ラブインアミスト


『大丈夫だから気にすんな。いいからしっかり働いてがっつり稼いで来い。それからもう謝るのとかも、もういいから』

そう言った。今から一週間前、俺が最後に聞いた恋人の声だ。電話越しのその声が辛そうだって事は、わかっていた。




時刻は深夜2時をまわっていた。そんな時間、部屋の鍵が開いている、それだけで酷く驚愕したというのに、部屋に上がり目にした光景に言葉を失う。

電気が煌々と付けられたままの部屋。玄関に投げ捨てるようにして置き去りにされた黒のバック。それだけならまだいい。問題なのは、脱ぎ捨てたままの形が残った、白のシャツ。次にその先に見えたのは黒いスカート。しかも丈がかなり短いタイトなラインのものだ。これは絶対に人前で履くなと言った覚えがある。

点々と道を作るそれらを恐る恐る辿って行く。やっと靴を発見した。日本じゃ玄関で靴を脱いで生活するのが普通じゃなかっただろうかなんてことを考えている余裕なんて今の俺には全く1ミリも無かった。その隣で小さく丸まっているストッキングと、それに多い被さるように置かれた男物のシャツとネクタイから目が離せなくなって、更に、その少し先に、見覚えがある、ピンク色の、ブラジャー、が

そこで更に数秒、いや数分かも知れない。俺は完全に停止した。

そんな道の終着点である場所はもうすぐそこだった。電気の落とされた一番奥の部屋。ゆっくりと扉を開けると、後ろから漏れた光が真っ暗な空間に筋を作る。奥に置かれたベットに感じる人の気配。進まなきゃいけないのはわかりきってはいるのだが、身体が言うことをきかない。そう意識すれば意識する程、俺の研ぎ澄まされた聴覚は、ハッキリとした呼吸の音を感じとっていた。
幾度となく訪れた恋人の部屋で、こんなに緊迫した空気は初めてだった。俺の脳内では、今考えられる中で一番最悪なシナリオがぐるぐると回り続けている。今正にそれが現実となりかけているのだから、俺の足がまるで根が生えたみたいに床にべったりと張り付いたって無理はないと思う。

少し捲れた布団から細い肩が見える。そしてその向こう側、佐久間の腕の中に見える、黒

鈍器で頭を殴られたような衝撃ってこういうことを言うんだと思う。俺は息を潜め完全に気配を消して、ただ立ち尽くしていた。びっしょりと汗をかいた両手から、すっかり元気を失ってしまった花束と水色のリボンがかけられた小さな白い箱が音を立てて落ちた。

その音を合図に、俺の足が素早く動き出す。今までが嘘のように勢いよく布団を引き剥がした。しかし次の瞬間その右手は、力を無くしてだらりと落ちた。そこには下着一枚で眠る恋人の姿。その腕の中、予想していた人間は居ない。佐久間が愛しそうに抱き締めていたのは黒髪の男の頭、ではなく、小さく丸まった男物の黒いコート。それもよく見ればとても見覚えがあるものだ。

全身から力が抜けるのがわかった。俺はそのまま重力に従い崩れるようにずるずるとベッドを背にして座り込み、右手で顔を覆うと長く重い息を吐き出した。

漸くそうした後、冷静さを取り戻した俺は音を立てないよう注意しながらベッドに近付き、佐久間の額に張り付いた前髪を手ではらってやった。佐久間はうっすらと汗をかいて、呼吸はいつもより荒く苦しそうだし、どことなく顔が赤い気がする。ぐっすり眠っている相手を起こすのは気がひけるが、ここは意を決して声をかける事にした。

「…佐久間、佐久間、大丈夫か?どこか具合でも、」
「…、んだよ、」
「佐久間、おまえちょっと一回起きろって。風邪引くぞ?」
「…寒い」
「ほら見ろ。そんな格好してるからだろう。とりあえず起きて、服を」
「…と、は、」

