夢魔という存在があるらしい。
遥か昔、遠い国で存在するとされていたそれは、一種の悪魔だそうだ。

夢魔の視線

寝ている人の夢に入り込み、精を吸いとったり、吐いたりして悪魔の子供を人間に孕ませるらしい。嫌な性格の悪魔だ。
あるいは死ぬまで精を吸われるとかいう説もあるが、どっちも嫌なことに変わりはない。

しかしこの悪魔、人間に夢に寄生しないと存在することができないという話も出ていたり、ちょっと不思議なやつだ。

夢に、寄生。

考えることはたくさんある。自分以外の存在の気まぐれなものによって自分の生を左右されるのだから大変なんだろう。とか、いろいろ考えたりもした。
けれど、頭にこびりつくのは「夢に寄生」ということば。
そのことばは、まるで責め立てるように「夢を描くな」「寄生するな」とざわつく。うるさい。黙れ。
家族、みんなで。……そんなもの、とっくに捨てている!
全てはトロンの復讐がため。そう、トロンの復讐のためなのだから。決して、決して。夢を現実に、なんて甘い考えなどではないのだから。
言い聞かせるように復讐、復讐をと反芻していると机に並べた悪魔や宗教の本の数々に、小さな影が手を伸ばしてきた。
「トロン!」
「イヴにしては気付くのが遅かったね。考え事かい?」

小さな影なんてこの家にはこの人しかいない。あぁ、考えに浸りすぎて扉の音や気配を感じ取れなかったらしい。
不覚だ。トロンが入ってきたらいつもはすぐに反応できるのに。

「えぇ、少し暇が出来たので本をと……」
「宗教? 悪魔の方かな。君は昔からファンタジー小説が好きだったね」
「……はい。それで、幼い頃に読んだ物語の悪魔たちがどんな存在なのか、と。」

悪役から、ピクシーのような妖精、意外とたくさんの登場人物?達の伝承があった。
もちろん幼い子にも目につくような本に夢魔など出てくるわけも無いので、それは先ほど始めて目にした。
研究所にいた頃は活字など、報告書やら資料でしか見なかったのでこういうのは久々だったし。

「夢魔……サキュバスやインキュバスに興味があるのかい?」
「あ……いえ、それは初めて見るものだったのでどんなものかと、」
「知りたい?」
「えっ、」

その手袋越しにページをなぞる指の動きからはトロンが項目を斜め読みするのが読み取れた。そして資料不足だね、と口のなかでごもるのが分かった。
……その口元に浮かぶ笑顔はいつもと同じなのに、何故かぞくりと鳥肌が立つ。なにか、嫌なような、危ないような予感がする。
仮面越しにトロンの鋭い眼光が突き刺さる。

ビリリ、と刺激が走った気がした。電気のような、何かが足の先から脳天まで貫いた。
異変はすぐに自覚できた。怪しく輝く赤が、目に入った。体が動かない、紋章に苛まれるようなこの感覚は幾度か覚えている。

「トロン……何を……?」
「イヴは夢魔に興味があるんだね。どんな存在なのか教えてあげるよ」

私の顎をトロンの小さな手が触れ、手袋と肌の擦れる音が耳に届いた。
椅子に座っている私の膝にもう片方の手が触れる。いつの間にかトロンは椅子に乗っていた。二人分の体重が椅子にかかる。
甘い吐息が聞こえる気がした。だんだんと視界が曖昧に暗くなってゆく。ふわふわと宙を浮かんでいる感覚がし始めた。

「夢魔はね、こんな風にうつらうつらとしている子の意識に潜り込むのさ」
「…………ぁ、れ……」

指先を数ミリ動かすのがやっとになった。あぁ、抵抗は無駄だ。やめて、しまおう……誘惑が頭全体を廻る。シロップに浸るようなとろける……

「今のイヴのような子を、襲うんだよ」

耳から入ってきた小さな刺激は心をも溶かす気がした。心地よく響くその声に、うっとりとする。ずっとトロンの声を聞いていたくなった。

「そして、全てを食べ尽くすんだ。甘い蜜、全てをね」

……。トロンに捧げられるのなら、それも。

甘い夢は唐突に終わった。パチン、と弾けるように視界が、思考が、醒める。それはモザイクが絵に帰るほどに突如としていた。
ドロドロのチョコレートのような思考から一瞬で抜け出した頭は混乱していて、ただ余韻に浸るように目の前の仮面を見つめていた。

「君にはまだ早いかな。いや、イヴも、もうそこまで子供じゃないから平気かなぁ?」

クスクスと笑うトロンは悪戯が成功したと言わんばかり。この人は悪戯がこんなに好きだったのか。まるで幼い見た目に合わせているみたいだ。
トロンは呆けてしまって反応を示さない私に痺れてきたのか、何も言えない私の唇に指先を這わせる。くっつきそうなほど顔を近づけて囁く、ひとこと。

「……君はどんな味がするんだろうね?」
「……ッ!!」

そこでようやく反応できた。食べられる。どの意味で、かは分からないが恐らくどれにおいても良くない意味だ。
トロンが望むなら拒否はしないが、流石に心の準備やらは必要だ。しかし椅子に座ったまま逃げることはできず、ただ顔を朱に染めることしかできなかった。
逃げるように目と顔を逸らせば指は離れていき、トロンは部屋の外へと歩き出す。
飽きたのか、満足したのか。どちらでもいいが、おもちゃにされているのは間違い無さそうだ……。

「イヴ」
「……はい」

背を向けたまま投げられる声。
少年の姿で、その人は吐く。


「夢魔が襲うのは夜だよ。夜に、夢を見る少女だ」


その声は、先程の悪戯と裏腹に、聞いたことのないくらい大人びていた。頭がすぐにトロンとは認識出来ないくらい、色香を纏った声色に、戸惑うことしか出来なかった。
余韻も感じさせず、冷酷なほどに無機質に扉は閉まる。部屋にぽつりと取り残された私は、動けずにいた。
……、この人には振り回されてばかりだ。

まだ甘さがまとわりついている気がして、振り払いたくなって広げていた本たちをてきぱきと重ねていく。
……統計。まだ、出していないんだ。時間が空いたとはいえ、仕事はどうせ順番待ちしていて目白押しなのだから、休憩はやめてそっちをやってしまおう。

逃げるように、棚に本を返すと早々に部屋を後にする。しばらくはこの書斎に近寄りたくない、かも……。何かの悪魔が、潜んでいる気さえした。

振りすぎた香水のように甘い甘い匂いが、まだ脳裏から離れなかった。





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