2017
春はまだ過ぎ去らせない
 たまたま通りかかった居酒屋の窓を、たまたま覗いたら見知った後ろ姿を見つけた。くるくると跳ねる灰色の髪に袴姿。間違いなく彼女、滝鯉さんだろう。あの子もお酒を飲むんだ、なんて思いながら居酒屋の扉を開けた。
 彼女はカウンター席の1番端に座っていて少し壁に寄りかかっていた。隣の席が丁度空いていたから驚かせてみようと自然に隣の席を取る。
「ウーロンハイください。」
「ハイよ。」
 椅子を引いて腰を下ろす。声でバレるかなと思っていたけど特に反応は無く、これは駄目だなと諦め「滝鯉さん。」と声を掛けた。呼ばれた彼女は2度、瞬きをした後ゆっくりとこちらに顔を向けた。赤い顔に眠たそうに少し伏せられた目。そして俺の顔がその目に映ると徐々に見開かれていった。
「葵くんがいる。」
「ふふ。」
 わかり易く驚く彼女に思わず笑みが零れた。そうして手を上げごく自然に俺の頬に添えた。
「ふふ、葵くんだぁ。なんで触れるんだろう? こんにちは。あれ、こんばんは、かなぁ?」
 大きく開いた目をふわりと細め、赤らんだ頬で微笑んだ。
「た、たき……。」
 今度はこちらが驚かされた。親指の腹で目の下を優しく撫でられ、何も飲んでいないのに体中が熱くなり思考が固まる。普段の彼女からは考えられない行動の大胆さだった。それと異性に、彼女にこんなふうに顔を触られたことが無かったため心臓が大きく脈を打った。
「可笑しいなぁ、1人で飲んでたはずなのになんでここに居るんだろう? ふふっ、もしかしてそっくりさん? お酒飲んじゃったからなぁ、夢の中も有り得るね。なんて素敵な夢だろう、葵くんが出てくるなんて。」
 あっはは、と口元を隠しながら彼女は1人愉しそうに笑い、その笑顔に思わず呑まれそうになるのを必死に堪える。彼女は既に出来上がっている。それだけはよくわかった。
「ハイよ、兄ちゃん。」
 その声に現実に引き戻され慌ててウーロンハイを受け取ると隣から「へ〜!」と声が上がる。もう離れたけれど、触れられた頬だけが未だ熱を帯びる。
「葵くんはお酒飲まないんだ?」
「ウーロンハイだよ、これ。」
「ふふ、飲むのかぁ。でも確かに豪快にジョッキで飲む葵くんも見てみたいかも。」
「……ビールはまだ苦くてあまり好きじゃないんだ。」
「そっかぁ。うんうん、分かるよ。あ、乾杯しよう。」
 そして彼女はグラスを持ち上げ俺の方に傾けた。藍色のグラスの中で氷がカランと音を立てた。
「乾杯。」
「かんぱーい。へへっ。」
 そして初めて滝鯉さんとお酒を交わした。お酒が通った喉から広がる弱めの熱量は溜まっていた疲労に効いた。なんだか一気に老けたような気もする。
「なにか頼む?」
「さっきまで仕事だったからそのままお弁当食べて、そんなには入らないんだけど……。そうだなぁ、折角だし。たこわさ頼もうかな。すみません、たこわさ1つ。」
「ハイよ。」
 少し手を掲げ注文すると店員は快く引き受けた。今日は金曜日だというのに店内は落ち着いていて、けれど適度には賑わっていて。マネージャーズの2人に教えてあげれば喜びそうだ。あぁ、そういや帰りが遅くなることをまだ誰にも言っていなかった。マネージャーの月城さんに連絡を入れると『気を付けて帰って来てくださいね。』と返事が来た。
「──……仕事、かぁ。」
 スマホ画面を消すと隣から小さな言葉が零れた。再び滝鯉さんに目を向けると頬を付き店員の手元を眺めていた。
「……滝鯉、さん?」
 その横顔は俺の知らない女性の顔だった。声を掛けるとゆったりとした動作でこちらを向いた。少し、辛そうに。けれどすぐに目を閉じ少しだけ眉間に皺を作って人差し指を立てた。
「いーい、葵くん? お仕事はもちろん、勉強だって頑張ってて凄いなぁとは思うけどちゃんと『疲れた〜』とか『頑張った〜』とか弱音を言わないと駄目だよ? 何でも器用にこなせちゃうかもしれないけど、身体は皆と同じなんだからね?」
 勢いでこちらに身体を傾かれ、対する俺も後ろに下がる。近い、近いよ滝鯉さん……!
