8・「さようなら」





晴れ渡るこの空に

あなたを思えば。


どうか…



芙蓉◆



その日、珍しく仕事を定時に切り上げた涅マユリは、娘であり部下であるネムを残し一人自宅に帰った。
数週間前から続くほぼ不眠不休の仕事にも区切りが見えたのは今日の事、元々自分の科学者的興味からずれた今回の任務は非常にストレスの溜まるものだった。

久方ぶりに帰宅した我が家は何一つ変わることなく、シンと静まり返って自分を受け入れてくれる。
すぐさま常駐している手伝いの者が出迎えに来たので手荷物を手渡した。
居間に腰を下ろし冷えた麦茶を一口口にした時、なにやら奥の部屋で慌しい足音が聞こえ襖が開いた。


「お父さん!帰ってたの!?」

「何だネ、ぷらす。騒がしいヨ。」

「だって帰ってくるだなんて聞いてなかったから!」

「フン、家の主が帰宅するのに許可など居るものかネ。」

「…そう、だけど…。」

「だけど、何だネ。」


不貞腐れている娘にマユリはグルリと眼球のみを動かしぷらすを見た。


「そうだけど、一言教えてくれたら二人で一緒に帰られたのに。」

「……お前って子は。」

「?」


その無自覚の愛らしさを一体如何してやろうかと、時たま父親としてとんでもない事を考えてしまう。


「いや…、私は風呂に入るヨ。」

「あ、はい。」


冷えた麦茶を一気に飲み干すと、こめかみに小さな痛みが走ったがマユリは気にせず居間を後にした。



丹念な化粧を取り、乳白色の湯船に浸かると数週間の疲れが浴槽から溢れる湯と共に流れ出る様だった。
普段は余り寄り付かない自宅だが、正直な所この古びた日本家屋は結構気に入っている。
日本家屋の持つ独特の木の香りは癒しを与えてくれると言うことを知ったのは偶然の事だ…。

中古でもこんな大層な家を買うに至ったきっかけはつまるところぷらすを娘として引き取る事になったときである。
彼女を引き取る前まではもっぱら技局に寝泊りしている事の方が圧倒的に多く割り当てられた隊舎に戻る事もなかった。


「不思議なものだヨ。この私が…、」


…まさか、家庭などと言うものを持つだなんて。



「お父さん。」

「…何だネ?」


手にしていたタオルを搾って疲れ切った瞼の上に当てリラックスしていると、風呂場の扉越しに聞こえる声。


「久しぶりに一緒に入っても良い?」


ためらいがちに呟いた愛娘の声にマユリはタオルを外すと小さく息を吐く。


「……、聞く前に支度は済んでいるのだろう。冷えないうちにこちらにお入り。」

「うん!」


予想通り、既に服を脱いでいたぷらすは笑顔で風呂場の扉を開くと掛け湯をして湯船に浸かった。


「えへへ!背中、流してあげようと思って。」

「お前は力が弱いからネ…。」

「力入れるから!」

「……フン。」


彼女にニッコリと笑われては適わないマユリは渋々湯船から上がると背中を預け自分は頭を洗いだす。
マユリの美しい藍の髪もここ最近まともに風呂に入っていなかったため泡立ちは非常に悪かった。


「今日、ネムちゃんは?」

「もうしばらくしたら帰宅するだろうヨ。」

「じゃあ夕飯一緒に食べれるんだ!」

「家政婦とは上手くやっていたかネ?」

「うん、佐々木さんのお料理美味しいし。毎日送迎の帰りにね、一緒にたい焼き屋さん寄るのがブームなんだよ。」

「ヘエ。」

「今度お父さんとネムちゃんにも買ってきてあげる。二人ともこし餡でしょ?」

「クリームは好かないからネ。」

「白玉入りもあるんだよ!あ、阿近さんにも買っていこうっと!」

「…。」


親と子の他愛の無い会話も考えてみれば久しぶりの事だった。
昔は毎晩の様に一緒に風呂に入っていたのも、今ではごく稀に…彼女がこうして突然押しかけるときだけになっている。


「デ?一体、何の話しかネ?」

「え。」


背中をゴシゴシとスポンジで擦っていたぷらすは察しの良い父に面食らって手を止めた。


「お前がこうして風呂に入り込んでくる時は大抵何か話がある時なのだヨ。」


全ての泡を湯で流し終えると、マユリは額にへばり付いた髪を掻き揚げながら湯船に入った。
ぷらすもその後を追い、向かい合うように顔は向けたが体育座りをして目を泳がせる。


