誘われている。
 濃く深い霧の中に。その向こうに。何があるかわからない。何が待っているかわからない。
 しかしXは進む。深く茂る草叢の中を、霧で閉ざされた森の中を。理由はなかった。ただ強く、引き付けられていた。


 ――ギレシアが消えたのは、数日前のことだった。
 彼女は時々いなくなる。少しの間そうして、気付けば戻ってきている。どういう理由かは知らないし、彼女の周りの誰一人として踏み入らないところだ。
 今回もその類であろうことは誰もが感じるところであったが、Xだけは違った。

 ギレシアが姿を消したその日から、妙な心地を覚えるようになったのである。Xの肌、Xの眼球、Xの髪、Xの喉の奥、Xの耳の奥。何かが見つめているような、撫でていくような、囁いていくような、おかしな感覚だった。
 感覚は日に日に強くなる。感覚はXを呼ぶ。感覚は、ある方向を向くようになる。

 ――Xが住まうヨスガの街から、ちょうど東の方角。
 Xが目指す、呼び声のする場所。


 草叢を脱し、荒れた道を行けば開けた場所へ出た。がらんとして、物静か。先程よりも、霧は深い。
 最早自由のきかない視界の中、歩を進めれば、何やら桟橋が見えた。どこか虚ろな足取りで、Xはその先へ進む。
 桟橋の先まで行くとひやりと空気がかわった。薄暗かった空間に光が差す。月光だった。見れば先程まであった霧がそこだけ避けるようにして、その中央に泉があった。
 こんなところにこんな場所があったとは知らなかったXは、呆けたように立ち尽くす。
 そして、我に返った。

「ここ、……?」

 ようやっと正体を取り戻したような顔で、ぱっと赤の目をしばたたかせる。どこ、と言いかけた口が半開きのままに止まった。

 何かがあった。

 それは目の前で、泉の上で、Xを捉えている。空間にぽつりと浮かんでいる。
 それは切れ目のようなもの、だった。
 まるで景色をちぎったような切れ目のようであり、穴のようでもあった。その中は昏く窺えない。
 何があるのか。何なのか。見たこともない未知のそれ。角度を変えて見てみるが、切れ目には裏も表もなく、中には何も見えない。
 切れ目は、筆舌に尽くし難い奇妙さを、Xを引き付ける何かを備えていた。

 そしてXは直感する。この裂け目が、自身を呼んでいたのだと。

 闇が、深い。
 ひたりと見張った眼球の表面が乾いてしまっている。喉を固唾が這っていく。肌は呼吸を止めて、髪は風もないのに揺れている。裂け目に、吸われるように。
 恐る恐る、手が伸びる。着ぐるみのような、黄色いXの手が。

 呼んでいる。呼ばれている。

「ッX!!」
「!?」

 呼び声は後方からだった。稲妻が走ったようにXが振り向く。ギレシアだった。遠く桟橋の元、陸地との境を蹴った。駆けたギレシア。焦燥の色。跳び掛かるように手を伸ばす。桟橋の先、Xは動けない。裂け目が、Xを浚っていった。

 泉には、満月だけが残っていた。



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110726
発端の夜
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