「……頑張り、すぎないで。心配するから。」
 膨らませた頬を萎ませて最後は眉を下げた。
「……大丈夫だよ。今、すごく幸せだから。」
 心からの言葉だけど滝鯉さんはそれで納得はしなかったらしい。不機嫌そうに再び頬を膨らませた。
「ハイよ、たこわさ1つ。」
「ありがとうございます。」
 お皿を受け取り机に置くと「んもお!」と隣から声が上がる。驚いて横を見れば滝鯉さんは手で顔を多い、そして指の間から俺を睨んだ。
「葵くんすぐそういう事言いそう! そおじゃなくて! 少しは周りに甘えてほしいって事! もお……。」
 言いそう、っていうか俺本人の言葉なんだけど……。未だ滝鯉さんの中ではこれは夢か幻扱いにされているらしい。反対側の壁に寄り掛かり「ん〜……。」と唸る。と思えば1度姿勢を正して、またすぐに力を抜いて項垂れた。
「……別にね、私じゃなくてもいいんだよ。」
「え?」
「新くんや周りの人にちゃんと甘えられてるなら、それでいいんだよ。でも葵くん、あまりそんな事しなさそうというかだらけるの苦手そうというか……。うーむ……。」
「はは……。」
 なんか前に新にも言われたなぁ、こんな事。
「……でも、身内だからこそ言えないなら私が居るのになぁとは思う。お仕事も勉強も、学科は違うから全く分からないから何言われても『へぇ』としか返せないけどさ。」
 そうゆう君も普段はあまり話さないのに。趣味や好きな事の話は楽しそうに言うけど、勉強だってバイトだって彼女は1つも愚痴を言った事は無い。
「……居るよ、私。ここに。新くんみたいに隣には立てれないけど、後ろに居るよ。」
 同じぐらいのもどかしさを俺も持っている事を、きっと今言葉にしても伝わらないのだろう。
「友達だから、背中を押せるし、辛くなって振り返ってくれれば、慰められるから。」
 ──……そう、“友達”だから。
「……俺、結構滝鯉さんに救われてるところ、あるよ。」
 それでも少しは伝わって欲しくて声にしてみると今度は喉を鳴らすような声が零れた。
「ふふふ、ブラッシングの事? 本人はストレス発散って言ってるけどね。癖の強い髪に生まれたことを神様に感謝しなきゃ。じゃなくて、うーん……。」
 腕組みをして唸る彼女にやはり伝わらなかったかとウーロンハイのグラスを持ち上げ口に含む。すると視界の端で何かが動き、思わず身構えると頭の上が少し重くなった。そしてそのまま髪を梳かすように後頭部に流れ、また頭のてっぺんに戻る。
「こうゆうこと、現実の葵くんにも出来たらいいんだけどねぇ。なかなかさせてくれなさそうじゃない?」
 ふふっと笑う声にようやく自分が今、頭を撫でられていることが分かった。理解した途端カッと身体中の熱が顔に集まったように熱くなり、その熱は平常心まで焼き尽くした。
「というか、私が照れちゃってなかなか出来ないんだけど。あ、そのせいか。うん、いい子いい子。今日のお仕事、よく頑張った!」
 楽しくなってきたのか一頻り撫でながら笑い続ける彼女にどう対処すればいいのかも、どんな言葉を返せばいいのかも分からない。なんとか滝鯉さんに顔を向ければ「へへへっ!」と照れたように笑われた。
「……葵くんもこんな感じにふわふわしてるのかな。すごく綺麗なのね。くせっ毛だから羨ましいな。」
「そう、かな……。」
 まだ二口しかお酒を口にしていないというのにこのまま滝鯉さんの顔を見ていれば理性まで吹き飛びそうだと、あまり手を付けれていないたこわさに視線を移した。
