2020
月光に酔う
「黎、」
 開口一番に聞こえたのはそんな甘ったるい声だった。堪らずスマートフォンから耳を離して顔を顰める。……まぁたアイツ、なんかやりやがったな……、と脳裏を過るそのにやけ顔は今日の昼間に行動を共にした友人のものだった。高校時代からの友人は現在通話中と表示される人物とも顔見知りで、私たちの関係を知る数少ない共通の人物だ。ちょくちょく私に内緒で彼になにか≠話しているらしいが、今回もそれのせいだろう。でなければこんなに何かを期待するような、浮ついた声は出ない。電子音でも伝わるこの声音、この温度。……もとい、私が世界でいちばん好きな毛玉たちに声をかける時のような、いのちの柔い部分を愛撫するような声音でとおくの彼は言葉を続けた。
「……どう、俺。」
 それは多分、いや十中八九、昼間に行ったアニメイト池袋にある特設会場についてなのだろうと察しがついてしまった。どうして訪れたことを知っているのかなどと、もはや愚問であった。アイツ……、とここに居たら爆笑してそうな奴の顔を恨めしく思う。
「…………どうって、なにが。」
 仮に違うのならそれがいいと願わずにはいられなかった。声が低くなる私の調子に気を悪くすることなく、彼は言う。きっと目の前に居たら目を細め、緩く口元を綻ばせながら自身を指差す彼が居ただろう。
「今日、俺らの特設会場に行ってくれたんでしょ?」
「まぁ。……買い物のついでに。」
「ねぇ、俺、どうだった?」
「……大原くん自身は居なかったでしょ。」
「まあそうなんだけどね。そうじゃなくて。
 ──ね?」と小さな子供に優しく言い聞かせるような口ぶりで躱そうとする私の全てを塞いだ。特設会場に置かれていたのはただの等身大パネルだ。ここまで引き下がるようなものではない、けれど。
「…………か、……。」
「……うん。」
「……っ、……かっ、」
「ふふ、……ん。」
 一世一代の告白でもないのに、心臓が駆けるように早く鼓動する。どうしても羞恥心につっかえて続きの言葉が出てこない私に彼は待った。言わなければこの通話を切ることは出来ないと分かるから、ゆっくりと息を吐く。
「…………よかっ、た。」
「え、なにが?」
「〜〜っ!! かっこよかった! マジでめちゃくちゃ格好良い!!」
 わざとらしくとぼけた大原くんに、もう羞恥心が許容範囲を越えた。啖呵を切るようにして声を張り上げる。
「なんなのさ! いっつもあんな顔なんかしないくせに! かっこつけちゃって!! あとそれ以上足を細くするな! 肉を食え!」
 激昂する私に対して電話の向こうからは嬉しそうに「フフフッ、あっははは!」と照れ笑いする声が聞こえて尚更気持ちが昂る。
「笑んな! 飯を食え!」
「んへへへ、ちゃーんと食べてるよぉ。そんなカッコよかった?」
「かっこよかった!!」
「へへへへ、ごめん、怒んないで。今回のコンセプトは『かっこつけていこう』だったんだからさ。撮影にもだいぶ慣れて、結構我ながらイイ感じに撮れた気がするんだよ。だから見てもらえたなら聞いてみたくてさ。一応公式アカウントでも事前に告知用にアップしてたんだけど、あの時はなんか切られたし?」
 それは当時、いちファンとして既に通話をしながら公式写真を見て仲間内で気を狂わせていたから──などとは口が裂けても言えない。まさか本人から連絡が来るとは思わないだろう。思わず『イヤーッ!』と叫びながら電話に出ずに赤いボタンを押したのは鮮明に覚えている。
「んふふ、でも黎ちゃんにそう言ってもらえたら大成功かなぁ?」
「ふ、ふざっけんな! それ以上かっこよくなってみろ! マジで張り倒してやる!!」
「えっ、なに? 黎からのお誘いですか?」
「…………。」
「アーーッ! 待って待って! ごめん切らないで!」
