記憶に香る
 桜が降り降られ、空を見上げればその樹は大分散って青い葉が付いていた。淡い色と鮮やかなその色はそうして夏が来るのだと予感させる。ジャポーネの季節の移ろいは本当に美しい。
 一本道を歩いていると向かい側から珍しい人物がこちらにやってくるのが見えた。暖かいこの日に黒いスーツを着込み、まだ肌寒い風に無造作にその黒い髪の毛を弄らせている。私の気配に気付いてその人物は前を向いた。手を上げて挨拶しても大した反応は返ってこず、ただ不機嫌そうな目元の皺が少し深くなっただけだ。距離も縮まったのも相まって「ciao.」と挨拶する。それからようやく私の名前を呟くように呼んだ。
 裏道程狭くはないが、人通りも少なくて景観は悪くない。平日の昼間は散歩するのにうってつけだ。恭弥の場合は人通り以外にも考慮することがあるのだが。だからこそ余計この道を歩いてきたのが珍しいという感想を抱く。
「今日は何かあるのか?」
「ただの見回りだよ。」
 急いでいる様子もなく、ゆったりと歩いている様子を見ると本当にそうなのだろう。私の目の前まで来ると足を止めた。こんなに天気の良い日に偶然出会えるとは。彼の後ろに広がる初夏の青さが、どこか遠い記憶を思い出すような雰囲気を助長させている。
「そっちは。」
「僕の方は暇つぶしだ。夕方以降に仕事が入っている。」
「表の?」
「あぁ。裏稼業だけで食べていけないからな。」
「どれだけ豪華な食事と場所に泊まればそうなるわけ?」
 私を見下しながら、おまけに「それに日本に居るときは大抵僕の所に居るでしょ。金銭類を要求したことないんけど。」とも付け加えられて肩を竦めた。そう言われると立つ瀬がない。
「部下が多いからなぁ。」
「……君の会社は随分と給料がいいんだね。」
「僕の収入をどれだけ高く見積もっているんだ。」
 表は普通の企業でそこそこ忙しくさせてもらっている。だからこそ働きすぎだと部下に小言を言われて半休を押し付けられ、それを持て余しているからこうしてフラフラしているのだ。
「まあ時間があるのは確かだ。そこで今の時期は桜が綺麗だと思って来たのだが、この辺りはもう散り始めたのだな。」
「今年は暖冬だったのと、このあたりは風が強いからね。」
 すっと滑らかな動作で間に入ってきた花弁の降ってきた先を見上げる。もう桜クラ病は治っているにも関わらず、未だに根は持っているらしい。昔は恨めしそうに見ていた桜も、今はもう少々不機嫌になるぐらいまでにはなった。
「構わないなら見回りについて行ってもいいか。」
 少しの興味本位から出た言葉だったが、恭弥は一瞥をくれたあとに何も言わないで歩き出した。はたしてこれはいいのか。まあ駄目だったらその時はその時だ。
 私にとっては来た道を行く恭弥の少し後ろを歩く。雲一切れも無い青空はまだ高い。風で前髪の視界が阻まれる中、好きなようにさせている恭弥の後姿は凛々しい。あぁ、この姿が好きなのだと目を細めた。
 大抵財団のアジトで対面するので、こうして任務もなく町を歩く彼の姿を見る機会が少ない。それだけでなんだか心が浮つくので、自分の随分単純になったと思う。特に会話も無いが、この澄んだ空気の中で疎らに散る桜、そしてこの春風を自由に渡り歩いていく恭弥。夢のように儚いこの一瞬が心地良い。賑やかな部分を避けて歩く散歩のような見回りは住宅街に入り、人通りはより一層減った。
 穏やかだった。
 最凶と呼ばれる彼だけど、理由もなく不機嫌になるような理不尽さは持っていない。跳ね馬の言葉を借りるならムカつき≠フポイントを押さえれば、存外楽しく過ごせる。けれど今日は気持ちゆっくりと歩いているような気がした。下を向くと並んだ影が二つ、アスファルトに揺蕩うようについてくる。
 ふと恭弥が立ち止まる気配がして足を止めた。すると春風に乗って柑橘系の爽やかな香りが仄かに漂ってきた。
「……木蓮か?」
「……向こうの家からだね。」
 恭弥の視線を辿っていくと、塀の上から白木蓮の木が見えた。花弁の一つ一つが手のひらと同じ程の花を咲かせている。一説によると、一億年前からすでに地球上に存在していることから花言葉の一つに『持続性』と付けられた。人間の言葉遊びから始めるものだが、木蓮はその香り高さと姿から他にも付けられている。
「恭さん、花に興味があったのか?」
「別に。ただ今日は香りが気になっただけだよ。」
「へぇ。」
 香りを気にする事があるのか。なんだか今日は驚く事が多い。
「恭さんの家に木蓮は無いのか?」
「…………知らないの?」
「さすがに一個人の庭に何が生えているのかまでは把握していない。業者の出入りぐらいなら情報が来るが。」
「…………。」
「ストーカーを見るような目で見ないでくれ。本職だ。…………違う、言い方を間違えた。」
 情報屋の事を指したつもりだが、さすがにこの言い方はミスをした。人のミスに乗るような人ではないと分かっていても頭を抑えてしまう。調子が悪い。まるで浮かれてるような、
 ……浮かれているのか、私は?