「うん! 自信もって! すっごくかっこいいんだから。」
「……そう、思ってくれてるの?」
 たった今、彼女の前で全く格好が付いていない自分が情けなく思っていたところなのに。
「あったりまえでしょ!? んもう、びっくりした!」
 ようやく頭から彼女の手が離れ、そのまま勢いよくグラスの中を飲み干した。そして大きく見開いてお酒の熱とは別の何かの熱量を含んだ目が真っ直ぐに向けられた。嫌な予感が頭をよぎり、熱が一気に引いたのを感じる。
「いーい? まずは容姿よね。顔がいい。売れっ子なだけあって顔がいい。これは初対面からずっと思ってたんだけど。大学1年生だったあの時、転んだ私に手を差し伸べられた時は童話の中に居るのかと思ったもん。後に白馬が居たら完璧だった。いや見えた。私には見えた。」
「……待って。」
「高身長なのはきっとご家族譲りかな。遺伝子で決まるとか言うもんね、うん。お料理が好きって言うだけあって健康体だしどんな服もきっと葵くんは着こなせちゃうんだろうなぁ。メンズの和服は身長が高いと栄えるものが多いから羨ましい。すごく羨ましい。」
「……あの、滝鯉さん、」
「もちろん性格も。優しいっていう一言で表せないぐらい周りに気を配ってるし、」
「ストップ! ストップだよ、滝鯉さん!」
「え?」
 いや、首を傾げて「なんで?」って言わないで、滝鯉さん。嫌な、いや良い……予感が当たり頭を抱える。
「あれ? あっ! もしかして照れた?」
「……。」
 なんでこう、ペースを乱されまくるのだろう。
「かわいい!」
 それは彼女が既に酔っ払いだからだ。きっとそれだ。
「あっはは〜!」と再び頭を撫でられ、意趣返しにその腕を掴むとパタリと笑い声が止まった。酔っ払いだからと言って全てが許される訳では無い。
「滝鯉さん。」
「……。」
 瞬きを2度繰り返し彼女は言葉を失った。
「俺、男だよ。」
 声音を落としてそう言えば少し目を見開いて、そして幾らか頬の赤らみも引いたような気がする。
 これで酔いが醒めればいいのに──。
「……ごめん。葵くんでも流石に“可愛い”は嫌だよね。」
「違う、そうじゃない……!」
 項垂れ、彼女の腕も離すと「ごめんね?」と横から言われた。
「よし、飲もう! お酒で忘れよう! 大将! 日本酒もう1合!」
「待って、滝鯉さん! 君酔ってるよね!?」
 勢いよく手を上げる彼女に慌てて止めに入ると再び頭を傾げた。
「えへ、バレた?」
 悪戯っぽく笑う彼女に危機感を覚える。
「バレてるよ! ていうか今日1番最初に自分で進言してたよ!?」
「今日は飲みたい気分だったからね。でもまだ梅酒1杯と日本酒1合しか飲んでないよ?」
「そういう事じゃないよ!?」
「安心して葵くん。奢れるぐらいには持ってきてるから。」
「その部分を言ってるわけでもないよ!」
「もお〜夢の中の葵くんはキチだなぁ。」
「現実だよ!」
「小説で登場人物が『私は一般人です。』って言うと途端に怪しく見えちゃうのと一緒だね!」
「全く違うからね?」
 結局押し切られ、嬉しそうに日本酒を嗜む彼女にため息が出る。たこわさの山葵が涙腺を刺激した。お酒があって本当に良かった。
「むふふ。」
 お猪口を両手で持ち満面の笑顔に、なんだか全て許してしまいそうで力なく自分の喉が鳴った。
「まさか葵くんと飲む事になろうとはねぇ。今まで一緒にお出かけはしたけど、お酒の場だけは無かったね。」
