事の始めは些細な事だった。
イヴが、男性に接近した。もちろんだが情報を引き出すためにだ。
しかし、ずっと男として振る舞っているイヴが女性として……しかも、色仕掛けと呼ばれる類いのソレを行った。最も、家族全員からそれだけはされないと思われていたのだが。

……結果は成功、その男の持つ情報は全て抜き出された。計画に必要な重要な敵側のデータを得られ、イヴの行いは貢献となった。


……はずだったが。





「フフ……苦しいかい? イヴ」
「ぁ………ぐ…ッ!」

イヴはむしろ、褒められるどころか苦しみの声を上げている。
原因は一見で分かる。トロンが白い手袋越しに、右手でその首を絞めているためだ。

石の床はとても冷たく、ぶつけた後頭部がまだ揺れている気がした。
息は吐けるのに満足に吸えない。渇望するように酸素を求めれば口の端から、唾液がこぼれた。

「と……ろっ……、」
「君はよくない手段を使ってしまった。その罰だよ、分かっているね?」
「……!!」
「僕はね、ああいうコトの進め方が嫌いなんだよ、イヴ」

右手が更に絞められる。床に倒れ、手足は紋章の力によって動きを封じられているイヴには、どうすることも出来ないまま。立てられた両膝が、かくかくと小さく痙攣した。
脇に片膝を付くトロンの顔は、薄く笑んでいた。

「イヴ、君は誰のモノなのかな?」
「そ……れは、もち……ろん……トロン、の……ぅあ、」
「そうだね、君は僕のモノだ。誰でもない、僕のね」

その薄い笑みは、ねっとりとイヴを蝕んでいく。重く暗い夜の空気より、心を圧迫するように。
ゆっくりと右手を緩めながら、口を開く。

「イヴ、他のものなんて見なくていい。君は、僕だけを見るんだ」
「げほっ、ごほ、かはッ…ぁ…! ……トロ、ン?」

首にかけていた手を離せば今度はイヴの視界を奪う。見下しながら、まじないを掛けるように言葉を紡ぐ。

「イヴ……君が誰のために動いているのか、忘れないようにしてあげるよ」

何をされるのか、視界が奪われては予測もできず、震えるイヴ。トロンはその姿に恍惚さえ覚えた。

そして、その首筋にそっと……犬歯を、突き立てた。

「――――ッ!!?」

ブチリと千切れるような音が耳の中で響いた。一瞬で訪れた激しい痛みに悲鳴さえ出せず……息を浅く吸い込み、やがて絞り出た唸り声が、トロンを笑ませる。

「フフ……あっははは! ねえ、痛い?」
「……ぅ……、ぁっ……」
「痛いよねぇ、だって血がこんなに出てるもんねぇ!」

気づけば光を取り戻していた視界は、熱く痛む首筋に涙が滲み、暗い室内ではまともに何かを見れることはない。
熱いソコから垂れた、冷たい雫が服を汚した。伝う赤色は皮膚にその跡を残しながら、たらたらと肌と服の染みを広げる。

楽しそうに、無邪気に声だけで笑いながらその傷口を指で弄る。白い手袋の指先に、花弁のように赤が咲きだした。

「ひぎッ! 痛い、トロン、痛い……!」
「当然さ、痛くしているからね」

手は止まることなく、ぼたぼたと目から、傷口から雫が零れる。床に落ちた涙が血と混ざり合う。痛みが麻痺しかけた頃に、耳元で声がした。

「この痛みを、誓いの印としようか、イヴ。君は、僕のために生きるんだ」

それは狂気に満ちた提案だった。けれども、彼女はそれでいい気がした。……正常な思考など重たい。いらないと投げ捨ててしまおう、と。

「……私は、トロンの、ために……」
「そうだ。そして僕以外の者の前で、女性ではいないこと……」
「……トロンの、前でだけ……私が、いる……」

虚ろげに囁き合う二人。儀式の様な神聖さすら漂う空気と、微かな血の匂いが不気味に笑い合う。

「僕だけを見つめるんだ、イヴ」
「……はい。トロン、あなただけを見ます……」
「フフッ……健気でいい子だねぇ……」

痛みは続く。涙を流しながら、がらがらの声で、むちゃくちゃに……イヴは呪いのような言葉を受け入れた。

その様を目に焼き付けた後、トロンはイヴの背中を抱き起こした。
急にほどけた呪縛に、鈍い疲れを示した身体は抵抗など考えもせず、トロンの幼い身体に上半身を預けた。

「君は、私だけのモノだ」

笑みに歪ませた口の中に、鉄の味が満ちていた。


心に杭を


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