はい。“昼”と“挨拶”の組み合わせですから。おはようございますも、こんばんはも同様に“朝”と“夜”を“挨拶”と組み合わせて言います。』
「へぇ。」
『2番目の“挨拶”は分かりやすいでしょう。』
「そうだな。」
 もう一度両手の人差し指をぺこりとお辞儀させる。
『朝、はこうです。』
 右手を握り顔の横で少しだけ下に下ろした。
『動かさなくても良いですが、私は流れで下ろしてしまいます。』
「右手の拳を顔の横に持っていくだけで良いのか?」
『はい。』
「へぇ。」
 そのまま“朝”と“挨拶”を組み合わせる。
 するとアガイドも同じ仕草をした。お互い『おはよう』と言い合った事になる。まだ挨拶しかしていないが少しだけ通じて面白く感じた。
『ちなみに人によってアレンジがあります。昼の動作を向こうに持って行くのでは無くおでこにくっつける方もいます。けれど2番目の動きは同じなので「こんにちは」と分かるでしょう。』
「なるほどな。」
 俺が頷いたところでキッチンカーの後方の扉が開いた。
「悪かったな、来て早々留守番させちまって。」
 買い出しに出掛けていた草薙さんが戻ってきた。
「構わない。」
 アガイドも両手で拳を作り、本来そこにあるだろう左腕部分の空虚を右手で二度叩いた。
「ん? なんだ、アガイド。その動き。」
 草薙さんの言葉に事の始まりを思い出した。
「そうだ、草薙さん。アガイドの声が出なくなったらしいんだが、原因知っているか?」
「え? 『声が出なくなった』?」
「あぁ。」
「パソコンをミュートにした覚えは?」
「無い。」
 レジ袋をキッチンスペースに持っていったあとに俺の隣に来てパソコンに向き合う。
「本当か? だってここのスピーカーのマークのところにバツ印書いてあるぞ。」
「えっ。」
 アガイドと共に驚いて画面の右下を見るとたしかにそこにはバツ印が書かれていた。草薙さんはマウスを動かし左クリックしたあとミュートを解除した。
《……声、出ていますか?》
 今日初めて聞いたアガイドの声に長く溜息を付いた。
「……あぁ、出てる。」
《良かった……!》
 プログラムの不調じゃなくて本当に良かったと二人して胸を撫で下ろした。変な冷や汗をかいた。
「なんだお前ら? 初歩的な事だろ?」
 そんな二人に草薙は笑いながら材料の下準備を開始した。
《……灯台下暗し、ですね……。》
「……そうだな。」
 立ち上がりぐっと背伸びをして首を左右に振った。一時的なものだろうとは思っていたが、少し焦燥したせいで身体が固まっている。じんわりと脳が重くなり、血流の流れを感じたところでふと思い立ちスマートフォンで検索をかける。動画をミュートに設定してから再生して頭の中で流れをシュミレーションする。
 改めてやるのは少し気恥ずかしかったが、左手の甲に右手を垂直に立て、その右手を上に上げた。
『ありがとう。』
 そのジェスチャーに気付いたアガイドは少し目を細めて右手の小指で顔の横を煽った。
『どういたしまして。』
 動画の中にもあった動きだと分かり、フッと鼻で笑った。
「なんだ遊作、今日はやけに機嫌が良いな?」
「ちょっとな。」
 もう一度柔軟をしながら「外の準備をしてくる。」と言い残してキッチンカーを出た。


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