「そうだね。」
 たこわさを食べながら頷くと「ふふ。」と返ってきた。
「……ありがとう。」
 その言葉に顔を上げると熱を含んだ目は優しく伏せられていた。
「……これが夢でも現実でもいいんだ。葵くんが現れてくれて、こうして話してくれただけで。それだけでいいんだ。まだこれ以上は高望みだから。」
 にっこりと笑い、そのまま日本酒を口に含んだ。
「たき、ごいさん……?」
 今までの雰囲気……いや出会った1番最初の雰囲気に戻った。
「葵くんは皆のアイドルだから。たまたま同じ学校で、学科は違うけどよく会うから仲良くなれただけで。葵くんは……皆のアイドルだから。」
 初めて聞く彼女の弱音だった。いや言い聞かせているようにも聞こえた。けれど今の言葉に1つ間違いがある。
「テレビやCDを聴いてるとね、すごーく遠い存在なんだなぁって改めて思うの。好きだよ、歌とか収録されたトークとかラジオ収録とか聴いてると楽しんでるな〜って思うの。すごく嬉しいんだ。良かったね〜って思う。
 でも後ろに居るって言ってもそれは一歩後ろじゃなくて、葵くんからは見えないぐらいすごく後ろかもしれないって思うの。それじゃたしかに駄目だなぁって。でも私じゃ葵くんの見てる世界には立てないから、なら少しでも近付けるように私も頑張らなきゃって思うの。最近はちょっとそれが空回りしちゃって失敗ばかりしてるけど。……あ、本人には内緒だよ?」
 そして再びお猪口に日本酒を入れて「んん……、お酒だぁ。」と少し前の雰囲気に戻った。
「葵くん飲んでる? 酔っても送ってあげるからね!」
「……酔っ払いに出来るかな?」
「む、もう酔ってないもん。醒めたもん。」
「本当かなぁ。」
「信じてないね?」
「ふふ、うん。」
「1ミリも隠さずに認められたぁ。」
 丸まった背中に「あはは。」とさする。顔を覆って次第に「ぐすぐす。」と泣き真似まで聞こえる。
そんな風に思われてたなんて少しも分からなかった。お酒は飲まなさそうなイメージはあったけど、話からして今日は気分転換か……ヤケ酒か。俺を奢れるほど、という言葉からして俺が現れなければ潰れるまで飲むつもりだったのか。潰れたらどうやって帰るつもりだったんだろう。袴と言っても今日の彼女は下駄だ。何かあっても走れないしお酒のせいで咄嗟に力も出ないだろう。見つけられて、本当に良かった。
「んん〜、葵ぐん……。」
「はいはい、ここに居るよ。」
 大人しそうに見えて実際は兎みたいに自由に飛び跳ねてて、掴み所がわからなくて。自由奔放な部分は少し新に似ている。結局巻き込まれる性分なのだ。そう思っていたけど……。
 大学でよく会うのはそう仕組んでいるから。大学で出来た友達の中に彼女と同じ学科の奴がいるから、遊びの予定を立てるためにっていう理由でだいたいの時間を聞いて。もしかしたら今日は会えるかもしれないと思って、彼女の居る学科の棟の近くに居るだけなのだ。やり過ぎかな、なんて我ながら思うけど仕事がある俺にはそれぐらいしか会う接点を作れない。結構必死なんだよ、俺。大学卒業してしまったら、益々会えない所かもう会うこともないかもしれない。中学校、高校と違って同窓会なんて無いんだから。
「……眠い。」
「あはは、そろそろ帰ろうか。」
「待って、お酒全部飲み干す。」
「駄目だよ!?」
「勿体無い……。」
「わ、分かるけど……。」
