「おはよう」
「ぶはっ! 何だその顔、ヒデーな」
翌朝、ローズダストを訪れると、シグネに朝食を吹きかけられた。
鏡なんて持ってないから見てないけど、ひどい顔をしているんだろう。顔洗え、と指示されタンクの水を借りると、確かにそこには目元の青くなった自分が映った。
「そんな顔で接客されると客が逃げるよ。まぁ、今日が移動日でよかったね」
「花に殴られたんだ」
「どうせまた無理矢理迫ったんだろ。ガキのくせに、一丁前に手だけは早いんだからよ」
「俺……西に、帰るよ」
ぽつりと言うと、シグネはタバコに火をつける手を止めた。
再度マッチを擦り、煙を吐きながら足を組み直す。
「ほう、もう投げ出すんだ。お前はいけそうな気がしたんだけどね」
「何とでも言えよ。そろそろ休暇が明けるしさ……遅れるよりは、早めに帰ったほうがいいだろ」
「で? たった一週間ばかりで失恋した気分はどうだ?」
その言い方に頭にカッと血がのぼり、シグネを睨みつけた。
しかし、ニヤつくシグネを見てすぐに馬鹿馬鹿しくなり、目を逸らす。
「結局、花はキヨさんのことが忘れられないんだよ。俺のことなんか……全然見えてない」
「女々しい野郎だな。銀之助、お前は西に残してきた家族のことを忘れたことはあるか? 家族を忘れて、自分だけ愛してくれと言われたら、お前は家族を切れるのか?」
うん? と顎でしゃくって問いかけられ、返す言葉がなかった。
「自分がガキっぽいのは十分わかってる。だけど……これ以上、花に何を言ってやればいいっていうんだ」
「お前の恋は、側からすれば自分の想いを押し付けてばかりのように見えるよ。お前が花に何を望んでいるのかわからないから、花はどうしていいかわからないんじゃないかね」
「そんなん、花が考えることだろ」
「ウタヨミってのは、ずっと周りに何もかも決められて生きてる人種なんだ。能力が覚醒したら問答無用で軍に保護され、上の選んだ軍人に付けられ、それが死んだらまた次の……だから、花は自分で自分のことを決断するのに、慣れていないんじゃないか?」
シグネの言葉に、戸惑う花の表情を思い出す。
好きだと言った時、いつでも花は「どうしたらいいんだ」と聞いてきた。
その度に、俺が返してきた言葉は、死ぬな──それだけだ。
もし、何か他に選択肢を用意していたら、花は応えてくれていたのだろうか。
胸の中で、ほんの少し咲きかけた小さな蕾を、首を振って握りつぶす。
「俺に出来ることなんかもうない。俺が手を引けば、花のことは菖蒲が面倒を見てくれる。菖蒲は俺より花のことをよく知ってるし、同郷の奴と一緒にいる方が、花も幸せだろ」
拳を握って言い訳をすると、シグネはふうっと煙を吹き散らした。
「あんまり菖蒲を信用しないほうがいいと思うけどね」
意外な言葉に、顔を上げる。
「え……何で?」
「あいつが東を出たのは、一年以上前のことだと聞いた。ここは東や西に比べれば、猫の額のような土地だ。ましてや花のような目立つ存在を、一年間もしらみつぶしに探し回ったというのはどうも腑に落ちない。聞けば、花も菖蒲の本名を知らないというじゃないか。それにあんたらの様子を見ると言っておきながら、近頃、とんと姿を見せない。そんな奴、おいそれと信用するんじゃない」
「菖蒲が何か企んでるって言いたいのか?」
「あぁ。会った時から嫌な予感はしていたんだ。あの身のこなし、数年前に軍を去ったにしてはキレが良すぎる。今でも戦い続けてる奴の動きさ。まだ東に籍があると見て間違いない。さしずめ、過去の尻拭いに花を東に連れ戻そうとしているんじゃないか」
シグネがトン、と灰皿に灰を落とした。
確かに、シグネの言い分には一理ある。しかし、菖蒲にもシグネには気をつけろと言われていたことを思い出し、つい口が滑ってしまった。
「菖蒲も同じこと言ってたよ」
「俺を疑ってるのか? ははっ! ますます怪しいな、あいつ。まぁ……確かに、それはあながち間違ってないよ」
シグネの目が鋭く光り、丸腰にもかかわらず、俺はとっさに腰から銃を抜こうとした。
