手拭い
 諒日には色が分からぬ。白と黒と、その中間の濁った色と、唯一の彩色である青以外は、何も分からぬ。諒日の見る世界では青と呼ぶ色は正しく特別であり、その色だけはどれだけ遠くのものであろうとも直ぐに目がゆく。鳥が身に纏う光沢のある青、人工的ではあれど鮮やかな織物の青、灰色から薄く青付いていく早朝の青。あぁ、美しい。実に、良い“色”だ。
 諒日には色が分からぬ。
 しかし、青色だけは美しいと思えた。

 義勇の太刀筋には青が宿る。彼が使う『水の呼吸』と言う太刀筋の青は一等美しい。彼が先の鬼の討伐最中で使用した『凪』という型に、諒日は魅入られていた。凛と背筋が伸びるように静かで、穏やかで、濁りがない、澄み渡るような見たことの無い青が其処にあったのだ。

 あれをもう一度見れまいか、と諒日は義勇の鍛錬を道場の端から正座して見ていた。使用している武具は木刀であり、日輪刀では無いのだから見れぬかもしれない。けれど、青が無くとも何かに惹かれたのは初めてで、諒日はこの少し浮ついた感覚が嫌ではなかった。

 道場には二人しか居なく、ざあざあと外の豪雨が内に響く。まるで音を斬るように、義勇は一歩と同時に木刀を振り下ろした。それだけで空気が震えるのが分かる。しかし、足音は殆どせず、義勇の呼吸も乱れない。一歩引き下がり、木刀を振りかざす。そしてまた一歩踏み出すと同時に木刀を振り下ろす。単純な動きだが、真っ直ぐに振り落とすというのは存外難しく、加えてそれなりに重さのある木刀を休まず動かし続け、常に身体を活性させ続ける為にも“呼吸”も忘れない。動く度に散っていく汗でその運動力は測りしれた。未だ止む気配のない粒の大きい雨音、動く度に癖のある括った髪がふわりと揺れる。まとわりつく様な湿気と音は、義勇の鋭い太刀で はつりと切られる。昼と言えど、少し薄暗い室内でも時折光を拾って反射する青藍の鋭さは胸に刺さった。
 一頻り素振りをし終えた義勇は額を滴る汗を袴で雑に拭い、傍らにただ無心でこちらを見上げる諒日を一瞥する。目線を投げられ、一度瞬きした諒日はこてり、と首を傾げて先を促す。自身も無口だ散々周りに言われるが、諒日も必要以上にあまり喋らない。……少々、目は煩いが。
「こうも毎日違う呼吸を見ていて良いのか。自分の鍛錬はどうした。」
「素振りだけならまだしも、私の鍛錬は場所を選んでしまうので、なかなかしずらいのです。それに見ていて飽きる、という事はありませんよ。何度見ても美しいものは良いものです。」
「…………そうか。」
「はい。」
 そこでようやく彼女は柔く目元を綻ばせてみせた。
 彼女が時々言うその『美しい』とはなんだろう、と疑問に思う事がある。確かに義勇の太刀筋は年月を重ねて洗練した一筋だろうが、彼女はそれだけでは無いと言う。ならば他にあるのかと彼が聞いても、それ以上の事は諒日自身もよく分からないらしく、二人で首を傾げた事があった。
 立ち上がった諒日から手拭いを貰う。使い込まれた袴と言えど、汗を拭うには多少痛く、渡された手拭いは繊維が立っていて柔らかい。それに滲む汗を吸い取らせれば、日向の匂いが鼻を掠めた。外を見なくとも音で分かるほどの大雨に、この日向の匂いにある温かさは身に染みる。
 まじまじと目を見られている事に勘づきながら、ゆるゆると溜息を吐く。隙あらば彼の目を眺める諒日に義勇は過去何度か咎めたが、綺麗なので、とまるで改める気無く今日に至っている。慣れとは恐ろしいもので、最早気まずさも何処かに行ってしまった。
 首筋も拭いてから雑に畳み、その手拭いを受け取ろうと伸ばされた諒日の手に、義勇は持っていた木刀を代わりに差し出した。
「ならば、お前の言うその美しいとやらをもっと近くで見ればいい。」
 どういうつもりか、諒日は義勇と差し出された木刀を交互に見たあとに察したらしく、それを受け取った。
「良いんですか?」
「受け取ってから聞くのか?」
「それもそうですね。」
 あっさりと引き下がった諒日は、羽織の内側に付けたらしい袋から淡い桃色の腰紐を取り出した。意図が伝わった事を良しとして、義勇はもう一本の木刀を持ってくるべくその場を離れた。