 あとコンマ一秒でも遅かったら液晶画面に映し出されている赤いボタンを押していた。沈黙はそのまま圧力として向こうにも伝わったのか、「だってぇ、」だの、「でもさぁ、」だの言い訳の言葉が出る。
「わりと素直に聞けた気がすんだもん、黎から直接俺自身が褒められんの。」
「……。」
 思えば確かにそうだった。最後に口にしたのはいつだろう。以前に私がアルコールに乗せられて高校時代の話をした時以来だろうか。あの時は一種の妬みと愚痴からで、褒めたというより僻んだと言った方が近いか。今のも大概そうだが、わりと純粋な思いから出た言葉な気がする。素直かどうかは微妙なところだからこんな事を言われているのだが。
 だから、こんなに笑われて、少し意趣返しをしてやろうと思い至った。
「……べ、別に、今に始まったことじゃないし。」
「うん?」
「あなたは、……出会った頃から今までずっと格好良いよ。好きだから、それも私のただのえこひいきかもしれないけど。」
「──…………、」
 電話の向こうで彼が息を飲んだのが分かる。意趣返しは成功したというのに、沈黙が妙にこそばゆくて落ち着かない。耳の後ろがわざわざとする。
「それを改めて思い知らされたっていうか、別に、その……。普段、から、思ってる、し……。」
 言葉を続けるほどに体が火照っていく。こんな言葉を素面で言うのは柄じゃないことなんて百も承知だから言い訳もしたのに、その言葉さえも早まった鼓動に遮られてすらすらと言えなかった。
「あ、あの、……あの、もういい? 今日は星が綺麗だからこのまま静かに眺める予定なんですけど。」
「わかった、そっち行く。」
 いや……、『来い』なんて一言も言っていないのに。
「し、仕事は?」
「今なら良いのが書けそう!」
 思わず絶句した。
「というか実は今、わりと近いところに居ちゃったりすんだよね。」
「はっ!?」
 まさか、と思って窓を開けてベランダに出る。そのまま身を乗り出して見下ろすと、アパートの前で黒い帽子を被った男性がこちらを見上げて電話しているのが目視出来た。
「…………なにしてんの。」
「直接俺の顔が見たいんじゃないかなって思って。」
「……ひ、暇、なの?」
「ん〜と、直前じゃないけど、一応締め切り前。だから仕事道具も持って来た!」
 電子音の声に合わせるように、目先の男性は暗闇で見えなかったもう片方の手で手提げ鞄を持ち上げた。あぁ、本当にそこに居るんだ。
「だから、家に入れてくれる?」
 ──あぁ、なんて声音でそんな事を言うのだろう。
「……、喧嘩後に追い出された男の台詞みたい。」
「あはは、言われてみるとちょっと分かるかも?」
「認めちゃうんだ。」
「んー、じゃあ……顔が見たい。星見るの、邪魔しないからさ、隣に行きたい。」
 電柱から差す人工の明かりと、中途半端に膨らんだ半月が私たちを照らす。じわりと肌に滲む汗と、鳴く鈴虫は何かの夢のような非現実さを醸し出していた。
 なにをどう返事しようと、彼は来る。そう確信した。それこそ仲直りしに来た恋人のように『ごめんね』なんて言いながら。
「ゆっくり来てよね。」そう言って先ほどは押せなかった赤いボタンをついに押して部屋へと引っ込んだ。
 どのみち来るならある程度部屋を片付けたい。せめて洗濯物だけは見られまいと適当に畳んで箪笥に押し込む。彼が帰って覚えていたらどうにかしよう。あとは飲み物と、場所と……。
 今夜、展示場で見た大原くんとはまるで印象が違う本人がやってくる。どれだけ近くで眺めようが、決して交わらない視線も、息遣いも、無機質に対するそれは一種の楽さと寂寥感がある。彼の体温を知るなら尚更の話。
 冷蔵庫から作り置きの麦茶を出した時、ピンポン、とチャイムが鳴った。