 隣を見るとただ白木蓮を見つめる横顔が綺麗だった。はた、と恭弥が目線をこちらに寄越す。紫かかった藍色の瞳もまた綺麗で。なに、と聞く彼になんでもないと首を振る。
「なぁ、白木蓮の花言葉を知ってるか?」
「?」
 崇高、気高さ、高潔な心。指折りで挙げていきながら、なんだか恭弥によく似合う言葉ばかりだと気付いた。
「……ふぅん。」
 一通り聞いた恭弥はもう一度白木蓮を見た後に歩き出した。不機嫌なわけではなさそうだけど、この反応はなんだろう。
「嫌いだったか?」
「違う。」
「じゃあなんだ。」
「……。」
「い、きなり止まるな。」
 昔より開いた身長差は歩幅に大きく影響した。小走りでその背中を追いかけた為に、突然止まった恭弥にぶつかりそうになった。じっと私の眼を見て暫く、ふい、と前を向いて歩きだす。
「記憶に最も残るものが何か知ってる?」
「嗅覚だろう。」
「そう。そして自分が何をしたか分かる?」
「……恭さんの言わんとしていることがわからない。」
「……君、相当気が抜けてるね。」
 え、と声が漏れた。自覚はしていたが、そんなに分かりやすかっただろうか。ジャポーネの陽気に当てられて、目の前に自由に歩く恭弥が居て。彼が強い事はこの身を以て知っているから、安心していたのかもしれない。特に祖国では背後を気にせず町を歩くことがないから、余計に。
 思っていた以上に『気が抜けている』と言われたことに対して危機感を抱いてしまい、かなり動揺してしまった。
 すると恭弥は前髪を書き上げるようにして私の頭を掴んだ。男性の大きい手、裾から覗く白い肌、辿った先には恭弥の顔があった。風が吹き、木々を揺らす音と微かな白木蓮の香りがする。澄み渡る青空を後ろにほんのりと口角を上げた恭弥の顔が焼き付く。そしてこれは炎に頼らずとも記憶に染み付くだろうと予感させた。
「まだ風は冷たく、空は高い。けれど春は過ぎて夏が来ることを予感させる今日の事を、きっと毎年白木蓮の香りが漂う度に記憶が掘り起こされる事になる。日本の原種にはない白く大きな花、崇高、気高さ、高潔な心。そしてそれを指折りで教える君の姿。」
「──……。」
「君らしくないね。こういう事で人の記憶に残るような事をするのは。」
「……っ!」
 弾かれるようにして目を見開くものの、恭弥は未だ人の頭を鷲掴みしたまま離さない。
「……まあ、」
 そして撫でるようにして手を下ろし、顎のラインに沿い、ぐっと下唇を押し上げた。
「それ以前に、稀に見るはしゃぎ具合でだいぶ印象に残っているけどね。」
 そう言って鼻にかかるような笑みで手を離した。
「……えっ! 一度も後ろを振り向かなかっただろう。なぜ分かった。」
「自覚あったの?」
「え、……まあ、少しは。」
「影を見れば動作くらいわかる。」
「そんなに分かりやすかったのか!?」
「僕は気付いた。」
 それは人による、と言っているのも同然で、あぁ、これは、……堪える。まるで子供のようじゃないか。
「……今日は随分と人間らしいね、結衣。」
「やめてくれ……。」
「白木蓮を見かける度に思い出せばいいさ。」
「消したい……。」
「残念だね。炎出してる時に言うんだった。」
「恭さん!」
 からかわないでくれ、と顔を上げた時には既に何食わぬ顔で見回りを再開していた。何物にも囚われない孤高の浮雲。この時ばかりはいやでもその意味を理解し、敵に回したくないと心から思った。

「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -