「あ、今日はちょっと部活が長引いたのと、少し用事があったんで。」
「そうなの。」
「はい。あの、えっと。」
「……ごめんなさいね。」
言葉の続きはいらないとでも言うように、そう言って女性は首を振った。べつに女性が悪いわけではないのに、申し訳ないと言うような顔で
「20時までですよ。」
「はい、ありがとうございます。」
ぱこぱこと履き慣れないつるつるしたスリッパを廊下に響かせながらすっかり静まり返ってしまった廊下を歩く。ナンバープレートなんて見なくてもわかるようになったそこを目指して
がらりと開けるドア。目を刺激するちかちかと点滅する光。足を一歩踏み入れて、慣れた手付きで部屋の隅に置かれた椅子を引っ張りだして定位置へ。そこに腰掛けて、肩に掛けていた鞄を床へと置いた。そして覗き込む顔
「……いつまで寝てんだよ。」
ぽつりと呟いた言葉は、ただ静かに響くだけ。それに答える人はいるのに、答えてはくれない。ずっと、眠りこけたままで
「今日は星がきれいだぞ。今夜は流星群らしい。」
答えが返ってこないのはわかりながら、おれはずっと話し掛け続ける。いつの間にか独り言を言う癖が付いてしまったらしい。それもこれも全部お前のせいだぞ、なんて言いながら、舌はよく回る
「なあ、小夜。知ってるか?」
いつの頃か呼ぶことを辞めた呼び方で名前を呼びながら、窓辺に近付いて空を見上げながら問い掛けてみる。いつもだったら、そう言うと「何?」なんて言いながらおれを真っ直ぐ見るんだ
「星を掴まえたらどんな願い事も叶うんだって。」
そう言ったら、目をきらきら輝かせながら「本当?!すごいね!!」なんて言うんだ。疑うことを知らない真っ直ぐな目で。おれの言葉を全部信じ切っちゃうそんなちょっとおばかな小夜。星なんて掴めるはずないのに。おれのどんな無茶で実現不可能な言葉も、誰もが嘘だと思う言葉も、小夜だけはいつだって真っ直ぐに信じてくれた
「……ああ、そうだ。」
忘れていた、と窓辺から離れてカーテンを引き、部屋の中は暗闇が占拠する。持ってきた鞄の中をごそごそと漁り、手に当たる感覚に笑みを一つ
星なんて、おれには掴まえられなかったけれど。
人間誰だって星なんて掴まえられないけれど、掴まえたくなった、ばかみたいにさ。でも、おれは普通の人間で、普通の男子高校生で、そんなことは絶対に無理だって知っているから。だから、これがおれの精一杯だ
手に隠したそれを横たわる小夜の手にそっと移し変える。包み込むように優しく持たせて、おれの手も添えてやる
「ほら、星だ。掴まえたぞ。」
手の中でちかちかと光る、それ。蛍。これを探して、少し遅くなったんだ。今日、流星群だって聞いて、思い出した昔のこと。星を掴まえたら何でも願い事が叶うっていう夢みたいなばかな話
一匹しか捕まえられなかったけれど、な。
「小夜、お前の願い事はなんだ?夢は?」
言ってみろよ、ほら。
催促しても答えは返ってこない。ピッピ、という規則的な機会音だけがこの部屋を占拠して。「なんで答えないんだよ」と言っても、何度問い掛けても、揺すり起こしても反応はない。中学に上がると同時に何だか恥ずかしくなって呼ばなくなった呼び名で呼んでも、嘘を吐いても、目を覚ましてくれない
あの時、屋上から伸ばした手は小夜に届かなかった。小夜の名前を喉から血が出るほど呼んだのに、小夜はあれから夢ばかり見ている
それから毎日ここに来て、時々、名前を呼んでみたりして。部活の結果報告をしに来て、パスタの木が不作でパスタ食べられなくなったとか変な嘘を吐いてみたりなんかして
「あの子、泣いてたぞ。」
わたしのせいでどうしようって。泣きながら、転校しちゃったぞ。
「あの面倒なコガネも、お前が可愛がってた作並も、何考えてんのかよくわかんねえ青根も、おっさん臭い笹谷さんも、むさ苦しい鎌先さんも、おれたちが迷惑掛けてた茂庭さんも泣いてたぞ。」
ここに来る度に、泣いてんだぞ。みんな、隠せてるつもりかもしれないけれど、バレバレなんだよ。目元を赤く染めちゃってさ。隠せてねえんだよ。びーびーうるさくて敵わねえし、辛気くさくて堪んねえよ
「全部全部、小夜のせいだぞ。」
じわり、と何かが溢れていくのも、全部全部。小夜が泣かせているんだ、みんなを。……おれを。
歪む視界。少しだけ開いてしまった手の平から逃げていく星。願い事はどうなるのだろう。掴まえたはずの星が逃げて、手の平は空っぽになった小夜の、おれの願い事はどうなるんだろう。叶わないのだろうか
そう思ったら、もう、目覚めないんじゃないかって、夢ばかり見ている小夜の顔を覗き込む。滲んだ世界じゃ、小夜の顔がよく見えない。ああ、もう、腹が立つなあ。こんなおれをよそに眠りこけている。ああ、もう、いい加減目を覚ませよ。
「目を覚ましてくれよ……小夜っ。」
「……。」
ぽたり、と涙が頬を伝って小夜の手の平に一滴。
「ん……っ。」
「……え?」
ぴくりと、動く指先。何かを掴むかのように、動いて、驚いて顔を上げればまつげが揺れる。閉ざされていた唇からこぼれる一音。ゆっくり、ゆっくりとその双眸が開いて、おれの顔を水晶玉に映して
思わず手を伸ばした。触れる頬。さらり、と手を滑らせれば、にこりと微笑んで、ひどく掠れた拙い言葉で一言
「け、んちゃ、ん、お、はよう。」
「ばか野郎……っ。」
何が「おはよう」だ。ばか野郎。ばか野郎。この大馬鹿野郎!
思わず抱きすくめた体。力強く抱き締めれば、「痛いよ」と言う小夜の言葉なんて無視だ。聞いてやるもんか。おれの言葉、今まで全部無視してきたんだから、それぐらいいいはずだ。許されるはずだ
おれがどんな思いで今までここに小夜に会いに来ていたと思うんだよ。みんながどんな思いで、試合に行ったと思うんだよ。一緒に全国に行くんだって約束したことも忘れて、寝ていた癖に。何度も呼んでも、起こしても、起きなかった癖に。だから、これはその罰だ
「今度は、ちゃんとした堅ちゃんだー。」
「小夜、お前何言ってんだよ。ちゃんとしたおれって。」
「何でもない。」
そう言って笑っておれの背中に腕を回す小夜。これじゃ罰にならないじゃないかよって思いながらも、おれの体を抱き返す力にひどく安心している自分がいて、小夜から離れられない
「今度は、ちゃんと掴まえたからな。」
あの時掴むことのできなかった手を今は小夜の体ごと掴んだ。もう落ちていく小夜を見るのは嫌だ。目を覚まさない小夜を見続けるのはもう嫌だ。嘘を吐き過ぎたおれへの罰はそれで十分だろう?好きじゃないと嘘を吐いたおれへの罰。小夜を騙し、自分を騙し続けたおれへの罰はこれっきりでもう十分だろう?
「わたしも、掴まえたよ。」
にこりと微笑んでおれを見る小夜
「星、掴まえた。」
ばかみたいにまだ信じている小夜の顔に、おれまでばかみたいに笑えてきて。星なんて掴めるわけないのに、昔吐いた嘘をいつまでも信じて、夢ばかり見ているきみに、おれは泣きそうな顔で笑って言ってやるんだ
「なあ、小夜知ってるか?」
「何?」
「星を掴まえたらどんな願い事も叶うんだって。」
「どんな願い事も?」
「おう。どんな願い事も。」
そうやって笑って言えば、小夜がにこりと心底嬉しそうに笑って、目を輝かせる。そして一言
「堅ちゃんの側で、夢を見させて。いつまでも。」
口にされた願い事。「まだ夢を見るのかよ」と呆れたように肩を竦めれば、「何よ、いいでしょ」なんて言って膨れる顔に思わず笑った。それ以上何も言わずに、「ああ」なんて言って頷く。だって仕方ない、星を掴まえたんだから
口では上手く言えそうにないから、この腕に答えを託すことにしよう。それで伝わるかは不明だけれど、きっと、たぶん伝わると思うんだ
「小夜、見ろ。」
「ん?」
「流れ星。」
風で揺れたカーテン。窓の外に広がる夜空に向かって一つ、流れていく線と点。流れ星と嘘を吐いて、羽音を立てた光にまた騙される、目を輝かせたきみ。おれたちの夢はまた、嘘から始まる。
嘘を吐き過ぎたおれと夢を見過ぎたきみ
懲りずにおれたちは、また夢と嘘を繰り返す。
(ううう、小夜先輩よかったっすー!)
(篠山先輩、本当に、本当に良かった…!)
(篠山、良かったなあ!)
(鎌先さんうるさすぎっよ!声量まで筋肉でバグってんすか!)
(お前ら全員うるさいよ!迷惑でしょーが!!)
目を覚ましたきみの周りは騒がしい。辛気くさくてめそめそしていた奴らがいつの間にか笑顔になっている。現金な奴ら、なんて呆れながらも、なんだかんだ言っておれもなんだから笑えてくる。目を覚ましたあの日。きみの願い事。部屋を飛び出していった星と、きみの腕に掴まった星。夢を見過ぎたきみはまだ夢を見せてという。でも、今度は一人ではなくて、みんな、で。おれの、隣で。その言葉におれは思ったんだ。星を掴まえて願い事を叶えたのはおれの方だったんじゃないかって。幼い頃に吐いた小さな嘘に夢を見ていたのは、きみと同じ、おれもだったんだ。
狼少年と夢少女、これにて完結です。
いつもの事ながら終わりが微妙ですみません。なんかいろいろ詰め込みすぎて…一話目の星の話を回収できた事だけはよかったな、と。
物語の最初から全部彼女が見ていた夢でした。繰り返し見ていた夢で、何度か出てきた名前を呼ぶ声は現実の二口の声で。わたしの表現力の限界でわかりづらくてすみません。倉田さんが最後にはいい子になってくれてわたしは一安心です!
口調全然わかんねー!とか思いながら書き、ラストの方で青根出してないことに慌てました…ここまで読んで頂き誠にありがとうございました!これからもどうかよろしくお願い致します。