 再び戻ると、道場の真ん中で諒日は念入りに準備運動をしていた。柔軟性のある身体は前屈をしても、ひたりと足と顔がくっ付いている。それからゆったりとした動作で上半身を起こした諒日の顔には少し薄めの青色の布。それは先程まで彼女の髪を括っていた布と同じだが、髪紐にしては幅のある布を、外つ国では『リボン』と呼ぶ事を義勇はまだ知らない。
「……何故目を隠す。」
「何故、とは?」
「目を隠せば意味が無いだろう。」
「…………。」
 彼女が使う呼吸法は五感全てに満遍なく神経を集中させ、相手の呼吸を感じ取る所にある。呼吸から相手の図体や動きだけでなく、呼吸の巡りが浅い部分──つまり弱点をも感じ取り、そこを突く。その呼吸法に最も邪魔なのが“先入観”であり、諒日にとって最も情報量の多い視覚をいっそ封じ、この先入観を視覚から断つ事で他の感覚をより強化する。だが今回は訳が違う。彼女は暫く考えた後、布を取った。しゅるりと鳴った聞き慣れない金糸の音は鈴を思わせる。無言のまま、青い布で髪を纏めていく。そうして再び木刀を両手で持ち、義勇に向き直った。
「対人は随分と久しぶりなのですが、形式は?」
「一先ず俺から一本先取。」
「わかりました。」
 義勇にとっては長いほどの間合いを取ってから、大きく足を引いて腰を浮かせた。左手で木刀を持ち、右手の指は床に三本触れている。弟弟子の友人と似て非なる低い重心は、分かりやすいが酷く重い一撃である。義勇も木刀を構えて静止する。
 フゥゥ……と独特の呼吸が聞こえ、諒日の前髪が揺れた。
 と、同時に義勇は木刀を斜めに倒す。直後に義勇の間合いまで飛んできた、諒日の横一筋を薙ろうとせん木刀と鈍い音でぶつかる。合わせて軌道を変えさせようと試みるが、それでも尚、逸らしきれずに義勇は上半身を仰け反らせた。諒日の木刀が通っていった場所は先程義勇の首があった位置だ。躱された諒日は左足で強く床を踏み、義勇は重心を崩されながらもカンッカンッカンッ、と息もつかぬ連撃を弾き返す。木刀同士がぶつかる乾いた音が道場に木霊する。彼女の目は橙色の長い前髪に見え隠れし、布を取ったにも関わらずあまりよく見えない。
 鍔の無い木刀にした為に鍔迫り合いが無く、真っ向から受け取ろうものなら木刀を握る指を切り落とされん勢いで木刀を手元まで勢いよく落とす。そういえば義勇に会うまで、彼女は刃のあるものではなく木刀を用いて鬼退治をしていた。諒日にとっては正しくこれが真剣なのだろう。
 義勇はその細い腕からは到底想像出来ない重い連撃を受け流しながら、時を見ては彼女に切り込む。技を躱され、隙ができた彼女に「甘いッ!」とその脇腹を木刀で叩く。悲痛で口元が歪んだが、諒日は瞬時に木刀を逆手に持ち替え、腕を引く。短刀の長さならば躱しきれなかっただろうが、打刀程度ではその反撃は刀身が長すぎる。容易く打ち落とせば、また持ち替えて後方に飛びながら下から脇を狙う。落とされるのが分かった上での二撃目だったのか。左足を軸に身体を回す。それから右足で踏み込んで後ろへと飛んだ。
 ひらりと袖が宙を舞う。
 間髪入れずに再び床を蹴った諒日を迎え撃つべく、木刀を向ける。まだ宙に居た義勇の足の脛を狙った一撃を水の呼吸・陸ノ型 ねじれ渦で弾き返す。愚直なまでに真っ直ぐ飛んできた諒日にそれは諸に入った。後方に吹っ飛んだ諒日に、今度はこちらから踏み込む。
「水の呼吸、」
 ひくりと眉毛が動いた諒日は受けの態勢に入る。が、少々反応が遅かった。
「壱ノ型 水面斬り!」
 直に入らなかったものの、辛うじて諒日はその反撃を二の腕に強く掠った程度に収めた。ぎしり、と諒日は頭に自身の奥歯が擦れた音が響く。彼女は器用に空中で態勢を整え、着地と共に逆に強く踏み込んで義勇の左手をすり抜けて行った。狙いは背後か。木刀を左手に握り直し、振り返ろうとした時、義勇の勘が囁いた。反射で左腕を折り、肩を庇うようにして木刀を盾にする。そして視線が後ろに回った義勇の目を、橙色の隙間から髪よりも少し赤い目が捉えた。
 見開かれたその瞳は息を飲むほど艶やかで、一切の濁りが無く、ただ義勇の目だけを映していた。
 たった一瞬に、義勇は高揚感にも似たなんとも言えぬもの感じた。瞬間、その読み違える事無く木刀に強い衝撃が走る。構えた左手までそれは伝わり、手のひらから腕半ばまで電撃が走る。みしり、とどこか遠くで音がした。さらりと遅れてその瞳は前髪に隠れる。声を掛けることなく、お互いそのまま暫く止まった。
「…………諒日。」
「はい。」
「その小手先の技は、日輪刀では使えない。」
「え?」
 諒日は義勇とのすれ違いざまに羽織の影で木刀の半ばまで左手を滑らし、右手は先端部分を強く握りしめて後方へと引いていた。狙いは肩の脱臼、または骨折か。
「握っている部分、両手とも日輪刀ならばそこは刃先で、それだけ強く握り締めたらお前の手は暫く使い物にならない。」
「…………確かに。」
 自身の両手の位置と木刀を端から端まで見てから諒日は頷いた。それから緊張を解き、姿勢を正した。
「今まで木刀を使っていたので、癖が付いてしまったのでしょう。……直さなければなりませんね。」
「……さすがに日輪刀でそれはやらないだろう。」
「……わからないです。」
「……わからないのか。」
 刃物を持つ時、斬れる事を理解している身体は肉体の保守の為に少なからず刃先に意識が行く。諒日はその辺、意思で伏せている訳ではないにもかかわらず、人より意識が低い。

