2019
敗北の延長戦
 再会してからゆっくりと、その皐月の風のような涼し気な瞳に異様な熱が隠る事があった。ずっとその目に恋焦がれ、追い続けていたからこそ、涼太の仕事では見せない色違いの熱にはすぐに気付いた。けれどその目線が庵を捉えながら彼女の名前を口にするのが、庵にとって滅法心臓に悪かったのだ。伝染したように熱が身体中に駆け巡り、心臓を圧迫し、喉を渇かせ、言葉を焼き尽くす。最近じゃその頻度も増え、いい加減慣れていいじゃないかと思っても、結局今日まで一度も慣れる事はなかった。声も顔も距離でさえ、他人に対してのそれらと変わらない。ただ「庵、」と呼んで向けた瞳の奥の色だけが違う。彼がステージに立つ時も同じような熱が灯るが、こちらは言葉通りの“異色”であった。この時だけ、庵はその瞳を見れなかった。太陽に近づきすぎれば蝋の翼は呆気なく溶けるからだ。
「庵、」
 必死に、必死にその熱から遠ざかろうともがいた。
 仕事に続き、体力作りの為にも有志のレッスンに顔を出した後、一息ついたソファで呆気なく意識を手放したらしい。身体の軸が曲がってしまい、動かせば節々が悲鳴を上げるだろう事は安易に想像がつく。普段なら絶対にしないようなミスだ。ぼんやりとした視界と思考でやらかしたなぁ、と思って身体を動かそうとした瞬間、涼太の声が真っ直ぐに耳に入った咄嗟に目を閉じ、狸寝入りしてしまった数分前の自分を呪いたい。それも何故してしまったのか検討もつかない。どうしてだか彼の前では通常に振る舞う事が叶わないのが何より困る。……今まさに!
「こんなとこで寝たら風邪引くよ。」
 なら起こしてくれ、と先程から何度心の中で叫んだだろう。そうすれば然るタイミングの後に目を開けてリョウくんなんでここに、見つかっちゃって恥ずかしいな、なんて茶化しながら部屋を出ていくのに、無駄に狸寝入りなんかしてしまった為に逃げる事すらままならない。つくづく自分の顔色が心臓に直結していない人種で良かった、と思い直す。顔は至って平常に、心は爆速に駆け抜けるこの時間は一体何なのだろう。早く起こして欲しい。
 しかし、庵の切実な願いは全く届かず、どさり、と真隣に座った気配に指が小さくはねてしまった。気付かれなかっただろうか。いや、気付いて欲しい。なのに、彼はそっと庵の頬に掌を添えてみえるものだから思考は混乱を極めた。
「久しぶりに庵の寝顔なんて見たな……。」
 ごめんなさい、起きてます。寝てないです。
 涼太に嘘をつき続けている現状に、心の中で謝り倒す。こんなの、起きた時にどんな顔をすればいいのか分からない。もう、もう勘弁して欲しい。わたしが、悪かったから、
 あぁ。あぁ、分かってしまう。今の彼はきっと“あの眼”をしている。庵の体温より少し低い掌が、眠気を誘っていた身体に冷たく優しい。けれど薄暗く、赤みを帯びた瞼の裏では彼の目線に熱が隠っているのを捉えてしまう。さわり、と親指の腹が頬を撫でる。
 庵、……庵。
 言葉にしてはあまりにか細く、吐息にしてははっきりと文字を象っている。起こす気無いでしょ、なんて泣きたくなる気持ちで口から出そうな心臓を押さえつける。今ので起きるべきなのか、いや無理、と脳内会議をしていれば見事にタイミングを逃した。
「……本当によく寝ているね。前なら俺が近付いた時点で目を覚ましてた。」
 だからもう起きてますって……!! なんだったら来る前から起きてました!!
 届かない心の絶叫はもう懇願だった。
 涼太は此れ見よがし、とでも言うかのように頬に添えていた手で頬に目尻、前髪、鼻筋と辿っていく。その指があまりにまるで壊れ物を触るようで、赤ん坊を慈しむようで、親愛を示す愛撫のようで。狸寝入りをしているせいで手を握る事も許されず、しがみつく事も出来ずに、ただ、ただ、平常を装いながら今にも何かが崩れそうなのを必死に堪える。落ち着かせるために少しだけ呼吸が深くなる事にも気付いていないのか、涼太の指は顎のラインを沿っていく。触れられた部分の触感と目を閉じている事による聴覚がどんどん過敏になっていくのが分かった。彼が動く度に布が摩擦する音、触れた指から伝わる他人の熱、感じ取ってしまうその目線も。もはや最後は視姦されているような恐怖すら覚えた。
「…………うん。庵、演技下手になった?」
 ──………………?