 大袈裟に溜息をついてみせるが、あぁ、顔はどうしようもないだろう。
 玄関扉を開けると、マスクをしていても分かる悪戯な笑みで立つ大原くんがいた。あのクールに格好付けていた面影は微塵にも感じられない。同一人物かと疑いたくなるけれど、高校の時よりも確かに大人になっていて、それを表情の節々や体格、雰囲気からも伝わる。
「ごめん、声聞いてたら俺の方が顔を見たくなっちゃって。」
「……大原くんの動機って大体それよね。」
「うん。」
 一切隠さずに笑って頷いた彼に頭を抱えるようにして顔を隠した。どうしたって緩んでしまう顔が嫌だ。玄関に立ちっぱなしにして変な噂が立つ前に扉をそのままにして踵を返した。了承と取った彼は私に続くようにして中に入り、呑気に「お邪魔しまーす。」と挨拶した。……本当に呑気だこと。
「電気付けてないの?」
「一人の時は卓上の明かりで十分だから。」
「そっか。あ、そのままでいいよ。」
 通りすがりにスイッチを押そうとしていた私は大原くんにそう言われて言葉に甘えた。そのまま台所に入って準備の続きをしようとした時、
「黎、」
 と、それまでとはうって変わった呼び声はあまりに近く、多少の衝撃と若干の苦しさを伴って耳を掠めた。マスクにくぐもった熱は聞き入れた途端にぞわぞわと脊髄を伝って甘い刺激が昇る。ぐっ、と息が詰まった。未だに慣れないこの感覚がこわい。理性が揺らめくのが分かる。先ほどの電話で落ち着きを取り戻したはずの心臓が再び強く脈打った。
「ひさしぶり。」
「私は本日二回目なんですけど……んっ!」
「パネルと本物は違うでしょ。」
 ぎゅう、と形容するに等しい強まった抱擁に思わず声が零れる。そんな私をまるで気にしていないように後ろから頭を摺り寄せられる。
「本物だ。」
「な、なに、その感想。」
「電話越しでも別にいいんだけど、やっぱり本人がいいな〜って話。電話ってね、本人の声じゃなくて実際には使うデータ量を減らすために合成した声が届いてるんだって。知ってた?」
「……いくつか種類があって、本人に一番近い音を自動選択して届けてる……って聞いたけど。」
「えっ、じゃあ通信会社によって違うのかな。」
「わかんない、けど、私のは随分昔に聞いた話だから今は違うのかも……。あの、近い。」
 ここから見えなくても、後頭部あたりから擦り寄ってくるのがまる分かりだ。この状態なのも恥ずかしくて、増す羞恥心と同時に内側から熱が込み上げる。
「そりゃあ、抱き締めてるから、」
 そして最後に溜めるようにして付け加えられた「ね?」の声は息遣いも分かる程に言われて思わず肩が大きく跳ね上がった。産毛まで逆立ったのが感覚で分かる。
「ばかばかばかばか! やめろ!」
「あははははっ! もしかしてって思ってたけど、黎って最近俺の声に弱くなってる?」
「ち、違う!」
「図星?」
「うっさいばか!」
 言われなくたって自覚しかけていたことを、何より本人から言われてしまって身を縮めた。あまりに幼稚だと理解していながらも子供のように癇癪を起して腕の中で暴れるがビクともしない。それどころか抑えることなど微塵にもせずに彼は大声で笑った。それで震える体も、こうして密着していればダイレクトに伝わってきて、心の底から勘弁してくれと顔を顰めた。
「離して! 暑い!」
「やだー!」
「ねえっ!」
 火照る体にまるで黎ラーの冷風は効かず、じんわりと汗まで滲み始めた。あつい。てれくさい。すきだ。はずかしい。
「もう! 手洗いうがいしてこいよ!」
「あ、それは確かに大事!」
 あっさりと腕を解いて引き下がった。そのまま間取りを把握している大原くんは小走りで洗面台へと向かっていった。その背中を睨みつけながら、触れ合っていた箇所が冷風に晒されてほんの少しの寂しさを連れ立ったことに頭を震わせて追いやった。