「…、お父さんは私の業務態度を如何お考えですか?」

「如何もこうも。お前はいつも一生懸命では無いのかね。」


空回りなくらいに。
彼女は一生懸命に仕事に打ち込んでいる事など他の局員から聞いている。
特にあの角の生えた一番弟子からは、耳がタコになるほど。


「私、今回のウルキオラの件で一つ仕事が増えて…最初は出来るのかどうか不安だった。」

「……。」

「みんなに迷惑をかけないか怖かった。でも、やってみたら意外とこなせたんだよ。」

「……。」

「ウルキオラに出会って私色んな世界が見えた…。ウルキオラの存在が無かったら私、ずっと阿近さんの隣にいるだけで自分から”ああしてみよう””こうしてみよう”って考える事もしなかったと思う。」

「……。」

「注射は…まだ下手だけど、医療の事や科学の事ももっと知ってみたいって思った。ウルキオラが指摘してくれたから…っ」

「…何が言いたいのかネ?」

「……。」


どこまでも透き通っていてだそれだけだったはずの娘の瞳は、少し会わないうちに随分深い色合いになった様に思えた。


「お父さん、私。ウルキオラに色んなものを貰ってばかりなの。」



この輝きの強い瞳に、自分はあの酷い雨の日も結局見捨てきれずに拾ってきた事を思い出す。



「だから、私にもう少し彼をサポートできるポジションを与えてくれませんか?」



金色のマユリの瞳がぷらすを捉えた。


「お前の作る資料に最近訂正が無くなったのも、そのやる気のおかげだったのだネ。…破面の世話も良くやっているとは聞いていたよ。」

「だったら…っ!」


「だがネ。悪いが、その必要はもう無いのだよ。」

「……え?」


そう決められていたのだから当たり前の事だと、まるで事務作業の申し付けの様にマユリは抑揚無くぷらすに伝える。


「あの破面はもう完治した。」

「!」

「二日後、魂魄と霊圧の結合の後彼には元居た場所にお引取り願うヨ。お前は明日の朝の薬物投与を最後にこの任務を終えて良い。後は私が復元した霊圧の調整も兼ねながら全て面倒見るヨ。」

「…そんな…;」

「井上織姫の協力が功を称してネ。あの女は非常に興味深い。」

「……。」


蒼ざめた表情の少女の頬にマユリは掌を当てる。


「顔色が悪いネ。早く風呂から出て佐々木に水でも貰いたまエ。」

「……私…、」

「話は終いだヨ。そもそも家では仕事の話はしない約束だ。」

「……。」


なだめるように、労わるように、マユリは言葉とは裏腹に彼女の頭を撫でる。
自分とは一切似ても似つかぬ愛しい娘…。
しかし悲痛めいたぷらすの表情は、どこかマユリの素顔に重なるものがあった。


「お前も、もういつまでも子供では無いのだヨ。共に風呂に入るのもこれで最後にしよう。」

「……。」

「ぷらす。もう、お上がり。」

「……はい。」



表情の硬いまま、ぷらすは立ち上がって風呂場を後にした。





「……少々、阿近に期待しすぎたかネェ…。」


再び一人になり、絞ったタオルを瞼に乗せると真っ暗な暗闇の中であの翡翠の瞳の男を思い浮かべる。


「お前がいつまでものんびりしていたおかげで、私の可愛いミイラ取りがまさかミイラになってしまうとは、ネ…。」


問いかけるように呟いた言葉に返答する者はおらず、湿度の高さから汗が流れる。


「フン。長湯したヨ。」








「ただ今帰りました。」


玄関を閉め靴を脱いでいたネムだが、いつもとは違う自宅の状態に小首をかしげた。
きっと自分の帰宅に気づいた可愛らしい妹が直ぐにでも出迎えに来ると思っていたからだ。


「?…、」



数秒もしないうちに出迎えたのは家政婦の佐々木だった。
仕方なくネムは荷物を自室に置きに行こうと廊下を階段側に曲がろうとしたとき、小さく佇む人影に足を止める。


「ぷらすさん?」

「あ、ネムちゃん。」


俯いていた少女が顔を上げるなりネムの表情が一瞬だけ強張った。
湯上りだろう、濡れた髪を乾かすために肩にかけられたタオルで瞬時にぷらすは目元を拭いた。


「今日はみんな帰りが早くって嬉しいな!」


屈託無く笑顔を作った妹にネムはいつもの無表情のまま。


「ええ、あの破面の治療の目処がたったものですから。」

「――っ!そ、そっか!;毎日お父さんに付き合って残業大変だったんだものね…良かったね…!」

「……。」

「夕飯はすき焼きにしましょうって佐々木さんが言ってたよ!ネムちゃんも荷物置いて、早く居間に来てね。」

「……。」


ぷらすは早足で居間に向かってしまったためネムは声を掛けるのを止め、次に脱衣所に身を潜めるようにしている霊圧に数秒強い視線を送ったが直ぐにそれもまた止め階段を登った。




