溜め息
本当に、ついてない、と思った。「ちょっと。」
「はあ…。」
忘れろ、と言ったくせに、自分から寄ってくるとは、これいかに。
放課後。人も疎ら。ざわざわと騒がしい教室。ホームルームが終わったばかりの教室なんてどこも同じようなものだ。わたしは特に部活にも入っていないということで、いそいそと帰宅の準備を始める
机の中から教科書やノートを一気に取りだして鞄の中へと納めていると、急にそこが暗がりなった。おかしいな、ここは蛍光灯の真下のはずなのに、と思って見上げた先にとてつもなく爽やかな笑顔を湛えている男子学生一人。何ともまあ胡散臭い笑顔だこと。その笑顔が異様な威圧感を持っていて、それに逆らえる術を持っているわけではないわたしは溜め息にも似た返事をして、月島くんの背中を追った
身長が違えば歩幅も違うわけで。月島くんの一歩はわたしの二歩。そのペースで歩いていれば言わずもがな、距離は大きくできて。その距離を埋めるように早足で必死についていくわたしを横目で見て月島くんはふっと鼻で笑う
何だその顔は!まるでわたしの足が短いとでも言いたげで、とてもムカつくんだが?!
そうは思っても、原因はどこ吹く風で飄々と歩を進めているだけ。どこに行こうっていうんだ、と思いながら仕方なく月島くんの背中を追う。背中ばかりを追いかけていたわたしは彼がどこに向かっているのか全くわからず、そしてやっと辿り着いた場所を理解するのに、ひどく時間が掛かった
「お、月島。なんだ、その子。お前の彼女か?彼女だったらお前どうなるかわかってんだろうな!」
「そんなことあるわけないじゃないですか。誰がこんなちんちくりんと。」
「ちんちくっ…?!」
「あ、澤村さんいますか?」
「大地さん?…大地さーん!なんか月島が。」
「ん?」
え、何ここ。
わたしの脳内は置いてけぼり。どこなのここ、誰この強面坊主の人、と思っている間にさらに違う登場人物。月島くんが澤村さんと呼び、その後に強面坊主の人が大地さんと呼んで来たということは、この人は「澤村大地」さんということなんだろう。それにしても、なんでわたしはここに?
体育館の奥からやってきた澤村さん。不思議そうな顔でこちらを見て、首を傾げた。いや、それはわたしも同じ気持ちなのですが。そんな中、全ての答えを持っている月島くんが澤村さんに向かって堂々と放つ言葉
「この子、マネージャー志望らしいです。」
「お、そうなのか?!」
「え、え、ええ?!」
「入部届です。はい。」
「い、いつの間に?!いや、ちょ、まっ、ちが!」
「そうか、そうか!大歓迎だぞ。あ、でも、一応お試しってことで体験入部してからの方がいいかな。入部してからすぐやめられても、だしな。うん。おーい、清水!」
「いや、だから!」
なんで一気に話を進める?!そして誰も人の話を聞いてくれないの?!ていうか、そもそもわたしそんなこと一言も言ってないし!動揺してるの目で見てわかるよね?!
ぎろり、と隣にいるデカ物を睨みつければ、心底おかしそうな顔で笑いながらわたしを見るその姿にイラつく。大体なんで人の入部届書いてんだよ。文書偽造で訴えるぞ。ていうか、どんどん話進んでるんですけど、これどう収拾つけるつもりだ
どうにかして誤解を解かねば。わたしはマネージャーなんてするつもりは毛頭ない。そうは思っていても、聞く耳一切なし、といったこの状況ではどう足掻いても無理。あれか。あれしかない。さっき、澤村さんは体験入部後に正式に入部の意思確認をするって言っていた。今日一日ぐらい我慢しよう。そうだ、我慢して、それから断ればいい話ではないか!名案でも思いついたかのような気分になったと同時に目の前に現れる美人
「何、澤村。」
「清水、喜べ。この子がマネージャー志望の入部希望者だそうだ。」
「え、本当?」
「おう!な、月島。」
「はい。どうしてもって頼まれたんで、この子に。」
「誰がそんなこと!」
「まーた月島は憎まれ口を叩く。ほら、部活始めるんだから早く着替えて来い。あ、神内さん、でいいんだよね?」
「あ、はい。」
「神内さんはここにいる清水に色々教えてもらってくれるかな。じゃあ、清水。悪いけど後はよろしくな。」
「うん、わかった。あ、でも、その前に神内さんもジャージに着替えてきてね。」
「はあ。」
「行くよ。」
「ぬあっ?!」
