だって、だって、だって!
「……っと。これで全部か。」
 頼まれていた荷物を社会科準備室まで運び、ふぅと一息つく。社会科係の神童は部活もあるからと思ってやることの少なさそうなこの係を選んだが、こんなに重い荷物を運ばされるとは思わなかった。まあ予想通り普段の仕事は少ないから助かってはいるが。時間を見ると一時数分前。授業始まるには時間あるし、だからといってまた屋上に戻るには時間が微妙すぎた。音楽の教科書も持っていることもあり、神童は音楽室に向かうことにした。
 雷門中の校舎は普段生徒がいる新校舎とは別に二回りほど小さい旧校舎が存在しており、音楽、美術室、物理室といった特別教室以外の教室は無いのでいつも人気が少ない。改装はもうしているのでそこまで古さを感じさせないが、新校舎に比べるとやはり少しさび付いた雰囲気は残っている。音楽室は二階全部を使っており、北から『第一音楽室』、『第二音楽室』と分かれていた。
「──……。」
 階段を上っていると聞き慣れた音が聞こえ始めた。
「……、これはピアノか?」
 こんな早くから音楽室に行く人なんて自分以外に居たんだと思いながら歩を進めると防音で濁ってはいるけどピアノの音がはっきりと聞こえた。それと同時に
「……歌?」
 耳にすっと入ってくる綺麗な声が音楽に合わせ神童の耳まで届いた。
「──綺麗な歌声だな。」
 それもどこか懐かしさを覚える声。
 俺はこの声を知っている。……どこで?
 聞こえてきたのはどうやら第二音楽室のようだ。ドアに聞き耳をたて中の様子をうかがう。邪魔するのもどうかと思って入るのを躊躇ったが正直どんな人がこの曲を、歌を歌っているのか気になってゆっくりと慎重にドアノブを回した。
 開けた瞬間、息をのんだ。
 カーテンからもれる光を浴びた鍵盤とその上で踊っているような手。
 力強い歌は花を咲かせ、彼女の周りにはまるで草原が広がっているようだった。
 言葉を失った。
 その姿から目が離せず前のめりになったその時。

 ガシャン

 とその世界には見合うはずの無い無機物の音で現実へと帰らせた。ハッと下を見ると腕の中から零れた筆箱の音だった。
「誰!?」
 その少女が振り返ると同時に神童はドアに背を隠した。心臓が今までにないほど大きく鼓動を打つ。静寂に包まれた廊下に響き渡りそうな程だった。
 ガララッ
 わずかに開いた扉の隙間から窓を思いっきり開いたような音が聞こえ転がるように入ると
「──ッ!」
 風が舞い思わず顔をしかめたが、ゆっくりと目を開けると、ピアノより向こうの窓にある格子を今まさに越えようとばかりする一人の少女が居た。太陽の光を浴びた長い髪は風に乗り、元々埃っぽい室内というのもあり、その埃すら光を浴び、きらきらと輝いた。
 月光を浴びた人魚を彷彿とさせる。
 その少女が少しだけ振り返った。逆光のせいでほとんど顔の認識が出来ないが、今時珍しい彼女の着こなしには見覚えがあった。
「……樹越……?」
 ようやく絞り出せた神童の声に、ピクリと肩を震わせたがそのまま飛び降りようとする少女にハッとして駆け出した。これでもサッカー部主将、伊達に鍛えていない。彼女の手が鉄格子から離れた瞬間にはその細い手首を掴んだ。
 掴んだ手首が強ばったのを感じたが手は離せなかった。離しちゃいけないと何故かそう感じた。
「樹越、だよな……?」
 風に舞うカーテンを掴んでいない手で押し退けながらもう一度問う。
「…………なんでここに?」
 神童の問いには答えず代わりに質問が返ってきた。その声に確信を持ちつつ、えーっと……と頬を掻く。
「社会係の仕事が早く終わったら時間が余って……。」
「…………、そう。」
 その短い返答に確かな拒絶を感じた。
「……なんで樹越は此所に、」
「出てって!」
 初めて聞く樹越の声だった。間伸びたいつも穏やかな声音は何処にも無かった。だけどそれは怒りの声では無くて。
「……出てってよ。」
 同じ言葉を繰り返した。言いながら少しだけ振り返った香織の顔はやはりどこか苦しそうだった。思わず手を離しそうになったが、またギュッと掴み直した。
「それは出来ない。」
 香織の目を見据えながら言う。
「なっ……!」
「だってこの手を離したらお前は俺の前から居なくなるんだろう?」
 カッと見開く香織は大きく口を開いたが、声までは出さず目を反らした。
「……神童のくせに、よく分かってんじゃん。」
「おい、くせにってなんだ。」
「そのまんまの意味よ。」
 フッと小馬鹿にしたように鼻で笑われる。これには神童も顔を怪訝そう歪めるしか無い。
「……お前ってそんなに俺に対して当たり強かったか?」
「今更気付いたの?」
 こう言えばああ言う、ああ言えばこう言うとはこの事だと神童は溜息を付いた。それでも手首を掴む力は緩めない。
「……さっきの歌声って、」
「ねえ神童。」
 話を戻そうと口を開くとまたしても香織に遮られた。
「出て行かなくても良いからせめて手は離してくれない? さすがにこの体勢キツいんだよねぇ。」
 そう言われてようやくパッと手を離した。たしかに窓格子という不安定な場所にいつまでも居させるのはまずいと気付いた。
 そのまま逃げられるのではないか、と凝視すれば香織はこちらを一瞥したあとふわりと宙を舞った。
 スタン……と靴音をたて振り返った香織は、今度こそ太陽の光を真っ正面に浴びてそこに立った。途端にハァ……と深く溜息を付いて腰に手をやった。
「それで? 探偵気取りの神童くんは私をどうしたいわけ?」
「たん……? いや、別にどうしようとは思わないけど……。」
「……、あそう。」
 大げさにもう一度息を吐いた。
「…………なに〜?」
 怪訝そうにそう言われて、ようやく自分が香織を凝視していたことに気付いて「あ、いやっ。」と慌てて目を反らした。
「……あ〜〜! 結構上手く躱してたのになぁ……。しかも先にバレるのが神童だなんて……。」
「どういう意味だ?」
「い〜え、ナンデモ。」
 なんでこんな当たりが強いのかに疑問を抱くと香織は真っ直ぐにこちらに近づき……

