思えばあの時代、俺はあいつに何をしてやれただろうか。
娘時代を奪い、軟禁し、親と違う道を選ばさせ、苦しい時を共に乗り越え…と言うのは少し違う。苦しい時を必死に歯をくいしばり俺の後ろを付いて来させたくせに、俺があいつに与えられた時間は余りにも短かった。
それでもあいつは全てを許すかのように美しく微笑んでいたのだ。
(…だからなのか)
これはその罰なのだろうか。俺の前世での咎なのだろうか。
カランと、とうに空になったグラスの中で、氷が小さく音をたてた。


「ちづる」

西日に照らされた室内で、千鶴はベッドから上体を起こし窓の外を見つめていた。俺に気づいた千鶴は頬を赤く染めてはにかむ。
以前のようにベッドから降りて俺に駆け寄るようなことはない。繋がれる無数のチューブによって、千鶴の活動範囲は大幅に狭められていたのだ。

「連絡して下さったらよかったのに」
「悪いな」
「いえ、来て下さって嬉しいです」

行き掛けに買った彼女が読みたいと言っていた本を渡せば、嬉しそうに礼を述べてその本を受けとる。袖口から覗いた手首が、以前よりも随分と細くなっていることには気づかないふりをした。

「調子はどうだ?」

ぎこちなく笑っていたと思う。少しの沈黙が流れたあと、千鶴は困ったように口角をあげた。

「最近は、随分と良いんですよ」
「…そうか」
「体も、軽くて」
「ああ」
「この調子だと、退院するのもきっとすぐだと」
「よかった」

わかっている。本当は、わかっている。
体が軽くなるわけなんかない。以前よりも体は随分と痩せ細り、起きている時間よりも眠っている時間の方が多くなった。
退院なんて出来るわけがない。点滴の数が増え、病室は大部屋から個室へ移されナースセンターに近くなった。
わかっている、わかっている。それでもお互いに強からずにはいられないのだ。

「…俺は、いつも」

震えた唇から漏れた言葉は、想像以上に悲痛な響きを持っていた。

「また、お前を幸せに出来ねえな」
「…」
「いつもお前に辛い思いばかりさせて、」
「…」
「今も、昔も…俺はお前に…」

泣き言を言ったのは今日が初めてだった。彼女が病に倒れてから決して彼女の前では、こんな言葉を吐かないと決めていたのに。
(…なのに、)

「これは、復讐なんです」

復讐なんて言葉の割りに軽い調子で千鶴は口を開く。
その言葉に驚いて顔をあげた俺と視線を交じわらせることはなく、ただひたすら前を向いて。
千鶴の後ろで赤く燃える西日が眩しい。

「先に逝ってしまったあなたへの復讐なんです」
「…ちづる」
「どうか泣いてください。私との思い出を振り返って、身を引き裂かれるような思いを味わってください。そうして周りを見渡してください。私のいない世界をその目で見つめてください。そうしたら、」

交じわらなかった視線がふいに重なり、彼女が腕を伸ばす。その手に導かれるかのように近づけば、耳元に手を当てられ内緒話をするような体制になってしまった。

「そうしたら、 」

俺の涙腺はその言葉に堪えられなくなって、ついにポロリと一筋の涙を溢してしまった。
千鶴はその様子を見てはいないが感じとったのか、嬉しそうに復讐の第一歩ですと言ってクスクスと笑う。
そんなに震えた声で復讐と囁かれても、怖くもなんともないというのに。千鶴も俺も、大馬鹿野郎だ。







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