運命


「あの。これ、落としましたよ。」



声を掛けられて、振り返った先のイケメンの笑顔。人の良さそうな笑みと、その顔面のあまりの良さに、もしかしてわたしの運命の出会いがきた!なんて脳内で花が咲きかけて、落としたと言って手にされた物を受け取ろうと返事をしようとした瞬間、伸ばした手を横からガッと誰かに掴まれる。誰だよ、とちらりと横を見れば、目の前に壁、というか皺一つないスーツ。そのままスーッと目線を上に持っていけば、黒いトサカのような頭をした男の人が一人

わたしを二人の男が取り合う少女漫画みたいな展開きた…!

変な期待が脳内を占拠し始めて、いやいやそんなまさか、と慌てて雑念を抹消。男二人に取り合われる要素がわたしにはない、というかどちらも初めまして何だか?と思い直し、今の状況にわたしも、目の前で落とした何かを拾ってくれたイケメンも困惑。唯一、このカオスを打破できる鍵を持ち合わせている隣のスーツの男性が親切イケメンに向けて、にっこりと胡散臭さをぷんぷんに撒き散らした笑顔で言葉を投げる



「それ、この人のじゃないですよ?」


「え。」


「え、いや、確かにこの人が落として。」


「ぼく、ここでずっと見てましたけど、お姉さんは何も落としてなかったですよ。」


「は?」


「それにしても変だなあ…お兄さん、さっきもここで落とし物拾ってましたけど、偶然っすかね。いっぱい運命の出会いがあって羨ましいな、ハハハハ。」


「お、おれの、か、勘違いだったみたいです!すみません!!」


「あっ…!」



わたしの運命の出会いが…!


物凄い速さで踵を返して走り去っていく親切イケメン。思わず掴まれている方とは逆の手を伸ばしてしまったがそれは当たり前のように空を切って、何とも形容し難い虚しさがその場を占拠した。目の前で繰り広げられたやり取りの意味も、何で親切イケメンが走り去っていったのかも、何もかもがよくわからないままぽかんと開いた口。それを隣で見下ろしていたスーツの黒トサカ男が握っていたわたしの手を離し呆れたように肩を竦めて笑った



「な、な、何なんですか、あなた!」


「お姉さん警戒心なさすぎ。」


「はあ?!」


「あの男、ここら辺で有名なナンパ屋の詐欺師。」


「は、詐欺師…?」


「そうそう。ああやって、運命の出会い?ってやつを演出して女の子引っ掛けてはお金も体も全部持ってかれちゃいますよ?」


「………。」


「そういうおれこそ詐欺師じゃないかって顔してんなー。あはは、すげーウケる。」


「どう見てもさっきのイケメンよりあなたの方が数百倍胡散臭い…。」


「いいねいいね。そのぐらいの警戒心持った方がいいよ、お姉さん純朴そうだから。」


「なっ。」


「あ、やべ。それじゃ、またね。お姉さん。」


「またね…?」



そう言ってひらひらと手を振って去っていく背中をわたしはただ呆然と見送ることしかできなかった。そして、ハッと意識が現実に戻ってくれば、一番に目に入る駅の時計。時刻は現在8時38分。就業時間は9時から。つまり、遅刻する!と冷や汗がたらり

何だったのかよくわからないまま、止めた足をいつもの三倍速で動かして、行き交う人混みの中を突っ込んでいけば、何とか見えてくる勤務先のビル。急いで駆け込んでエレベーターに乗り込み、5階のボタンを連打してホッと息を吐き出した



「おはようございまーす…。」



別に遅刻ではないがあまりにもギリギリの出社に堂々と入っていくのは憚られて、いつの間にかいましたよ的な感じになることを祈り、事務局の中に泥棒よろしく、腰を低くしながらコソコソと入り込む。誰にも遭遇せずに自分の席に到着するはずだったのに、あともう少しというところで、ドン、と何かにぶつかる。ぶつかった瞬間、頭上から「いてっ」と聞こえ、謝ろうと慌てて顔を上げれば、視界に入るとても既視感のある髪型に思考が停止した



「随分な挨拶じゃないですか、お姉さん。間に合ったんすね。」


「なっ、な、な何で、は、え、何故ここに…!」


「何故?何故って…新入社員ですけど。」


「へっ。」


「あ、いたいた。今日は珍しく随分とゆっくりした出社だね。」



いつもは20分前にはここにいるのに、なんて言いながらマーケティング部長がにこやかにこちらに歩み寄り、わたしの肩をポンと叩く。その、ポン、は何ですか?そのポンの意味がわからないんですが、え、何?