急にがしっと掴まれた首根っこ。え、と思っている間に、掴まれた首根っこを引っ張られてずるずると引きずられる体。引きずっているのは言うまでもなく、月島くんである。そしてそんなわたしと月島くんを暖かい目で見送ってくれる澤村さんと清水さん。助けてはくれないらしい
一体何だって言うのよ、本当。
「離して」と言っても離してくれない月島くんにもう諦めがついた。抵抗するだけ体力が削られるだけだ。仕方ない、ずるずると引きずられてやることにする。ああ、体力だけではなく靴底も削られているのか靴から煙が上がっているような気がするけど、気のせいってことにしよう。うん、熱いけど。気にしたら負けだ。もう反抗するのも疲れた。何とか今日を凌げば解放されるというなら波風立てずにただ幻のように消えてやる
「はい、ここで着替えれば。」
「はあ。」
到着を告げる月島くんの声。見上げた先には女子更衣室の文字。清水さんもここで着替えてから体育館に行くらしい。月島くんたちはバレー部の部室で着替えているらしく、有難いことにここで月島くんとはお別れのようだ
「着替えたらさっさと体育館に行きなよね。」
「ちょ、ちょっと、月島くん。」
「…何。」
「どういうつもり?」
「何が?」
「マネージャーとか…今すぐ忘れろとか言ってたの、月島くんじゃん?」
「結局忘れてないじゃん。」
「あ…ま、まあ、た、確かにそうだけど。」
「きみ、うっかり口とか滑らしそうだから。じゃ、早く着替えて体育館に行きなよ。」
「うっかり…?」
「あ、そんなに着替えを手伝ってほしいなら手伝ってあげるけど?」
「なっ…!け、結構です!!」
ばたん、と勢い良く女子更衣室のドアを閉めて月島くんをシャットアウト。逃げ込んだ女子更衣室。地面を蹴る音が遠ざかっていく。その音を聞きながら、ずるずるとドアに背を預けて座り込む。何あの人。本当何あの人。ついてない。絶対今日は厄日だ
ていうか、うっかり口を滑らしそうだから…って、どういう意味。
だから、何だってこんなこと。わたしがマネージャーになる意味がわからない。マネージャーってあれでしょ、月島くんがいる男子バレー部の、だよね。わけわかんないんだけど。なんで、そんなこと。そんなことが月島くんにとって得があることだとは思えないんだけど。…ん?あれ、もしかして、これってまさか
「監視ってこと?!」
気付いた置かれた自分の状況に憤慨。月島くんがなんでわざわざわたしなんかをマネージャーに据えようとしているのか。さっき言われたうっかり口を滑らしそう、の言葉。そうだ。わたしが「うっかり」口を滑らさないように監視するためにわざわざこんな回りくどいこと
大体人のことを何だと思っているんだ。忘れてないけど、言いふらすつもりなど毛頭ない。だってそんな悪趣味、わたしは持ち合わせてはいないのだ。それなのに月島くんときたら、失礼にもほどがある
……まあ、うっかりはあるかもしれないけど。
自分から進んで言うことはないにしても、自分のことだから、誰かに誘導されてしまって、うっかり、はあるかもしれないけど。誰がそんなことを誘導して聞き出そうとするんだっていうのは置いておいて、自分の間抜けさは否定できない。でもだからってこんなやり方をされるのも納得はできないけど
「はあ、仕方ないなあ。」
とりあえず、溜め息をもう一つ吐き出したら、ジャージに着替えよう。今日だけ、今日だけだ。そう自分に言い聞かせて空いているロッカーに自分の荷物を突っ込んで、今頃は一緒にお家に帰っている予定だったジャージを取り出し、袖に腕を通した
溜め息がこの世界を支配する。
どうしてこうも面倒ばかり。
(新しいマネージャー?!)
(月島が連れて来たんだってよ。)
(ほ、本当ですか?!)
(山口知ってるか?神内千尋って子なんだけど。)
(え?ツッキーが…おれはその子、知らない、ですけど。)
面倒なことになった感は否めない。それもこれも、全部あの時屋上にいた自分が悪いのだけれど。たぶん、あれだ。いつも英語の授業をサボっていたわたしに神様からの天罰が下ったに違いない。そうだ、それ以外ありえない。屋上での告白なんていくらでもあるだろうに、なんであの時、あの瞬間目にしてしまったのか。耳にしてしまったのか。あろうことかそれを何故覗いてしまったのか。そんなことを今から馬鹿ほど後悔したところで何も始まらない。溜め息をもう一つ吐き出したら、上履きを手に先ほどの男子バレー部の黒ジャージ集団が占拠している体育館へと向かうしかないのである。
あとがき
山口が嫉妬する未来が見える…。