***





「明日、虚圏に帰るんだってだね。」


初夏の空は蒼く高く晴れ渡り、心地よい風が入ってくる午前の時間だった。


「涅隊長の言った通りにしてただけだったから、私も何をやっているのかは詳しくわからなかったけど力が役に立ったみたいで良かった…。」


今日でここでの手伝いも最後に、ウルキオラとも別れの日になる織姫はベッドサイドの椅子に着席しニコリと微笑みかけた。


「ウルキオラくん。」

「…なんだ。」


ゆっくりとこちらを振り返る彼は、初めて現世で出会った頃のような禍々しいオーラを感じない。
決して霊圧が無いからなどではない…内面から溢れる物が変わったように思えた。



「アナタは…、私を恨んでいますか?」


「……。」


数秒見つめあった後、織姫は意を決したように口を開いた。


「私は、私の勝手な意志でアナタを蘇らせた。でも、こうも思うの。…アナタは、ずっと全てから開放される時を持っていたんじゃないかって。」

「……。」


知りたかった。
大罪を背負った咎の魂を…不用意によみがえらせてしまった自分を果たして如何思っているのか。


「…お前は、どう思うんだ?」

「え?」

「開放とは、お前はなんだと思う。」

「……。」



死した魂は通常ならば魂魄となってここへ送られる。
訳合った魂魄ですら虚として存在し続ける。
生命の区切りはあれど魂魄の終わりは消滅以外にあらず、輪廻を繰返してはあの世とこの世を繰り返し行き来し”開放”などは存在しない。


「……それは、……解りません。でも、開放が消滅だとは…私は思わない。」



輪廻を繰返す魂と、罪のまま立ち止まり永久を過ごす魂。

しかしどちらも同じ魂。


「姿を変えようとも、俺は俺のままだ。」

「……。」

「罪は必ず俺の後を追いかけ続け、蝕み続けるだろう。だが…、」

「……。」



息つく瞬間、芙蓉の香りが全てを癒すように薫った。



「全てを背負って全うするのも存外、悪くない。」

「…ウルキオラくん。」



穏やかな

穏やかな彼の顔。

笑顔こそ無いが、そんな”オプション”は彼には必要ない。



「良かった…。私…ずっと、怖かった。」

「……。」

「蘇らせるだけじゃウルキオラくんにはダメなんだって解っていたからこそ…でも、そうね…。」

「何だ?」

「ぷらすちゃんのおかげだね。」

「……。」


出されたその名に、ウルキオラは瞳を閉じた。


「…ああ。」








「ウルキオラ?」



芙蓉の薫りと共に表れた少女に二人の視線が移った。
入り口に立っているその手にはいつも通りの食事に注射器を乗せたトレイ。


「あ!ぷらすちゃん、おはよう!」

「おはよう、織姫さん。」

「ふふ、織姫で良いのに〜!私実は今日で最後だから…ぷらすちゃんまた後でお話しようね。それじゃ。」

「え!?」

「じゃあね、ウルキオラくん。またいつか…どこかで。」

「ああ。」


いつもならば三人になる状況にも関わらず、織姫はぷらすの肩を軽く叩くと部屋を後にした。


「……。」

「……。」


二人になった途端に静まり返った室内。


「…久しぶりだな。こうして二人で話すのは。」

「……そう、だね。」


ぷらすはウルキオラは椅子に腰を下ろし、食事の前にと注射器を取り出した。


「井上織姫には大分慣れたようだな。」


針を引き抜くと小さく粒になった血を脱脂綿で拭う。


「織姫さんは、良い人だって知ってたから。」

「…そうか。」

「織姫さんは、何て?」

「今日で最後だからな。挨拶だろう。」



”最後”

ぷらすの肩がピクリと動く。



「お前も聞いているのだろう?明日ここから出られるそうだ。」

「…うん。えへへ、良かったね。ウルキオラが元気になって私も嬉しい。」

「……。」


いつもの様にヘラリと笑って見せたつもりだった。
しかし、ぷらすの表情ぎこちなさをウルキオラは見逃しはしない。


「最初の頃は、お前の注射の腕前は酷いものだったな。」

「うん。ごめんね、今も痛いでしょ?」

「…元より俺はそんな針の痛みで動じる程やわではない。」

「そう?」

「これでも一応クワトロ・エスパーダだ。」

「ふーん…。」


華もなく色気も無い、呼吸するかのように二人に流れる穏やな時間。

思えばウルキオラはこの時間によって体と一緒に心すらも癒してきたのだと思った。

木漏れ日の光に照らされて、ようやく見つけた己の心。
それは永久の闇夜の中では決して見出す事のできなかった彼の核。


「…いつも私は、ウルキオラに色んな事を教えてもらうばっかりだったね。」

「そうか?俺は特にお前に指示した記憶は無いが。」


ウルキオラはぷらすに指摘する事はあったが、指導した事は無い。
注射の腕前も、料理のレパートリーも、簡単なリハビリ介助も、全てはウルキオラの言動から汲み取ったぷらすの努力で成り立っている。