 随分と我儘になった。
 はぁ、と溜息を零し、準備を再開する。出していた麦茶はすっかりと汗を滲ませていた。氷を取り出してコップに注いでいると、向こうから「これで完璧!」と報告しながら大原くんが戻ってきた。
「……おかえり。」
「へへ、ただいま!」
 それだけのやり取り。けれど、これが言えることに心は簡単に浮つくのだ。
「星を見るんだっけ? どうするの?」
「えっと、いつもはベランダの室外機の上に座ってるんだけど、さすがに二人は座れないし……。窓の縁? でも原稿がしづらいよね。」
「気にしなくていいよ。俺が押しかけたことだし。」
「椅子も用意出来なくてごめん。」
「いいって。それに椅子より距離も近そうだし?」
「今度の給料で椅子買う。」
「えー、置く場所ないじゃん。」
「そ、それはまあ……そうなんだけど。」
 座布団の上に腰掛けているので、我が家に椅子はない。システムベッドなので、客人が来たときはこのソファを組み替えている。さすがにこうなることを想定していなかったから今はベッドのままだけれど。
 冷房のスイッチを消して、後ろに小型の扇風機を設置する。窓を開けると、湿気の含んだ暑い風が舞い込む。座布団を縁に二枚並べるが、これが思った以上に距離がない。
「ここに座ればいい?」
「う、ん。ごめん、かなり狭い。」
「平気平気。へえ、星見かぁ。寮だとあんまりこんな風に星を見上げることがないから新鮮。」
 いつの間にか取り出していたノートパソコンを抱えて、大原くんはこの簡易的な天体観測会場に腰を掛けた。
「お、意外と見えるね。」
 振り返った大原くんにコップを渡す。
「完全ではないにしろ、南向きだから月も見えるよ。今は月齢がまだ若いから形が微妙なんだけど。」
「ありがと。こういったことはよくするの?」
「……夜が涼しい時に、たまに。」
「そっか。」
 彼に倣って自身も座ってみると、ベランダの壁にはあまり遮られることなく、僅かに見える星が観測出来た。
「乾杯しよ!」
「ただのお茶だよ?」
「こーいうのは雰囲気だって!」
 声のテンションよりも幾らか落ち着いた柔らかな笑みにつられて苦笑する。
「乾杯。」
「カンパーイ!」
 カチン、と控えめな音が私たちの僅かな隙間に反響した。
 こうして静かな逢瀬は始まったのだった。



:::



 夜だからか、汗がほんのりと滲む外気と後ろから煽られる扇風機の微風は心地が良い。寮とは違って広くはないベランダは、前を向けばほぼ壁だけれど、視線を少し上へとずらせば数える程度の星と中途半端に膨らんだ半月が見える。息を潜めなくても鈴虫に掻き消されるような、この静かな夜が好きだと言う。俺も嫌いではないけれど、独りだとセンチメンタルになりそうな夜を、彼女は誰とも会わずにひっそりと過ごすらしい。
 意外とコミュニティが広い彼女はネット上に複数の友人を持ち、暇があればよく通話もしていると聞いたことがある。それでもこんな夜は誰とも話さず、好きな読書もせず、ただ彼方にある一点の明かりを見つめてただ「月が綺麗。」と物思いに耽た。予告通り、それ以降に口を開くことは無かった。
 一人暮らしする前から独りの時間が長かったからなのかな。そっと、夜に溶けてしまいそうだと、横顔に思う。少し伏せた目は何を思っているのだろう。狭いこの空間で器用に体育座りして頬をつく彼女がまるで月に恋焦がれているようで、それだけで心に少しの影が落ちる。
 随分と心が狭くなった。
 ふと、その瞳がこちらを向く。
「手が止まってますけど。」
「え、」
「途中からキーの音が途絶えたと思ったらやたらと視線を感じるんですが、進捗はどうしたんですか?」
