03

あんなことがあっても、毎日朝はやってくる。どんなに恨めしく思っても、生きている人に平等に

けたたましく鳴る目覚ましを少し乱暴な手つきで止めると、二度寝を決め込もうとする目をごしごし擦って何とかそれを阻止をする。んー、と伸びをすれば思わず口から漏れそうになった欠伸を噛み殺して、のそのそと何とも間抜けな速さで広すぎるベッドから這い出た


「相変わらず外、真っ暗。」


ぽろりと零れた独り言がしんと静まり返った一人の部屋にこだまする。現在、朝4時半。当たり前だが、まだ陽は昇っていない。カーテンを開け、ケトルに水を入れてスイッチオン。お湯が沸くまで約1分半。その間にお気に入りのマグカップにお気に入りのドリップコーヒーをセットして、いつの間にか沸騰していたお湯を注ぎ入れた



「ははっ、繋心が見たら怒りそう。」



コーヒーの香りを楽しみながら、ごくりと一口。そして、はあ、と一息吐き出す。それと同時に「ちゃんと朝飯食えって」とわたしを叱る声が聞こえた気がした。ちょっと前まで金髪で強面、ピアスも開けて柄の悪い形をしていたくせに、三食しっかりご飯を食べないと怒る。睡眠も同様に。健康面にはうるさいくせに、喫煙者。その矛盾に何度笑ったことか。最近は年齢を気にしてか、金髪から黒髪に変えて、その上禁煙もするかなとは言っていたけれども



「あ、やばい!」



ゆっくりしている場合じゃなかった。まだ少し熱いコーヒーを一気に飲み干して、喉を火傷しながら、今日は朝食抜きで勘弁してください、と誰に向けたかわからない謝罪をして慌ただしく家を飛び出した

引っ越したばかりの住居はわたしの勤務先から近いところにしてくれたおかげで、何とか遅刻は免れそうだ。そう言えば、出勤時間が朝早いわたしのために、繋心が探してくれたんだっけ。少しでも眠れるように、と。その優しさを思い出して、思わず止まりそうになる足。「遅刻だけはすんじゃねぇぞ」と脳内で再生された相変わらず手厳しい一言に必死で足を動かした



「かさねちゃん、おはよう。」


「おはようございまーす。」


「今日も朝早くから偉いなあ。」



まだシャッターばかりの烏野商店街のアーケードを通って一角。ベーカリー永原屋と英字で書かれたお店のドアを開けようと鍵を取り出したところで背後から声が掛けられる。振り返った先にはいつもと変わらない豆腐屋さんのおじさんの姿。今日も朝早くから仕込みらしい



「おじさんこそ。今日は何時から仕込み?」


「今日は小学校の方に納品があっからな。こちとら3時からやっとるよ。」


「ひえー。無理しないでよー?」


「かさねちゃんこそ。烏養のぼんのとこ通ってんだろう?」


「あー…うん。まあね。あっ、ごめん、おじさん。わたしもそろそろ準備しなきゃ。」


「おっと、長々引き止めてすまなかったな。後で豆腐取りに来い。烏養のぼんの見舞いに持ってけ。」


「うん、ありがと。」



良くも悪くも狭いこの界隈ではみんな家族同然で、誰かと付き合えば、翌日にはここ一帯に広がり、顔を合わす人たちに祝福されるようなネットワークを形成している。だから、当たり前のように繋心が入院していることも、先日目を覚ましたことも知られていて。いつもなら、そういうもんだと諦めにも似た感情で大して気にすることもないのだが、今はその話題は避けたい

もっともらしく、逃げる口実を口にすれば、豆腐屋のおじさんは手を挙げて「すまなかったな」と言い、会話の流れがぷつりと切れる。それ以上広がらない会話にホッとし、気前の良い豆腐屋のおじさんにお礼を言って、今度こそお店のドアに鍵を差し込んだ



「今は、仕事に集中。」



開いたドアからお店の中に体を滑り込ませ、ドアに背を預ければ、ぱしん、と両頬に気合いを注入。今は目の前にある仕事に集中しなければ。きっと繋心だってそう言うだろう。ちゃんと仕事しろよ、って。わたしのことを思い出してくれた時に、仕事ができていない状態のダメダメなわたしでは愛想を尽かされてしまうかも。そう思ったら自然と踏ん張れるような気がした

止めていた足を動かして店の奥へと移動する。制服、なんて個人店なので大層なものではないが、パン屋さんらしい、白とベージュの至ってシンプルな服に着替えて、昨日のうちから仕込んでおいた生地を取り出した。良い具合に発酵が進んでいる。オーブンを暖めている間に今日の納品数の確認。いつもの納品先である嶋田マートと、坂ノ下商店。基本的にはこの二つが主な納品先だが、坂ノ下商店は店主が入院中で休業しているから今日は嶋田マートのみだ



「帰りに少し、様子を見に行ってみようかな。」



坂ノ下商店は通り道だし、嶋田マートの帰りに少し寄るくらいなら時間は作れるはず。おばさんの様子も気になるし、もしかしたら繋心の様子も何かわかるかもしれない。…わたしは直接繋心に会うことができないから、少しでも様子が知りたい