「あとちょっと、多分1杯分かそれとちょいだから。」
「じゃあ、それが最後ね。」
「うん。」
 しっかりとしたお返事をして背中を伸ばした彼女の手を「あ、」と止める。
「何?」
「最後ぐらいは注がせて。」
「わあ〜!」
 柔らかい驚きの声を上げお猪口を持ち上げた。丁寧に注ぐと「わ〜い、ありがとうございま〜す!」と笑顔で対応された。これを酔っ払いと言わずしてなんと言うか。
言葉通り1杯分で綺麗に無くなったお酒をそのまま勢いよく飲んだ! え、と驚く間も無く「飲んだ!」と報告する彼女に「あ、うん。」と咄嗟に頷いた。

「何言ってるの? 9割私のものだよ、この値段。」
「流石にそれは言い過ぎ。いいよ、折角だし。」
「待って待って、いつもそう言うじゃん。」
「こうゆうのは男に花を持たせるの。」
「ぐ……、それを言われると……。いやいや! 今日はお財布が潤っているので! オアシスなので!」
「ふふっ、オアシス……。じゃあその分、洋服買ってよ。俺、滝鯉さんの服見るのいつも楽しみなんだ。」
「はわわ……笑顔が眩しい……。じゃあ、ごめん。今日もお言葉に甘えて。」
「そこはありがとうっていつも言ってるでしょ。」
「ありがとうございます! ご馳走様です!」
「はい、どういたしまして。ではこれでお願いします。」
「はい。」
「はう……、このまま惚れてしまいそう……。」
 はは、そこは惚れてくれてもいいんだけど。いいんだけどな!
 なんてまだ言えずお釣りを貰い、店員の声を背にお店を出る。昼間に比べ少し冷えた夜風が頬を撫でる。
「大丈夫? 少し風が冷えてるけど。」
「うむ、大丈夫ですぞ、葵くん。」
 存外鞄をはっかりと肩にかけて、親指を立てる彼女に笑いが零れる。
「酔ってるねぇ。もうだいぶ遅いし、送ってくよ。家はどこ?」
「酔ってない、酔ってないもん! 大丈夫、真っ直ぐ歩けるから。」
「さっきの滝鯉さんの言葉を借りると酔っ払いの言う『大丈夫』ほど怪しいよね。」
「むっ……。」
 眉間に皺を作っても凄みは全く無く、もう1度家の場所を聞くと「こっち。」と指さした。
「あ、葵くん。今日の事は全部本人には秘密だからね?」
「ふふ、うん。」
 そう答えるとご機嫌そうに「うん。」と頷き、スキップしそうな勢いの軽い足取りで歩き出す。彼女の行く先を注意しつつ、下駄のカランカランという音をBGMに夜道に出る。特急も止まる駅にしては落ち着いた雰囲気のあるこの場所は駅から離れれば徐々に灯りが減っていく。
夜は少し目立つ髪を帽子で隠しながら進む。隣を歩く滝鯉さんの笑い声が徐々に何かの曲に変わっていく。
 何の曲かはすぐに分かった。
「“はにかむ頬に伝う涙”……。」
「へへ、バレた?」
 自身のソロ曲だ。
「最近? いや葵くんと出会ってからよく聞いてるんだ。歌詞が好きでね。」
 俺と出会ってから……、それはもう年単位で聞いてくれている事になる。嬉しさで緩む口元を堪えきれないと悟り手で隠す。
「葵くんのCDは全部持ってるよ。他の子達のは今集め中。あ、葵くんに物申したいことがありまして。」
「え?」
 立ち止まった彼女に振り返るとシド目で睨まれてしまった。何かしただろうか。
「“こいのぼり”。」
「え?」
「“こいのぼり”! あれは卑怯だと思うんです!」
「え、えぇ……。」
 まさかの駄目だしだった。
「あれは! 卑怯! 声が良い!」
「え、えぇ……?」
 違った、褒め言葉……なのか?