「木刀も私の日輪刀も、時折同じ色をするので。」

「…………。」
 諒日の戦闘姿勢は一撃必殺の受け身の型。初動で最も重い型を振るってから、関節の柔らかさを活かして相手の技を回避、後に奇襲の数々を繰り出す。狙いは全て人体の急所、または大筋の神経。鬼と言えど神経が無い訳では無い。死なないだけで項を打てば気絶するし、脳震盪も起こす。使えるものは全て使い、四肢の神経に重い一撃を打ち込んで麻痺させる。やがて気絶した鬼を日輪刀と同じ鋼の杭で木に打ち付け、朝日と共に弔う。首を取らず、余計な傷を負わせないそれはまるで鬼を守っているようだと、皮肉でそう言ったのは誰だったか。
 打つのと斬るのでは戦法もまるで違う。
 諒日はまだ、その違いに慣れきっていない。
 木刀を包むようにして撫でている諒日に、義勇は手を伸ばした。真ん中で分けられ、汗と湿気で湿る前髪はいとも簡単に指に吸い付く。横に持っていけば、隠れていた朝日が二つ、義勇の目線と絡んだ。その目には少しの驚きと戸惑いの色を乗せている。諒日は自身の目を何も無いただの灰色と評したが、義勇からすれば口より余程語るその目は綺麗だった。
 青色しか識別出来ない諒日は、自分がどんな色をしているか知らない。
 義勇は色に対して特に拘りなど無い。けれど諒日の色は嫌いではなかった。鬼は嫌うその橙色は、人間側の希望の色でもある。新たな始まりを告げる色でもある。あさひ、と同じ音で呼ぶ日の光によく似た温かい色でもある。彼女は人の目を無遠慮に見詰める癖して、自分はその色を隠すなんてなかなかに勿体無い、と思う。
 それも、この何処か安堵を誘うような柔らかさがあんな鋭利に研がれた刃のように輝るのに、それをいつも無機質の青色に隠していたのは特に勿体なく思った。
「……あの、何か……?」
「お前の目は綺麗だと思った。」
「……え、」
「それより、それなりに打ち込んだつもりだが、まだ動けるのか。」
 手刀で脇腹をつつけば「いっ!」とその場で崩れ落ちた。
「……患部を叩くって酷くないですか。」
「……よく立てていると褒めたつもりだった。」
「褒められた気がしないです……。」
 すまない、と少し情けなく上から降った言葉に、諒日は呻き声でしか返事が出来なかった。緊張も解けてしまった為に脳からの麻酔も解け、諒日の身体の節々が痛みを訴え始める。極力避けたつもりだが、塵も積もれば山となる、結果的にたった一戦だけで中傷寸前。年下に、しかも一分間連続素振りも終えた直後の彼に。情けないにも程がある。特に最後は完全に不意打ちのはずだったのに、義勇はあっさりと受け止めてしまった。これが経験の差なのだろうか。ふつふつと身体の底から悔しさが込み上げる。
 はぁ、と分かりやすく諒日が溜息を零せば、頭上から「けど、最後の奇襲自体は悪くなかった。」と声が掛かった。
「受け止めたのが真剣ならば、下手したら折れていただろう。」