「さすがにここまでされたら擽ったくて起きると思うよ。珍しく空寝なんてするから、ちょっとからかったのは謝るけど。」
 思わず目を見開いて、声の元へ目線をずらすと、思っていた以上に近くにあった“その目”とかち合う。
「あ、ほんとに起きてたんだ。」
 しまった、と思ってももうどうにも繕えなかった。
 ぶわり、と蓋したはずの熱が溢れ出す。なんで、と問いたい言葉は喉に引っかかって出てこれず、ぱくぱくと口が開閉した。なにより涼太との距離に耐えられず、庵は背筋を大きく反らす。
「俺が隣に座った時に指動いたし、庵って俺の声にやたら反応するから、名前呼んで反応しなかった事ないでしょ。……良くも悪くも。」
 馬鹿だね、と涼太は叱られた子を慰めるように笑う。あぁ。あぁ、何故気付く。何故私はその目の奥にある熱に気付いてしまう。身体が変に浮ついて、ふわふわと思考が溶けだしてしまうその“熱”。
「さすがに自分の癖は把握しきれてなかった?」
 くつくつと、楽しそうに喉を鳴らした。
「庵ってほんとにわかりやすい。」
 どくん、と今までで一番大きく心臓が脈打った。涼太はまるで意趣返しに成功した狡い大人のように、白い歯を覗かせて目を細める。その顔に庵の脳内ではけたたましい警報が鳴り響いた。これ以上は駄目だと理性と心が叫ぶ。はくはく、となんとか今まで堪えてきた平静が形崩れし、羞恥とはまた違う何かがきゅうきゅうと胸を締め付け、その苦しさに視界が滲んだ。なんで、なんで、と脳内に疑問詞が飛び交う。耐えきれず手で顔を覆った。隙間から小さくごめんなさい、と繰り返す言葉はあまりに弱々しい。
 流石に泣かれると思わなかった涼太は驚いて「あ、ごめん、庵! 泣かせるつもりは無かったんだ。」とソファに片膝を乗せて身体ごと庵に向き合った。「擦ると目が腫れるよ。」、「落ち着いて、別に怒ってないから。」等と言いながら涙を拭おうと庵の手首の下から包むように掴む。いとも簡単に手は顔から剥がせたものの、ふるふると庵は頭を振るった。

 庵は余程の事がない限り、泣かない子だった。
 演技の面においてはごく自然に、計算されたかのように美しいまでの雫をほろりと零してみせるが、私生活においてその瞳を濡らす事はそう無い。涼太でさえ片手で足りる程しかないのだから、彼女の身内もそう無いだろう、と思う。……思っていたのだが。
 こんななんでもない事でその雫を零させてしまった事に涼太は内心とても驚いていて、多少の罪悪感を抱いた。けれど同時にその裏に隠れたこの熱はなんだろう、と探る。
 庵、庵、と慰めるように彼女の名前を呼ぶ。その度に震える手を自身の手で包み込めば、ビクリと肩を揺らしたあとに硬直した。俯いた顔からぽたぽたと絶え間なく零れる。肩で呼吸する様は余程だと伺える。
 空寝を少しつついただけなのにこんな反応をされてしまい、正直その涙にどのような意味が含まれているのか分からない。動かなくなった手をそっと下ろし、自分の膝の上でまとめて抑えた。空いた右手で庵の垂れた淡い茶色の髪をその耳に掛けてやれば、その耳の先端まで熱い熱量を含んでいた。本格的にどうしようかと困っていると、また小さく首を振られた。膝と抑え手の間で彼女の手が震えているのが分かる。
「……びっくりしすぎた?」
 ふるふる、と首を振った。
「……えーと、俺にバレてたのが恥ずかしい……、とか?」
 間を置いて弱々しくふるふる、と。まずい、もう思いつく選択肢が無い。あと涙が出るほどって何があるだろう。首を傾げて泣いている原因を探る。
 すると庵の唇が震えるのが見えて耳を近付けた。
「…………く、ん、………、……ら。」
「うん?」
 喉の水分まで涙として零してしまっているのか、聞き取りずらかった。出来るだけ優しく、そっと、丁寧に聞き返すと、庵はうぅ、と零して背を丸めたから乗り出していた身を引いた。抑えた手がギュッと拳を作る。
「その、…………ん、んん……、なんでも、ない。」
「なんでもなくないでしょ。」
 鼻をすする音が弱々しい。少しは落ち着いたのか、瞬きで零れた雫を最後に涙は収まり、嗄れた声は言葉を口にしずらそうだった。それでも泣かせた、というのが心に刺さっている。涙を零した記憶の彼女はその余程の時だけだった。だから、今回何をしてしまったのだろうと不安だったのだ。
「ほんとに、ほんと……、……ごめ、ごめんなさい……。」
「責めてないよ、庵。ゆっくり、支離滅裂になっても良いから、言ってごらん。」
 ポロリ、とまた雫が頬を伝う。目にかからないようにその雫を拭えば、またホロホロと零れ出して、白旗を上げた。