「よし、カツサンド作ろ。」



そうと決まれば仕込みを早く終わらせて、納品に行って。少しでもおばさんとの時間を作ろう。そう気合いを入れて、すっかり暖まったオーブンに生地を放り込んで、焼き時間をセット。その間に前日に売れ残ったパンで惣菜パンを作る。カツサンドと焼きそばパン、サンドイッチなどもうすっかり染み付いてしまった手順で休みなく作っていく商品たち。個人店のパン屋なのでそこまで量は多くないが、品数はそれなりに揃えているから一人で作るには一苦労だ

開店時間は10時と他の個人店のパン屋さんに比べれば遅い時間帯だが、その分納品の方に力を入れられるからよしとしている。それに烏野商店街のお店が開店するのも大体は9時〜10時頃だし、客層的にも早い時間じゃなくても問題はない



「えっと、クリームパンと、カツサンド、焼きそばパンに、たまごサンド…。」



納品する数をチェックし、配達用のバットに詰めていく。いつもなら坂ノ下商店分もあるから、バット4つになるところ、今日は2つで済みそうだ。お店裏に駐車している配達用の車に積み込み、時間を確認。とりあえず30分ぐらいは時間作れそうだな、と頭の中でざっと計算し、火の元を確認しに厨房に戻り、一通り問題がないか確認してお店を施錠したら配達車に乗り込みエンジンを掛けた

お店から嶋田マートまでそう遠くない。車でせいぜい15分くらいのところだ。やっと陽が昇り始めた朝7時前のこの道はまだ人も車も疎らで15分ほどの道のりはもっと早いものに感じた。嶋田マートの特徴的なロゴマークを見つけて、お店裏にぐるりと回り車を止める。わたしが到着するのを見計らったようなタイミングで裏から出てくる嶋田。「はよ」なんて手を上げて笑って言った



「今日も美味そうだなー。」


「ちょっと。大事な商品なんだから。」


「わかってるって。永原、あのさ。」


「納品書はこちらでーす。」


「ちょ、おいおい。無視かよ!」


「……何?」


「繋心のことだけど。」



何となく、聞かれるような気がして呼びかけに無視を決め込んだのに。仕方ない、と溜め息を一つ吐き出して嶋田に向き直れば、居心地悪そうに頬を掻きながら何と言おうか迷っている様子。そんな風になるなら、聞いて来なければいいのに。そうはいかないとはわかっているが、そう思わずにはいられなかった



「検査結果は聞いたけど、さ。永原はあれから全然連絡くれねえし、おれたちも心配で昨日様子見に行ったんだよ。」


「…そう。行ったんだ。」


「どうしちまったんだよ、あいつ。永原のこと。」


「覚えてないの。何も。」


「知ってたのか?いや、まあ…そうだよな。永原が知らないなんてこと、ないよな。」


「…みんなに言わなきゃって思ってたんだけど、ごめん。」


「いや、それは別にいいんだけどさ…永原は大丈夫か?」



嶋田から放たれた言葉に、詰まる。「大丈夫」と答えなくてはいけないと脳味噌ではちゃんとわかっている。わかっているけれど、震える唇でどうにか言葉を発しようにも、上手く言葉になってくれなくて、ひゅう、と息が通る音だけが響いた。役に立たない唇を軽く噛んで、困ったような顔をする嶋田を見つめた。なんて情けない顔をするんだろうか。その顔が少し可笑しくて、笑えた

嶋田の問いかけは無視をして、さっきは受け取ってもらえなかった納品書を早く受け取れと言わんばかりに胸元にドンと押し付ける。受け取ったことを確認し、くるりと踵を返して嶋田に背を向けて、はあ、と深い溜め息を吐き出せば何とか捻り出す言葉



「わたしは繋心を、信じてるから。」



いつか、必ずわたしを思い出してくれる、と。


今は難しくても、いつか、きっと。どんなに時間がかかっても、いい。わたしは、繋心がわたしを思い出してくれるまで待つから。待つことは得意なんだ。あの日の、あの約束の日もずっと来なかった繋心を待ち続けたように、わたしは待てる。まだ、待てる。そう、自分に言い聞かせるように何度も繰り返して

嶋田はそれ以上何も言わず、バツが悪そうに頭をぼりぼりと掻きむしりながら、「気をつけて行けよ」と一言。わたしはその一言にただ頷いて、大分ガタがきている相棒に乗り込み、エンジンを掛ければ坂ノ下商店へと向けて車を走らせた



待つのが嫌いで得意なわたしの強がり
いつまでも、信じて待っていられるなんて


(悪い、かさね。)
(もー!また遅刻?)
(悪かった悪かった。…かさねさん、何食べたいですか?おすわり行きますか?美味しいもの揃ってますよー?)
(何それ。もう、仕方ないなあ…行く!)
(ははっ。)


約束に遅れてやってくるのはいつものこと。お怒りムーヴを見せつけていても、それは仕方ないとわかっている。大事な選手たちのためにきみも一生懸命やっていること。でも、遅刻するのが当たり前になるのは嫌だったから、振りだけの怒った顔。見抜かれている振りに、乗っかって返される軽口。どこかナンパ師のような口調付きで差し出された手に思わず呆れて笑いながら手を取って頷く。それを見たきみが幼さの残る顔で笑って、どうしようもなく、待つのが嫌いなわたしでもこの顔が見れるのであれば少しだけ、ほんの少しだけ待つのが好きになれる気がした。

あとがき
待ち合わせだったら2時間ぐらいだったら待てる…たぶん。

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