 進捗、という言葉にドキッとして黎から目線が外れる。
「今なら良い曲が書けそうって言ったの大原くんだからね。」
「うっ、耳が痛い……。」
「ふふふ。」
 膝を抱え直して、俺と反対側の縁に背中を預けて微笑んだ。それから今度は月じゃなくて俺の顔を眺め出した。どこか夢見ているような視線は小説のワンシーンみたいに作り事めいている。
「な、なに?」
 普段はむしろ目線を逸らされることが多くて、それが彼女の照れ屋な部分だと分かっている一方で残念だと思うことがある。けれど、逆にこうも見つめられるとこちらが落ち着かない。「く、黎さん?」と聞いても「ん〜……?」とどこか浮ついた言葉が返ってきた。こんなに砕けた雰囲気は随分と久しぶりな気がする。眩しそうに目を細めて膝に頬をつけた。
「かぁんし。」
「え、と。か、かんし?」
「番をして見張る方の『監視』。書けそうなら書いてもらわなきゃ。それを急かすのが仕事ですし。」
「ど、同業者怖いな〜、はははは……。」
「ふふ、業界は違うけどね。」
 わ〜……と宗司とも守人とも違う圧力に思わず目を瞑ってしまう。
 肩を竦めて、恐る恐る瞼を持ち上げても、依然と変わらずこちらを見ている黎が柔らかく口元を緩めていた。いつもと違う。どこか夢見心地のようで、けれど目線はしっかりしていて。──あぁ、そうだ。お酒を飲んだ時に垣間見る雰囲気に似ているんだ。
「あ、あの、黎。」
「なに?」
 柔らかい。返事一つ一つが随分と柔らかくなってくすぐったい。
「ええと、そんな見つめられると恥ずかしいんですけど……。」
「……けち。」
「ケチ!?」
 まさか黎からそんな言葉を聞くとは思わなくて聞き返してしまうと、数度瞬きしてから黎が目を逸らした。やらかしたと思った時にはあのくすぐったくて落ち着かない雰囲気が引っ込んでしまった。
「…………ごめん。」
 垣間見えた黎の耳がほんのりと赤い。
「あ、いや! そうじゃなくて、いや確かに恥ずかしいんだけど、そこじゃなくて!」
「大丈夫、もう邪魔しないから仕事続けて。」
「黎……。」
 頬を抑えてそっぽ向いた黎になんと声を掛ければいいのか分からなくて、何度か口を開閉した後に仕方なくパソコンに向き合った。イイ感じに進んでしまっていた落書きの曲は適当に名前を付けて保存し、提出用の楽譜を取り出す。首に下げていたヘッドホンを片耳だけずらして装着し、音を打ちこみ始める。途中、隣が姿勢を変えてこちらに顔を向けたのが分かってつられて目線を向けると、黎は俺の方じゃなくてパソコンの方を見ていた。中学の途中までピアノを習っていたらしい黎だけど、鍵盤の楽譜とは違うパソコンの画面は見ても分からないだろうに、またあの目で見ていた。姿勢も相まって、傍らで完成を心待ちにしている子供のように見え、視線に気付かないふりをして作業に戻った。
 カタカタと、キーボードを叩いては途中から再生して全体を見る。片側から曲が流れる一方、もう片方の耳には静かな時間が流れていた。
 大まかに打ち込み終わった後に隣を見ると、また縁に寄り掛かったような姿勢に戻っていたけれど、瞼が閉じていた。時刻を見れば日付がもうすぐ変わろうとしている。
 今日は池袋のアニメイトと月野亭を回った後に映画を見たという。明日からまた不規則になりがちな生活に戻るんだから、そりゃあ普段から寝るのも早い。元から朝方の黎と夜型の俺とでは時間が合わなくて、夜をこうして過ごすのは初めてだった。
 ヘッドホンを外すと、虫も眠りについたのか随分と静かになっていた。寮の共有ルームでこんな世界と出会っていたらセンチメンタルになりそう。いや、絶対なる。それでこの間は偶然居合わせた宗司に引っ張り上げられたのだ。