「お願い、誰にも言わないで。」

 静かな空間と突然の近距離に圧倒されながらも「な、何を……?」と絞り出すと
「……ここで歌っていたこと。」
 香織は目を晒した。ん? と首を傾げる。
「別に隠さなくても良くないか?」
「はッ、…………恥ずかしいじゃぁん!!」
 もうどうしてこうなっちゃったかなぁ!? と顔を隠ししゃがみ込む始末。
「お願いだよ神童〜〜! 1人でこんな、歌ってたのを知られたら、は、恥ずか死ぬ……。」
「……俺以外、まだ誰も知らないのか?」
 そう聞くとうんうん唸っていた香織は顔を上げて首を傾げた。
「そうだよ? 私を誰だと思ってるの? 何さま俺さま香織さまだよ? この1年ずっと躱し続けてたのに……。」
「1年も……ってもしかして中1の春から、ずっと?」
「悪い?」
「あ、いや……。」
 悪いか悪くないかで聞かれてしまえば、別に自分は風紀委員でも無ければ先生でも無いし、悪い事は一切していないから香織をどうこういう事はない。そんなのは個人の自由だ。
「……樹越はこの事を知られたくないんだな?」
「そうね〜、特に緋月あたりとか。新聞のネタにする気満々だし……。」
「良いぞ。」
「……へ?」
「言わなければ良いんだろ? 」
 それぐらいならお安いご用だ。
「えっ、えっ? 本当?」
「但し、」
 自分も膝を付き、香織に目線を合わせる。まんまるの垂れ目をさらに見開いていた。その姿にふふっと思わず口角を上げた。