「指示する事だけが、教えじゃないよ。…自分で考えて動くってことを、ウルキオラから教えてもらった。それは、お父さんにも阿近さんにも教わった事の無いことだったから。」


前まではただこなすだけだった仕事。
しかし彼に出会ったことによりぷらすは初めて自分に心を開かぬ存在を知り、力を試され試行錯誤し答えを導き出した。


「……。」

「あ!;私ったら、何だか湿っぽい事ばっかり言ってるね!今日が最後になるって昨日突然聞いたから…やっぱり…。」

「……。」

「…やっぱり…、」



”悲しくて。”



「……っ。」

「……。」



言えずにぷらすは下唇を少し強く噛み締めた。
破面の彼に、死神のぷらすは引き止める事など言ってはいけない。


打ち解けあい
信頼しあっても
決して、交わる事は出来ない。

それが種族と言う名で線引きされた魂だから。



「私も織姫さんと一緒で、ウルキオラとはいつかまたきっと会えるって信じてるからね!きっといつか破面と死神が解りあえる時が来るって信じてる…!」


だから、さよなら何て言わない。

希望を無くさぬ様気丈に笑うぷらすの、頑なでそして甘い考えに…ウルキオラは頷けはしなかった。
少女に全ての現実を突きつけられる程、酷にはなれず。


「…覚えているか。」

「?」

「芙蓉の花の話しをした時のこと。」

「芙蓉…。」

「お前と俺、同じ空間に存在しながらも時を感じる速度は違うと…。」

「…うん。」


相対性理論の解釈。
あの咲乱れる芙蓉を眺め二人は寄り添いながらもどこかで孤独を感じた。


「今だから言うが…それは多分違うと思う。」

「え?」


珍しく、曖昧な言葉を発するウルキオラの瞳をぷらすは黙って見はる。


「最初は確かに違ったのだろうが、今はあながち俺とお前の速度は違っていないと言う事だ。」

「…どういうこと?」

「…この位置に座るのは…」


ウルキオラは彼女の座る椅子を指差した。


「やはりお前が一番…しっくり来る。」

「!」


優しげな翡翠の瞳に、思っても見なかった言葉を投げかけられたぷらすの頬は一瞬にして朱に染まった。


井上織姫が幾度となくそこに腰掛けたことがあった。
その事に対して自分もましてやウルキオラも何も言った事はなかったし、気にも留めぬように過ごしてきていはずだった。


(…、どうしよう…っ、)


けたたましく鳴り響く心音に、ぷらすはどうしようもなく俯いて拳を握り涙を抑える。


(笑顔で送り出すって決めたのに…、またいつか出会おうって…っ)



「酔芙蓉は最後まで見る事はできなかった様だが…、間違っても俺のこのベッドに手向ける様な事はするなよ。」

「そんなこと…っ、しないよ…!」


これはきっとお別れなんかじゃない。
そう信じ込んで望んだ今日。
でも…これじゃまるで…


目頭が熱くダムが決壊しかけたその時だった、ヒンヤリと冷たい何かが震わせた拳を優しく包む。
酷い顔で頭を上げると、それは彼の白い掌だった。



「…ウルキオラ?」

「お前に出会えてよかった。」

「…え?…あ…あはは、何?ウルキオラらしくない…じゃ、」


クンッと、腕を引かれた。


(……!)



ヒンヤリとした掌は、いつのまにか自分の頭の後ろに回っていた。



「俺は、死なないからな。」



彼の囁きは、まるで己への誓いのようだった。
押さえつけられるほどでもなく、なのに吸い込まれるように翡翠の瞳は近付き次に唇に今まで感じた事の無いぬくもりを捉えた。



「…――っ、」

「……。」



数秒の後、芙蓉の香った柔らかい風が舞う木漏れ日の中で。
ゆっくりとお互いの顔は離れてぷらすはただ呆然と触れられた唇に手を当て、先ほどまでソコに触れていた彼の唇を見つめた。


「ぷらす。」


スローモーションのようだった。
彼の薄い唇はそれほどまでにゆっくりと正確に美しく、さも自然に…。



「さようなら。」





最後まで私が言えなかった

残酷な現実への合図を

キミは、告げてしまった。





-------
悲しい別れの果てに、ヒロインは何を見つけるのか…。

前半マユリ様とお風呂に入っちゃってるのはホントもう私の勝手な願望です!笑
8話まで書いてようやくキスまでとか…!
このサイトには珍しくピュア度高めの作品ですが…完結までにどう転びますかねェ(^^)ニヤニヤ←


2012.06.06up




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