 今、少し動けば膝が当たりそうになるぐらい近くに黎がいる。よくこんな不安定な場所で寝れるよな、と感心するけど、それよりも居る≠ニいうことが嬉しい。運良くこちらに顔が向いている。
 それからは殆ど無意識だった。サッシに掴まって身を乗り出す。こうも狭いと触れてしまうのは仕方がないけれど、極力起こさない方向で顔を近づける。呼吸がもう寝息のそれだった。小さく開かれた唇にそっと口付ける。寝込みを襲ってしまったことに対する背徳感に耐えいきれずに目を瞑ってしまって、僅かに震えた瞼を見逃した。
「──いけないやつ。」
 へ、と声が漏れて目を見開くと、僅か上から伏せがちに見下ろす目とあった。
「……寝込みを襲うか、普通。」
「い、いつから、起き、」
「ちょうど今。されて起きた。」
 もの言いたげに睨まれて、やらかしたことが脳内を巡る。それと同時に『いけないやつ』と言われたことに妙な興奮を覚えた。一気に熱が噴き出して微動だに出来ない俺をよそに、黎が手を伸ばす。その手が頬に触れたと思ったら目前に目を閉じた黎の顔が迫っていて、唇に何かが触れる。あまりに唐突なキスだった。
「……お、起きてる時にしてよね。」
 拗ねた声音でそう言って、すぐさま離れた黎は俺の膝から滑り落ちそうなノートパソコンを掴んだ。
「終電、気にしなくていいの。」
 夜間のタクシー高いでしょ、などと言って話題を変えた黎に反して、未だ脳内処理が追いついていなかった。なんで毎回毎回予期せぬ時にやってくるんだとか、あれこれ言葉を並べているけど声が震えてるとか、一向に目を合わせないけど耳が赤いのは薄暗くてもわかってしまって、理解し終えた時には抱きついてしまった。
「待って、パソコン! ね、つぶれる、」
「も〜〜、なんで急に……、あのさぁ〜……。」
 身動ぐ彼女に一瞬腕を緩めたけど、パソコンが俺たちの間を抜けて部屋側に置いてのを察してそれもすぐに強めた。
「し、しゅうでん、」となんとか声を上げる黎に「あと三十分はいける。」と答えて熱を抱きしめる。
「ふら、フラグ回収するやつ、」
 尚もがく黎に耳元で分かりやすく水音を立てると「んっ!」と甘い声が上がる。
「こ、ここ外……っ!」
「声抑えないと聞こえちゃうかもね。」
「っ!」
 小声で囁けば、耐えきれなかったのか俺の背中に腕を回してしがみついた。言葉攻めに弱そうとは思っていたけど、予想以上だった。
「黎、」
 今出せる最大の猫撫で声で名前を呼べば、肩をビクつかせてしがみつく手に力が入る。
「かわいい。」
「っ!」
 可愛いと言っただけなのに随分なさまだ。
「すきだよ。」
「んぅっ!」
 俺の肩に顔を押し付けて口を抑えても、鼻から漏れる声は嬌声のそれで、加虐心が疼いた。今まで好きな子を虐めたいと思ったことはないけれど、これはなんか、あれだ。もっと聴きたいと思ってしまう。
「へへ、こぉんなに俺の声に弱くなっちゃって大丈夫?」
 ちゅう、ともう一度耳にキスをすると「ひうっ!」と少し頭をずらした。それによって口元がズレて、すっかり荒れた熱い息が首筋から鎖骨にかかる。煽られている気しかしない。
 今すぐ服の中をまさぐりたい気持ちに駆られるけど、それをやるともう二度と夜中に家に入れてくれなくなりそうで理性をフル稼働して欲を抑える。人並みにヤりたい欲はある成人男性の俺、すげええらい。
「好きだよ。だぁいすき。」
 やり返しはするけど。
 俺も声を抑えて言うと「ひぃ、」と喉が鳴るような声を上げてぎゅうと服を引っ張った。
「黎。黎は俺のこと、好き?」
「んうっ! す、すき、好き……っ! はぁ、だかぁ、まっれ、しぬ……っ!」
