2018
味のない口付け
 私とした事が、やってしまった。
 庵はまさか自分がこんなテンプレートな事をしてしまうとは夢にも思わなくて、むしろ冷静になっていた。図書館の高い場所にある本を脚立を使って取ろうとして、足場が揺れて、そして……。
 何故、という言葉ばかりが庵の脳裏に浮かぶ。何故居るはずがない涼太くんがここに居るのだろう。何故変装をした私を見つけ、尚且つ声をかけたのだろう。何故……、態勢を崩した私の耳には、私ではない誰かの早まった鼓動が届くのだろう。生憎、平日でこの階に人は来ない。ならこの鼓動は誰のだと……。
「大丈夫、庵?」
 声ではなく、彼の身体を通して伝わった言葉は、私の知らない男の声だった。少しキツめに抱きしめられた腕の中で庵が顔を上げようとすると、ようやく涼太は少しだけ身体を動かした。最初は彼の肩、首筋、癖のある長めの銀髪、そして重なっていく自身と彼の目線に思わず目を見張る。全てがゆっくりと流れ、そうして鼻の先同士が触れそうな程近くに、涼太の顔が視界を埋めた。桜色の瞳に青緑の色が移る。
 思わず庵はぎゅっと目を瞑った。何より自分の身体が、血が、顔がこんなにも熱くなったのは初めてだった。頭の中はこんがらがって、身動き一つ取れやしない。一体全体、どうしたというのか。
 永遠にも感じる中、瞼の向こうで彼の息を呑む気配がした。

 偶然だった。久々の全休、久しく図書館にも足を運んでいなかったと、たまたま足を向けた。平日のお昼は人が少ないからこそ足を運べたという理由もあった。ここで数冊読んでいこうと本棚の合間を縫って歩いていたら、人が居たのだ。それもよく見慣れた人が。元々ストレートな髪を束ね、いつもの明るい服装ではなく、一点の彩りもない白いワンピース。人の気配もしなかった事に驚いたのもあり、思わず彼女の名を呼んでしまったのだ。そしたら驚いた彼女が足場を崩したものだから咄嗟に身体が動いて……。気付けば腕の中に彼女を抱きしめて横たわっていた。身体を起こし、庵の顔を覗けば花緑青の瞳が大きく揺れて、そして固く閉ざされた。目と鼻の先程近い距離であったから、その薄く化粧された目元が小さく震えているのがよく見える。そして緊張しているのかと察して、息を呑んでしまった。もう一度彼女の名前を呼ぼうと口を開き、思い止まる。
 このまま童話の如くキスの一つでもすれば、彼女は目を醒ますだろうか。……いいや。いいや、それでも庵は踊り続ける。踵から血を流しても、林檎が喉につまろうとも、彼女は決してその足を止めない。その姿をどれだけ見てきたか、どれだけ傍に居てあげられなかったか。俺が一番知っているだろうに。
 それでも願いを込めるぐらいは、……良いだろうか。鼻先にそっと触れた時、
「リョーウ!」
「涼太くーん!」
 と声が聞こえた。え、と声が漏れたと同時に目を開け、庵はもういつも通りの“アン”に戻っていた。
「なんか大きな音がし……っ!」
「ちょ、急に立ち止まんなってまも……る。」
「……チッ、一番見られて面倒な人達が来た。」
「えっ、今舌打ちされた?」
「あれ? 下にいるのってアン?」
 本棚の影から飛び出てきた衛と剣介の姿を確認した涼太は、ため息をついてから身体を動かした。
「ワーオ……、ついにラブコメ的展開見ちゃったよ……!」
「衛、ここは一旦退こう。」
「そうだねケンくん……!」
「もう退いた所で何も起きないよ。」
 この静けさでそのヒソヒソ声はまるで意味を為していない。筒抜けの野次馬に一喝する。咄嗟とはいえ、庵の頭を守るように抱えていた腕を退かし、上半身を起こした。
「アン、痛いとこ無い?」
「……。」
 元の調子に戻ったと思っていたが、目線は涼太に向けたまま微動だにしなかった。怪訝そうに涼太がもう一度庵の名前を呼べば、ボッと顔に火がつく。
「……逆上せてそうだね、それ。」
 剣介がそうコメントすると、庵は両手で顔を覆い「あーー……。」と声を零した。
「……“私、死んでもいいわ”。」
「熱烈な告白キタ!!」
「言うなら今しかないなって……思いました……。」
「庵の場合、“Love”じゃなくて“like”でしょ。」
「違うもん。」
「えっ!」
「フアンとして“Love”だもん。はぁ〜……、格好良い……。それにこんな間近でご尊顔を見てしまった……。ハッ、リョウくん! リョウくんこそ痛いとこない?」
「……無いよ。」
 オチは分かっていたにしても、相変わらずかと項垂れる頭を抑えた。勢いよく身体を起こした庵は、そんな涼太の肘や腕を見て傷の有無を確認した。起き上がって手を差し出せば、自分よりも少し褐色の細い手が乗せられ、同時に立ち上がる。
 掃除が行き届いているとはいえ、真っ白なワンピースに汚れが付いたら勿体ないと丁寧に埃を払った。
「アン、今日は髪を巻いてないんだね。」
「うん。今日は完全オフ。お仕事じゃないから良いかなって。」
「髪を下ろしてるの、久しぶりに見たから一瞬誰だか分からなかったよ。」
「イエーイ! 変装も兼ねてたからやったね!」
「……ねぇ、三人とも。ここが何処だか分かってんの?」
 腕組みして涼太が庵達にそう言うと、それぞれ口を隠した。そして小声で話し始める。
「俺と衛はこのあと仕事が入ってるから、涼太とは入口で別れるつもりだったんだけどさ。」
「軽い気持ちで顔を出しに来ただけだったんだけど、こんな場面に遭遇するとは思わなくてね。」
「もう、笑い事じゃないよ。私が足場を崩しちゃって落ちそうになった所を助けてくれたんだから。」
「アンも気を付けろよ〜。」
「はーい。」
「……ねえ、二人とも。時間は大丈夫なの?」
「あっ! そうだね、そろそろ行かないと。」
「おー、じゃあ俺達はここで別れるな。」
「うん。お仕事頑張って!」
「えへへ。ありがとう、アンちゃん。」
 嵐のように来ては去っていった剣介と衛の背中を見送り、ようやく一息つく。見えなくなるまで振っていた庵が手を下ろしてから彼女に問いかける。
「庵、なんでさっき目を閉じたの?」
 まるで純粋な疑問ですみたいな顔で庵を見れば、彼女はぎこちなくゆっくりと瞳を揺らした。
「え、と……、咄嗟、に……?」
「俺に何かされると思った?」
「えっ!? そ、そんな事は、」
「少しも?」
 するとついに耐えきれなくなったのか、後退して本棚の影へと隠れた。「こ、これ以上は供給過多で倒れちゃうから……!」という顔はいつものアンではあったけど、耳の赤さはここからでも見えた。
 それでいい。それで少しずつ自分の事を考えられるようになればいい。
 君は過去を背負わされる山羊ではないのだから。
「あ、ケンくん達が現れる前に鼻に何か触れた気がするんだけど、何かあった?」
「さぁ? それより庵の休日を考えないと。今日は何するの?」

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