一人、状況が飲み込めずにいるわたしを他所に、二人は和やかな雰囲気で談笑。この人誰ですか、とか、何でここにいるのか、とか、わたしを挟んで会話しないでくださいとか言いたいことは色々あるが、まずは、と低くなっていた姿勢を正してマーケティング部長に向けて「おはようございます!」と勢い良く朝の挨拶を放てば、隣でマーケティング部長と談笑していた黒トサカ男さんが「ぶっ!」と抑えきれていない笑いを吹き出す音が聞こえた。いや、挨拶は社会人としての基本だから。笑うところじゃないからね!



「タイミング…ぶふっ。」


「……部長、誰なんですかこの人は。」


「この春、競技普及事業部に入社した黒尾くんだよ。」


「競技普及事業部に…。」


「うん、そうそう。」


「と、いうことは。」


「きみの後輩だね!」


「えっ。」


「これからよろしくお願いしますね、お姉さ…あ、先輩。」



信じられないといった顔で見上げた先に、にっこり笑ってよろしくなんて言う黒トサカ男、改め黒尾くん。そんなわたしと黒尾くんを見てマーケティング部長は「いいコンビになりそうで何よりだよ」と言いながらわたしの肩をバシバシ叩いて、二重の意味で何それ勘弁してくれと叫びたくなったが何とか飲み込み乾いた笑いを返すに留める


ああ、だからあの時、またね、と言ったのか。


わたしは黒尾くんのことを知らなかったけれど、向こうはどうやらわたしのことを認識していたらしい。だからか、と一度は納得するも、そんな認識されるような接点なんてあったのだろうかと再び首を捻るわたしを見て可笑しそうに笑う黒尾くん



「お姉さ…先輩っていつもあの時間に駅に着く電車に乗ってますよね。」


「まあ、そうですね。特に何もなければ。」


「まあ、覚えてないかもしれないですけど、おれ、その電車で先輩に助けてもらったこと、あるんで。」


「へ。わたしに?」


「これ。」



不思議そうにしていたわたしに種明かしをするように話し出す黒尾くん。これ、と言って黒尾くんが取り出したのはよくある柄で淡い色合いの一枚のハンカチ。それは男の彼が持つには少々可愛らしい物で。黒尾くんに明らかに不釣り合いなそのハンカチをよく見れば、何だか既視感が。その既視感にハッとして、黒尾くんとハンカチを交互に見遣り、思い出す



「…痴漢免罪学生さんじゃん!」


「ちょ、すっげぇ嫌な呼び方!いや、まあ、事実っすけど…まあ、そういうことですね。」



丁度一年前ぐらいに、通勤で使う電車内で「この人、痴漢です!」と女性の声が響いたことがあった。それも、わたしの目の前で。手を掴まれて、痴漢だと詰め寄られている男の子は大学生のようで、慌てて違うと否定していたけど、その声も掻き消すような女性の金切り声と勢いに、周りの乗客も加勢し、男の子は人生終わったかのような絶望の表情を湛えていて。自分が声をあげたところで何もならないかもしれない、でも彼の人生が一つの勘違いで終わってしまうのはあまりにも可哀想で見ていられなくて


あの時の男の子が、黒尾くん。


一年も前だし、日々に忙殺され過ぎてそんな出来事も忘れてしまっていた。声をあげて何とか痴漢容疑は晴れたものの、青ざめて汗の止まらない彼にハンカチを差し出したのを思い出し、彼の人生はちゃんと終わらずに続いていて良かったとなんかちょっと感慨深さまであったり。そんな感動の出会いはそこそこに、始業開始のチャイムが鳴り響き、朝礼に遅れる!と慌てて自席を目指す



「おれの運命の出会い、横取りされて堪るかよ。」



黒尾くんと肩を並べて自席を目指しながらも人と人の巡り合わせってすごいとか思っているわたしに黒尾くんがぽつりと一言。よく聞き取れず、「え?なんて?」と振り返った先に「何でもないですよ。さあ、仕事仕事」と手を打ってにっこり笑って言った



もうすぐ、運命になる。
今はまだ、聞き取れない声でも。


(それにしても、わたしがここの人間だってよく知ってたね。)
(ああ。だって社章のバッチ、してるじゃないですか。)
(なるほど、確かにそうだ。)
(それで、やっぱりここだって思ったんですよね。)
(え?)


それってどういう意味?と聞き返そうとしたわたしの声は始まった朝礼の合図で掻き消された。隣の席のきみを見上げれば、何食わぬ顔で朝礼に参加中。消化しきれぬさっきの黒尾くんの言葉と疑問。そして朝の出来事。そう言えば、ずっと見ていた、と言っていた。偶然居合わせたみたいな顔をしていたのに、もしかして、本当にずっと見ていたということだろうか?少しずつ嵌っていくピースに、ぐるぐる思考回路。見上げた先の冷静を装うきみの耳が少しだけ赤く染まっていることに気付いて、何故かどうしようもなく胸が高鳴った。

20240407-20240615 CLAP

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