「最後の『あなたと一緒に笑いたい』は、あまりに……あまりに……。」
 何処から声が出ているのか疑問が浮かぶほど謎の呻き声を上げて言葉を止めた。
「……あまりに?」
 少し気になって先を促すと「か……。」と返ってきた。
「“か”?」
「…………っこよかった。」
「ふふっ。」
 顔を覆う彼女に堪えきれなくて吹き出してしまった。
「ありがとう。そう言ってもらえて嬉しいよ。じゃあ家に着くまで歌ってる?」
「それはあまりに贅沢すぎる……。」
「贅沢じゃないよ。俺も今歌いたい気分なんだ。」
「酔った?」
「滝鯉さん程ではないよ。」
「酔っ払い2人かぁ〜。」
 話聞いてないな?
「分かった分かった、降参。歌って帰ろ。」
「大きな子供だあ。」
「2人とも酔ってるからね。」
「ありゃあ。」
 そして2人で声を落とし、どちらからともなく歌い出す。
 楽しそうに、けれど優しさに溢れた彼女との小さなデュエットは心地が良かった。

 気付けば住宅地内を歩いていて、曲も終盤に入った。
「“あなたと一緒に笑いたい”〜……。」
 曲が終わりお互い目を合わせた。口元を隠しながら「へへへ。」と笑う彼女に自分も微笑んだ。
「家、あそこなんだ。丁度良かったね。」
 指差した先にあるのは1軒のアパート。
「今日は見送ってくれてありがとう、葵くん。現実でもよろしくね。」
「……現実だよ。」
 そう言っても未だ信じてない様子で「そっか〜。」と柔らかく微笑んだ。
「──本当だよ。」
 そして今日最初にされたようにそっと滝鯉さんの頬を撫でる。
「!」
 本当にわかりやすいなぁ。心無しか頬が熱くなっているような気もする。
「今日、会えて良かった。お酒を飲むと普段よりよく喋るようになるんだとか、よく笑うんだなとか……本音が聞けたりとか、いろんな滝鯉さんを見れた。」
「あ、あお、くん、あの……。」
「夢じゃないよ。俺、今ここに居るよ。」
 彼女の目を真っ直ぐに見て言えば動揺したように目が泳ぎ、見てわかるほど顔を青ざめていく。
「え、と、どこから本物……?」
「ふふ、全部本物。居酒屋で隣に座った時からね。」
「え、じゃあ……全部聞いて……?」
「そうだね、内緒って言われても本人が俺だからなぁ。」
「え、えぇ、そんな……困る……。」
 肩に力が入り顔を下げた滝鯉さんに首を傾げる。
「何が困るの?」
「全部困る……。」
「ふっふふ……。そういえば、全部本人には内緒なんだっけ?」
「待って……久々に受け止めきれない現実来た……。」
「酔いは醒めた?」
「……全部醒めました……。なんならテストの時より冷静です……。」
「あっはは!」
 顔を多い天を仰ぐ彼女にお腹を抱えた。今度こそは覚めたようで良かった。
 ぽんぽんと彼女の頭を優しく触れば「んぎっ!」と変な声が上がった。
「またね、滝鯉さん。明日授業あるでしょ?」
「……あります。」
「明日、お弁当作っていこうと思ってたから良かったら食べて。」
「食べます。…………え?」
 呆けた顔で目を見開く滝鯉さんに満足して「よし、気合い入れて作ってくるね!」と腰に手を当てた。
「ほら、風邪引くよ?」
「あ、うん。……え?」
「ここで驚きすぎないでね。明日も驚いてもらうんだから。」
「あお、葵くん……?」
「じゃあね、滝鯉さん。」
 微笑みかければぎゅっと目を瞑ったあとに、絞り出すように「……はい、また明日……。」と返ってきた。
 踵を返し数歩先を歩いたところで振り返れば未だにこちらを向いていたので手を振ると、向こうも手を振り返した。
 少しは、少しは近付けただろうか。これを確実な1歩にするために、気合を入れてお弁当を作ろうと決意する。献立は、そうだな……。滝鯉さんの好きなものをたくさん詰めよう。

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