大嫌いが増えました


振り向き様に唇に噛み付かれた。後頭部をがっしりと押さえ込まれて呼吸も何もかも奪っていくようなそれはキスなんて甘いモノじゃなかった。

次の瞬間椅子が倒れる音が聞こえ、エスカバは自分が押し倒されたのだと気付く。手袋をはめたままの手で肩を押されそのままぐっと体重をかけられる。その先、ぐにゃりと曲がった景色が二人を見下ろしていた。

「何でこんな事すんだ」
「別に。したくなったから」

エスカバの短い人生で何度目かのこの問いは、また今日も正しく届かなかったらしい。エスカバは今ミストレの下で、前と全く同じ台詞を聞いている。

「したかったから」「なんとなく」いつもそうやって何食わぬ顔で抜け出していく。それは、恐ろしい程に無表情だった。今は解かれているゆるやかなウェーブがかかった髪が、絡みつくようにしてエスカバの頬に影を落としている。

「おまえは、なんとなくで男とヤってんのか」

交わった視線は未だ冷たいままだ。ミストレの目に映るエスカバの表情もまた、酷く冷たい。

「エスカバは、俺が誰とでも寝る様な奴だと思うかい?」
「さぁな」
「俺は女じゃないし、ましてや君の恋人でもなんでもない」
「ああ、知ってる」
「そう。だから俺に好き勝手される必要はない。嫌だったらぶん殴るなりなんなり抵抗して逃げればいいよ。俺を突き飛ばしてさ」

(どの口が言うんだ。俺がもしそうしたら、ひとりで泣くくせにな)

目の前のこの男を突き飛ばして、その先どうなるのか。エスカバにはわかっていた。それはきっと、無表情を決め込んでいるこの男も同じなのだろう。

「ミストレ。俺を見ろよ、ちゃんと」
「見てる」
「見てないだろ。全然」

腕を強く掴む。ミストレは一瞬肩を震わせたが、表情は何一つ変わることはなかった。

「何度も言わせるな。俺は逃げない。逃げてるのはおまえだろ」
「なにそれ」
「俺は、悔しいがめちゃくちゃおまえに惚れてる。心底惚れてんだ。それも初めて会ったその日からだ」

こうして触れられるのは初めてではない。ミストレの女のように細く白い指先はいつだって震えていた。だからこそ、直ぐに気付いた事があった。

自分自身を制御出来ない事が何よりも嫌で、嫌われたいと、嫌われようと振る舞うクセに本心ではそうなる事を望んではいない。そしてそれを徹底的に隠そうとするのだ。相手にも、自分自身にも。そして生まれるその自分自身の中の矛盾を認めたくないが故にまた虚勢で取り繕って、つまりは堂々巡りだ。ミストレという人間は自分で思っているよりもずっとわかりやすい男だと、エスカバはそう感じていた。

面倒臭いの一言に尽きる、そう思った。だがエスカバの知るミストレーネ・カルスとは、そういう人間だった。

「エスカバ」
「ああ」
「いいのかな。言って」
「おまえ以外に誰から聞くんだよ」

すきだっつったろ。何度も。

エスカバはゆっくりと、諭すようにそう告げる。それから直ぐに、頬にぽつりと暖かな雫が落ちた。

「エスカバのそういうとこ、だい…っ嫌い」
「そうかよ」

そう口にしたエスカバはこの日初めて声を上げて笑った。
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