「これからは俺に聴かせてくれないか?」

「……………………え?」
「樹越はこの事をバレたくない。俺は樹越の歌が聴きたい。な?」
 指折りで説明すると、二度ぱちくりと瞬きしたあとぎゅっと眉をひそめた。
「いや、『な?』じゃなくない? 聞かれるのが恥ずかしいのにまじまじと聞かれるのもっと恥ずかしいでしょ。」
「ふーん、良いんだ? バレても?」
「いやいやいや、それとこれとは話が別じゃないですか。」
「何が?」
「ウッ……。で、でもでも他にバレたら私二度と歌わないからね!」
「たしかにそれは困るな。」
「……え、何が?」
「だって折角良い声しているのに勿体ないだろう?」
 そう言った途端、香織は突然立ち上がり後退った。しかも顔が林檎のように真っ赤になって。
「……あ、あんた、自分が何言ってるか分かってる……?」
「ん? 良いものを良いと言っただけだが?」
「……ハァ…………、あんたって昔からそ〜……。」
「昔?」
 小学校の時は会話らしい会話をした記憶が無いが何かあっただろうか。
「いや、覚えてないなら、ないでいいよぉ。こっちの話だしぃ……。」
「そうか。で、どうするんだ?」
 自身も立ち上がり、仁王立ちしてみせると「うぅ……。」と半歩後退り、暫くして
「……分かった、分かったよもう〜! しょうがないな! 1人でも誰かに言おうとしたら、二度と歌わないんだからね!」
 と睨み付けてきた。
「……本当に良いのか?」
「なんでそっちが意外そうにしてんのさ〜!」
「いや、本当に承諾されると思わなかったから……。」
「なんっ、ただの脅し!? 最初からする気無かったってわけ!?」
「でも良いって言ったからには俺も来るからな。」
「む、むかつく〜〜!」
 むきゃ〜! とよく分からない言葉を発しながら後ろを向き、全ての原因であった俺の筆箱を拾い、こちらに投げつけた。
「おい、物を投げるな!」
「ふ〜んだ!」
 反省の色を全く見せずそのまま扉の鍵を閉めた。
「なんで鍵を閉めたんだ?」
 俺の疑問には答えず、そのままズカズカと歩き出し、自分の横を通りピアノの椅子にドカッと座った。
「だってまだ時間あるんだもん。」
 むすっとした顔のままようやく答えを言う。時計を見ると時刻は予鈴15分前。
「いつも樹越が自分で弾いているのか?」
「そ〜だよ〜。神童上手くないですけどね〜。」
「俺がピアノ弾けるの知っているのか?」
「……合唱コンで弾いてたの聴いてるし。」
「それもそうか。……あ、じゃあ俺が弾こうか?」
「……へ?」
 またしてもすごい勢いで振り返られ、目を見開かれる。
「あ、いや、まぁ、弾いてくれるなら、まぁ……。」
 歯切れの悪さに疑問を感じながら、この短時間で聞いても当たりの強い答えしか返ってこなさそうな事を学んだので深く追求はしないことにした。
「それに歌の方にも集中できるだろ?」
「まぁ、たしかに……。」
「運動部だが、これでもピアノには自信があるんだ。」
「知ってるよ。」
 自身の二の腕を叩き言うと、即答が返ってきた。
「……神童のピアノの腕は疑ってないし。」
 合唱コンクールは年度末にやっている年に一回の行事だ。まだ一回しか披露していないが、一回だけで分かってもらえるとはなかなかに嬉しいものである。
「樹越は何を歌うんだ?」
 気分が良くなり香織の隣に腰掛ける。
「……基本、なんでも歌えるけど。」
「そうだな、じゃあ……。」
 鍵盤に手を置き弾き始めると
「これ……。」
「これなら知ってるかなって。」
 そのままきらきら星の歌詞を紡ぎ出した。

 隣で聞くと尚更凄いなと素直に思う。先ほどのお腹から出す力強いのとは違い、優しく、囁くように溢れ出る。感情豊かに歌に乗せることは難しいことではないが、ここまで雰囲気さえ変えてみせる歌声には初めて出会った。そう、初めてのはず。香織の歌声を聞いた時から何故か懐かしさすら感じる。
 弾き終わると、ふぅと息をはき出す。
「……満足?」
 肩を竦めて香織が聞いてきた。
「あぁ! それはもちろん。ここに来る前から思っていたが、本当に歌が上手いな。好きな声だ。」
「ブッ!?」
 褒められたのがそんなに意外だったのか突然吹き出した。
「す、すっ、すっ!?」
「あぁ。それに高音もちゃんと崩れずに出ているし、表現も豊かだ。凄いな。」
 横を見るとバッチリ目が合ったあと樹越はそのまま肩を竦め小声で「あ、ありがとうございます……。」と萎縮した。
「あとそうしていると本当に別人だな。」
「ま、まぁバレたくないんで……。」
 その回答には思わずふふっと笑ってしまった。
「勿体ないな。」
 すると香織は手のひらをこちらに向ける。
「分かった、分かった、もういい。一旦黙って神童。」
「うん? 分かった。…………。」
「う、う〜〜ん、そういう事じゃ無くて、いや、日本語的には合っているのか。め、めんどくさ……。」
「もういいのか?」
「ごめんね、私が悪かった。」
「樹越は何時ここで歌っているんだ?」
「次が移動教室の時だけ、かなぁ……。って、あ。」
「どうした?」
 そそくさと立ち上がり急ぎめに片付けを始めた。
「いや、そろそろ行かないと授業に間に合わないなって。」
「間に合わないって、次音楽だろ?」
「教科書持ってきてないんだもん。音楽の時は。」
「ハァ!?」
 音楽の時こそ持ってくるんじゃ無いのか?
「だって毎回一番最初に来てたら誰か一人は違和感持つでしょ。音楽係でも無いのに。」
「た、たしかに……?」
 一理はあるかもしれな……。
「待て待て待て! どこから帰るつもりだ!」
 何故ドアに向かわず窓の方に向かう。
「窓に決まっているでしょ〜?」
「いやいや、危ないだろ!」
「これを1年半続けてるんだよ〜? 今更じゃない?」
「いやいやいや……。」
「なんだったら付いてくる〜?」
「え。」
 ガラガラガラッ
 香織が窓を開けた瞬間、夏の湿度の高い熱い風が一気に入り込む。格子に上り、いつもの悪戯笑顔で振り返る香織の姿は本当に異世界の住人のようだった。
「気になる?」
 自分の中でこの樹越香織という人物がどんどん書き換えられていく。それは決して悪い意味では無く、だからといって良い意味なのかにも疑問を抱く。
「……危ないと判断したらすぐに止めるからな。」
「流石お節介。」

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