 浅い呼吸を必死に戻そうとして深呼吸するように深く吐く息が全て喉にかかって、思わず唾を飲み込んだ。湿気を含んだ息は夏の空気よりよっぽど熱っぽくて、舌足らずで切羽詰まった声も情事を彷彿とさせて擬似的にしている気にさせた。これ以上虐めると俺が引き返せなくなると強く抱き締めて自分を落ち着かせる。やりすぎた。完全にやりすぎた。可愛い。俺が戻れない。
 暫く落ち着かせて腕の力が緩んだ俺を黎は弱々しく引き剥がした。
「いじわるすんな……!」と、ぐっと手で目尻を拭く。涙が浮かんでいた目はまだ潤っていて、月明かりに揺れた。ようやくの思いで落ち着かせた気持ちが再びむくむくと湧き上がってくる。
「煽んないでよ…………。」
「ばかぁ!」
「すんません……。」
 黎はそのままするりと腕の中から逃げ、自分のスマホを取りに行った。スマホの画面を付けると眩しそうに目を細め、そのまま操作しだした。
「あ、ねえ、終電逃すよ。」
 切り替えの早さは相変わらずだけど、こうも淡々と調べられるとそれはそれで擦れた気持ちが湧く。
「……黎は寂しくないわけ?」
 黎が目を見開いた。そう言ってしまってからハッと我に返った。彼女の行動は自分の立場を案じてくれているのは最初から分かっているのに。
「ごめん、」
 今のは言葉が悪かった。我慢させているのは俺のほうなのに、つい言ってしまった。「あの、」と顔を上げると、いつの間にか目の前で黎がしゃがんでいた。
「ご、ごめん、言い方がキツかった。でも、私一人のせいで大原くんやSOARAのみんなの行動を制限したくないんだ。何かあって、大原くんが音楽を続けられなくなるのはもっと嫌だ。それが気持ちや怪我の話じゃなくて外的要因だったらもっと嫌だよ。……ごめん、今のは言い方が悪かった。」
「ごめん、こっちこそ今のは酷かった。黎が案じてくれてるのも分かってるよ。ありがと。」
「うん、それも分かってる。」
 なんでもないように笑ってみせた黎の頭を撫で、彼女はそれを眉を八の字にして黙って受け入れた。するりと手を滑らせて頬に撫でると、黎は目を伏せて手に擦り寄った。触れなければ決して気付けない頬の熱が物語る。そして彼女はゆっくりと瞼を上げ、見上げた目が潤んでいたから、目を閉じてから顔を近づけて待つと、少しの間を空けて唇に熱が触れた。

 コップぐらい洗うよと申し出たものの、終電が迫ってる方がまずいと言われて言葉に甘えた。パソコンを鞄に入れて肩に担ぐと、いよいよ終わりを感じさせる。玄関先で1回ハグをするとギャンと腕の中で抗議の声が上がった。もうすっかりいつもの彼女だ。
「はよ帰れ。」
 バッサリと切り捨てられる。先程までのデレはどこに行ったのやら。けれど、頬を膨らませて睨みつけているつもりだろうが、僅かに下がった眉と目は寂しいと雄弁に語っていて堪らずもう一度抱きついた。
「ね゛〜え゛!」
「今のはそんな目で見てきた黎ちゃんが悪い!」
「そんな目って何さ! 早く帰れよぉ!」
「わかったわかった、帰りますぅ〜。」
 これ以上抱きついてると本格的に時間がヤバそうなので腕を解いた。最後に唇を合わせ、驚いて口が開いた彼女の舌に一回だけ絡めて体を離した。
「おわりっ! 今度こそちゃんと帰りますっ! 続きはまたね!」
「かっ、帰れ!!」
 遅れて背中に投げられた言葉にくすくすと笑い、玄関を開ける。振り返って「ばいばい。」と言うと、しかめっ面してるくせに殆ど開いていない手で小さく振った。ここまで来ると感情表現が下手くそなのか、身体の扱いが下手くそなのかよく分からなくなってくる。扉を閉めて、鞄を担ぎ直し、急いでその場を後にした。走ればまだ終電に間に合うはず。惚気冷ましにここから歩いて帰ってもいいけど、それだと黎の元に帰ってしまいそうだ。
 そうしていつかの逢瀬は終わった。

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