scene.1 このきょり
「蔵?はよ起きんと遅刻すんで?」
朝目を覚ますと見慣れた幼なじみの顔が視界に映る。
「ああ、おはようさん」
「おはよ。朝ごはんできたでーって、おばちゃんが」
それだけ言うと、莉緒は俺の部屋を出る。幼い頃から両親が不在のときはよく家で食事をしているから、今日もきっとそうなのだろう。トントントンとリズミカルに階段を下りていく音を聞きながら、俺は制服に腕を通した。
***
「おはようさん」
リビングに行けば、コーヒーを淹れるオカンに新聞を読むオトン、眠そうな顔でトーストを頬張る由香里とその横でヨーグルトを食べる雪。姉貴の朝は遅い。いつもと変わらない、食卓の風景。
俺が食べ終わる頃、莉緒は食器を片付けていて、大体同じ時間に家を出る。
「う〜……寒い」
冬の寒さが厳しい季節になってきた。マフラーをぐるぐるに首に巻き、袖に手をいれて身体を抱く莉緒は頑なに手袋をしようとしない。寒そうに手を擦り合わせながら歩くのを見かねてその手をとってポケットに入れれば、あったかい、と莉緒は顔を緩ませた。
俺の日常の一部となっているこのやりとり。家族に溶けこむほど近い、幼なじみという存在。
「蔵」
隣を歩く莉緒が俺を呼ぶ。
その頬の赤さは寒さのせい。朝起こしに来るのは世話になっているという義務感。隣にいるのに、手を繋いでいるのに、こんなにもこんなにも近くにいるのに、俺らの距離は限りなくゼロで、でも決してゼロになることはない。超えられない距離。
「莉緒」
俺も名前を呼び返す。
莉緒には好きなやつがいるらしい。数週間前に聞いた風の噂。それとなく莉緒に聞いてみれば、浮かべた表情から事実なのだと分かってしまった。分からなければ、淡い期待を抱いていられたのに。それすら許さないほど、俺たちはお互いを知り尽くしていた。
「おおきに」
不意に、ポケットから温もりが逃げる。気がつけばもう学校が近い。好きなやつに見られたくないのだろう、また明日という言葉を置いて、雪はかけ足で教室に向かう。
はぁ。
置いていかれた俺は白いため息をひとつ漏らし、小さくなっていく背中に手を伸ばす。
届かない距離。急激に冷えていく指先。ポケットの中はまだ温かいけれど、あとはただ冷めていくだけだろう。