佐久間は、目を閉じたまま掠れた声で何やら話し出した。恐らく意識はまだ夢の中なのだろう。その聞き逃してしまうんじゃないかってくらいの小さな声を漏らさず拾い上げる為体制をぐっと倒して耳を口元に移動させた。

「本当は少し、期待してた」

「無理だってわかってたんだけどやっぱ、どうしても」

ぽつり、ぽつりと話す声が、だんだんと力ないものに変わっていく。俺はどうしようもなくなってしまって、コートを握り締める手をそっと外して、自分の指と絡めさせた。

「でも、仕方ないし、絶対困らせるから。だから…大丈夫に、した。そしたらみんなが、祝ってくれて。気使わせてんなって、わかってたけど。すごい嬉しくて」

でも、と続いた声が、あの日の電話越しの声と重なる。

「やっぱり会いたくて、死にそうだった」

そう言って佐久間は少しだけ泣いた。閉じたままの瞼からぽろぽろと零れ落ちるそれを、ただ唖然と眺めていた。俺が来る前にもひとりで泣いていたのだろう。指先でそっと頬をなぞると、いくつもの涙の跡が残っている。

俺は馬鹿みたいにごめんを繰り返しながら、繋いだ手を強く握った。佐久間は一度だけ俺の名を呼ぶと、それからまた眠ってしまった。

「誕生日、おめでとう。佐久間」

俺はシャツを脱ぎ佐久間に着せてやると、床に転がった花束と箱を手にして立ち上がった。




朝、俺は佐久間の叫び声で目を覚ました。俺が居ることに気付くと何事かと大騒ぎし、仕事はどうしたんだ今直ぐ帰れと叱られる始末。そんな佐久間をどうにか落ち着かせるのは一苦労だった。

この部屋の有様、こうなった経緯を問い質してみてわかった事実がいくつか。彼氏に予定をすっぽかされた佐久間を哀れに思い、共に誕生日を祝うと申し出てくれた友人数人と飲みに行きった佐久間は、散々自棄酒をしべろべろに酔っ払い、そんなになってもどうにかこうにか自力で帰ってはきたようだ。が、記憶はないと言う。そしてシャワーを浴びようと服を脱いだところで、力尽きそのままベットにダイブしてしまった。と、そういう事だろう。
佐久間は案の定酷い二日酔いに襲われ、枕に顔を埋めて頭が痛いと唸っていた。

結局床に投げ出された男物のネクタイもシャツも全て俺の私物で、佐久間の部屋に置いてあったものだった。冷静に考えれば、玄関に男物の靴が無かった時点でおかしいと気付くべきだった。冷静になればあんな見間違いをすることもなかった筈で。あの時の俺の慌てっぷりは、佐久間には黙っておこう。そして、佐久間が無意識に俺の服をクローゼットから引っ張りだして抱き締めて眠っていたという事も。

俯せになった佐久間の上に乗り上げ抱き締めると、髪に鼻先を埋める。

「なんだよ、重い」
「佐久間、酔ったら脱ぐとか、まさかそんな酒癖ないよな?」
「…わかんない。そうかも」
「え」
「だから、源田が見張ってなきゃ何するかわかんないぞ」

俺の中にすっぽりと収まったまま、佐久間はいたずらに笑っている。笑う度に揺れる柔らかな髪がくすぐったい。細い首筋にキスを落としながら、昨日言えなかった言葉を贈る。

「誕生日、おめでとう」
「ま、昨日だけどな」

佐久間は酷く不機嫌そうな顔をする佐久間とは反対に、俺はとても機嫌が良かった。

「なぁ、なんで俺源田のシャツ着て寝てんの」
「自分で着たんだろ。俺が来た時にはもうその格好だったぞ」
「嘘だろ!?」

まあこれくらいは許されるだろうと自己完結しながら、薄く開いたままの唇にもう一度キスをした。
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