「おっと、ビビるなビビるな。気づいてるだろうけど、俺も元は西の軍人だ」
「元はってことは、今は?」
「今はどっち付かず……だな。実は、お前に会う少し前、昔の仲間に会ってね、軍に戻らないかと誘われた。全く……お前みたいな素人や、俺みたいな怪我人を引っ張り出さなきゃならん程、西国は切羽詰まってんのかねぇ」
そう言って、シグネは傷跡のある右腕をさすった。
寝起きのためか、いつもつけている長い手袋を、今日は外していた。その腕には、女の肌には不釣り合いな、ひどい火傷の跡が残っている。
「それで、シグネはどうするんだ?」
「まだ迷ってる。故郷に未練がないわけでもないし、この気ままな暮らしも気に入ってる。どうも、決め難くてね」
短いため息をつき、シグネは膝に置いていた手袋をつけ始めた。
その横顔はどこか寂しげで、胡散臭い菖蒲の言葉より、目の前の気前のいい女のほうを信じたくなる。
「でも、ま、何を信じどう動くかはお前の自由だよ。所詮は気まぐれな流れ者の集まりだ。お前がどう動こうが、花も俺も恨んだりしないさ」
「うん、ありがとう」
「最後だからね、飯は食わしてやる。それが終わったら、花に出発の準備をするよう言ってきな。次の村までぐらいは手伝えよ?」
「うん」
お馴染みの口が渇く堅焼きパンと簡単なスープを貰いながら、俺はシグネの言葉を頭の中で反芻した。
花は戸惑っているだけかもしれなくて、どう動くか決めるのは俺。
最後の最後で、小さな希望のかけらを渡された気がして、胸の中に残る綻びかけた蕾の気配を、どうしても消すことができなかった。
*
朝食と身支度を済ませてから、花を呼びに桔梗屋へ向かった。
入り口を捲ると、中に人影はなかった。昨日花がかぶってたはずの毛布もきちんと畳まれ、荷物もある程度纏めてすぐに旅立てるようになっている。
花がどこに行ったのか、悩まずともすぐにわかった。
墓地に向かうと、案の定キヨさんの墓の前に花は居た。
紫の花の模様が入った女物の着物を着て、じっと墓の前でうずくまっている。
まるで置物のように微動だにしない姿に、前なら慌てて駆け寄っただろうが、何だか花は無事だという確信があって、それをしなかった。
そっと歩み寄り、半歩下がって隣に立つ。
花が、抱えた膝からゆっくりと頭を起こした。
「シグネが、準備しろって」
「……うん」
鼻声だった。今まで泣いていたんだろう。
またキヨさんキヨさんと縋って泣いていたのかと思うと、苛立ちより、胃を締め付けられるような切なさを感じた。
もう、こういうこと考えたくないのに。ゆっくりと立ち上がる花から目をそらし、先に来た道を戻り始める。
花が遅れて追ってくる足音がした。まるでその音に同調するように、俺の歩みがゆっくりと遅くなっていく。
「西に、帰るんだろ」
その時、花がぽつりと言った。
さっきの話を聞いていたのだろうか。
「あぁ……うん」
重なる足音を意識してずらすようにしたが、難しい。
不意に足音が止まり、振り返ると、花が深々と頭を下げていた。
「今まで、ありがとう」
長い髪が肩から落ちて、ふわりと揺れる。
永遠のお別れみたいなこと、言うなよ。
無意識に伸ばしそうになった手を、はっと引っ込めた。
「いや……こっちこそ、いろいろ、ありがとう。会えて、よかった」
「うん」
一緒に居たい。
「菖蒲の話も、聞いたか? その……一応、気をつけろよ」
「うん。でも、大丈夫」
離れたくない。
「本当か?」
「知り合いだから、大丈夫」
俺と一緒に、西に行こう。
「……もう、死のうとするなよ?」
「うん、大丈夫」
嘘、つくなよ……。
花が顔を上げた。目元と鼻の頭は赤くなっていたものの、泣いてはいなかった。
ぎこちなく微笑もうとして、うまくできないうちに、花は俺の隣を早足にすり抜ける。
俺は喉に言葉を詰まらせたまま、墓地のほうを振り返った。
キヨさん、あいつのこと、もう、放してやってよ……。
もの言わぬ石を見つめ、募る思いを飲み込む。
ダメだ、考えるな。
お互い傷つけてばかりの恋なんか、諦めないといけないんだ。