 義勇はあの最後に受けた一撃だけで凹み、縦列に罅が入った木刀を見遣る。木製と言えどそう滅多に折れやしない。刀もその身と同じ方向には強いが、横の衝撃にはさほど強くはない。折れれば首だけでなく、四方に飛ぶ細かな欠片は何に当たるか分からない。目に入れば最悪失明。模擬戦闘で手加減をした──とは思えない程重い打ち込みではあったが──と考えれば、諒日が住んでいた山に、数年間鬼の被害がほぼ出なかったのも頷ける。
 道場の脇に置いた手拭いで汗を拭くと、未だに日向の香りが残っていた。
「あっさり受け止められましたけどねぇ。」
 背後で至極残念そうな声で諒日が言った。
「そういえばこの手拭いはお前のか。」
「え? ……あ、そうです。それが何か……?」
 未だ膝をついて座り込んで、首を傾げた諒日の元に歩いていく。少し眉を顰めて義勇の顔を伺う諒日の前に膝を付き、顔を近付けた。
 退けず、身じろぐ彼女のこめかみ辺りで義勇は、すん、と鼻を鳴らした。
 驚きで勢いよく上半身を仰け反らせ、ごつんと肘が床に当たるが、構わず諒日は左耳を抑えた。何が起きたか理解したくない諒日はただただ義勇を見つめたが、彼の気は変わらず穏やかで、何も意図を感じ取れないから余計に恐ろしかった。白と黒、灰色が多く占める世界で、たったひと握りの青色が少し細められる。

「これもあさひの匂いかと思った。」

「…………は、い?」
 戸惑い気味に聞き返したが、義勇はそれに答えることなく諒日の手拭いで顔の下半分を覆いながら立ち上がった。手拭いを嗅がれている事は嫌でも理解する。
 ……しかし、何も言ってこない。
 困惑を隠しきれない諒日を他所に、義勇は先程嗅いだ諒日の匂いを思い出す。稽古後の諒日から真っ先に臭ったのはやはり汗の匂いだったが、手拭いと同じ日向の匂いも香った為か、特に不快感は無かった。むしろ今使っている手拭いに自身の汗の匂いがこびりついている方が拙いのではないか。
 いつからか、使用したまま返すようになっていた事を今更思い出し、冷や汗が出る。
「……富岡さんって、犬っぽいって言われませんか。」
 唐突に諒日にそう言われた義勇は振り返る。手拭いはまだ顔の下半分を覆ったままだ。
「無いな。過去に猫っぽいと言われたことはあるが。」
「……、いいです……。汗拭き終わりましたらそれ返してください。」
「いや、洗って返す。」
「え? 別に構いませんよ今更。」
 今更、という言葉に頭が殴られた気がした。改めて諒日自身から言われると、心に刺さるものがある。
「洗って返す。」
「な、なんで突然向きになるんですか。一緒に洗濯するので、」
「向きになってない。俺がする。」
「向きになってますって。え、あっ、待ってください!」
 そのまま道場を出ていこうとする義勇に、諒日は慌てて立ち上がり、後を追った。

 後日、諒日の手元に返ってきた手拭いは少しごわついていて、強く洗いすぎだと苦笑いで指摘する。匂いが戻らなくて、としどろもどろに言う義勇に、やはり犬っぽいですよと諒日は笑って許した。そして前日の仕返しにその場で手拭いを嗅いでやれば、道場の木造と似た匂いがしたので「富岡さんの匂いがしますね。」と言ってやった。

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