 思わずため息が零れたのは仕方が無いだろう。押さえていた手を解放して、足を下ろした。それだけ泣いてしまえば水が欲しいだろうと、腰を持ち上げた時、小さく、それこそ人差し指でほんの少し引っ掛けた程度に涼太のシャツを引っ張った。ピタリ、と止まってからその手が落ちないのを確認してから故意だと悟り、無言のまま座り直す。
 互いの間に手を付き「ん?」と下から顔を覗けば、ゆっくりと涙で輪郭が溶けた瞳を覗かせた。けれどようやく目線があったというのに、弱々しく逸らされて、ほんの少し寂しさを覚えた。
 何度か小さく口を開閉し、言葉を探っているようなので辛抱強く待つ。
「………………その、私も、よく……、わか、わかん、ない……んだけど、」
「ん。」
「……や、やっぱりリョウくん、困らせる、から……、や、」
「聞かせて。」
 後に嫌だと続くだろう言葉を遮り、その瞳を見つめる。きゅっと唇を噛んでゆらり、と瞳が揺れる。
「……、……目の、前で……っ、リョウくんの、リョウくんが……、」
「……うん。」
「その、…………リョウくんが、笑ったら、こう……、胸が、きゅー……って、……鳴って、苦しくて、おも、思わず……。」
「………………。」
「リョウくんは、なにも悪くないから……、私が勝手に、ごめんなさい。困らせたいわけじゃないのに、気遣ってくれる度に、ぎゅうって、涙が、…………ごめんなさい。」
 ポロポロとまた涙が溢れ出す庵の隣で、彼女から顔を逸らした。そのまま右手で口を抑える。うっ、と嗚咽すら漏らす彼女の熱が移ったのか、自身の顔も分かりやすく火照っていた。なんだその殺し文句。心配して損…………、いやこれは、……得したと、言うべきだろうか。
 自分の笑顔を見て、胸が苦しくなったから涙が零れた、なんて。それは……、それは…………。
 そんなの、確かに困るし、自分にはどうにも出来ない。涼太は抑えた口から零れる吐息が、あまりに熱くて、どうしようと悩んだ。自身が興奮しているのが丸わかりだ。彼女が目を閉じて涙を抑えることにしか気がいっていなくて助かる。
 出来れば庵自身にそれが何故なのか気付いて欲しかった。今でも思い出せる、初めて出会った時のその目に宿っていた熱は、決して“憧れ”なんて形容するには生温い事を思い出して欲しかった。『一目惚れだったよ、あれは』と何よりも涼太自身が言うのはおかしな話だろう。俗に言う“恋する乙女”みたいな潤んだ目が、火照っていた頬が、浮かれたように垂れ下がる眉毛が、僅かな興奮に震えるまつ毛が、一目惚れでなく何だと言うのだ。涼太自身、別に彼女に一目惚れはしていなく、ただ付き纏われてから知ってしまった彼女の素に、そっと惹かれていっただけだ。恋の駆け引きとしては完全に庵の粘り勝ちなのだが、当の本人がまるでそれを分かっていない。だから早く気付けと、俺はもう君に負けているんだと、そう言ってやりたいのに。
 そう言えないのは、あわよくば庵自身がそれに気付いて、もう一度、初めて出会った時のような顔をしてくれないかと、期待してしまうせいだ。
 何故か涼太に対してだけはやたら頭が固い庵の事だから長期戦は覚悟の上だし、お互い芸能活動が第一優先だから事は急いでいない。ゆっくりでいい。……ただやっぱり、早く、と急かす気持ちがないなんて事は否めない。
 なんだ、すぐそこじゃん、と柄に無く浮かれてしまう。……いいや、どうせまだなんだろ、とまだ残っていた冷静な自分が頭の隅でボヤくが、多少の期待ぐらい許して欲しい。後でやっぱりそうだったと頭を抱える事になっても。
 はぁ、と興奮を隠しきれない熱の持つ溜息を零せば、ビクリと庵の身が震えた。ごめんなさいと項垂れた頭がどうしようもなく愛しく感じてしまって、口元が緩んでしまう。「別に困ってないから謝る事じゃない。」と言えば、驚いたのか彼女が顔をあげようとするから思わず上から抑えた。未だ熱に浮かれるこんな顔を見られたらたまったもんじゃない。そのままじゃさすがにまずいと、少し乱暴に頭を撫でる。「わっ、」と零れた声は、吐き出してスッキリしたのか、もういつもの調子に戻りかけていた。……相変わらず現実に帰るのが早いな。
「それだけ泣いたら喉渇くでしょ。スポドリ買ってくるからそこで待ってること。今ハンカチは持ってる? じゃあとりあえずもう零れた涙を拭いて。」
 コクコクと順々に頷く庵に「良し。」と言って立ち上がる。そのまま扉へと一歩踏み出して止まった。うぅ、と未だソファの上で呻く庵の頭を今度は優しく撫でる。
「本当に困ってないから。……、…………ちょっと嬉しかった。」
 本音の欠片をそっと零して、今度こそ部屋を出た。少し長めに伸ばしている髪が上手く耳を隠してくれた事を祈って。

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