01

「えっと…だ、れ?」


「……は?」



時が、呼吸が止まったかと思った。心臓の嫌な音だけが、耳に妙にこびりついて。ただ、ただひたすらに目の前にいる人の、一点の曇りもない、強い光を放つその目を見つめるだけ



「繋、し…。」


「…っ…ぐっ、頭がっ…。」


「烏養さん、少し横になりましょうね。」


「永原さん、ちょっと、こちらで話しましょうか。」


「あ……はい。」



一言、わたしが名前を呼ぼうとして言葉を紡いだ瞬間、歪んだ顔で頭を抱えるその姿に呆然とした。繋心に急いで駆け寄る看護師さん。わたしの肩をそっと叩いた手の平を辿った先に、眉尻を下げて微笑む先生の声がわたしの背中を奈落へと突き落とすようだった

伸ばした手の指先が氷のように冷たくなっていって、力なく、重力に抗う術をなくしてただ垂れ下がる。担当医の先生に背中を押されるままに、繋心の側を離れて、白ばかりが占拠する部屋を脱出すれば、廊下の壁に背を預け、声が掛かるのを待っていた嶋田たちと目が合った。わたしと先生だけで出てきたことに、緊張が走った顔。その顔にわたしはなけなしの気力を振り絞って、ただ小さく笑い「大丈夫だよ」と一言。それに安堵した顔をする嶋田たちに「ちょっと先生と話してくるから」とだけ言い伝え、やたらと足音の響く廊下を突き進んだ



「どうぞ。掛けてください。」


「ありがとう、ございます。」


「何か、飲みますか。えっと…、ああ、紅茶なんていかがですか。温かいものを飲むと少し落ち着きますよ。」


「…ありがとうございます。でも、紅茶は大丈夫です。」


「……そうですか。」



進んだ廊下の先にカウンセリングルームがあり、そこに通されるがまま、椅子に腰掛ける。状況が未だ飲み込めず、呆然としているわたしに先生が気を遣って飲み物を飲むように勧めてきたが、喉を通りそうにない。カラカラに渇いている口内から発した拒否の言葉。先生は小さく息を吐き出して、わたしの目の前の椅子を引き、そこに腰を下ろした。カウンセリングルームの壁に掛かった時計の秒針が妙に耳に響く



「詳しくは検査をしてみないとわかりませんが、烏養さんは逆行性健忘症の可能性があります。」


「逆行性、健忘症…。」


「脳に強い衝撃を受けて意識障害が起こった以前の記憶が抜け落ちてしまう記憶障害です。」


「記憶、障害。それってわたしのこと、忘れてしまっているということでしょうか…?」


「検査をしてみないとわかりませんが、恐らくは。」


「そんな…。」


「明日にでもMRI検査とアンケート式の検査を行います。検査結果が出るまで面会は控えてください。それと…。」


「あの!先生…。」


「何でしょう。」


「その、逆行性健忘症って、それって、一過性の、もの、なんですよね?いつかは、思い出してくれる、んですよね?」


「……わかりません。これには個人差があるんです。何かをきっかけに思い出すこともありますが、その逆でずっと思い出さないこともあります。」


「そんな。だって、わたしっ。」


「永原さん。逆行性健忘症と決まったわけではありません。とりあえず、検査をしてみましょう。それから今後のことについてお話させてください。今は目を覚ましたばかりで、混乱している可能性もありますし、無理に思い出させようとするとパニックを起こしてしまいます。ですから、検査結果が出るまで面会は控えてください。お辛いことでしょうが…身体的にも精神的にも烏養さんの負担になりますから。」


「………わかりました。先生、繋心のこと、よろしくお願いします。」


「検査結果は出たらご連絡します。」


「はい。よろしくお願いします。」



ただ、頭を下げることしかできなかった。引いた椅子。そっと立ち上がり、踏み出した一歩が重くて仕方なかった。二歩、三歩、ただ繰り返すだけ。ミーティングルームの重たい扉を自分で開いて、廊下を出れば、さっきまで繋心の病室の前にいた嶋田がわたしのところへ駆け寄ってくる。嶋田の顔を見て、筋肉を総動員させて作った笑顔。そんなわたしを見た嶋田が一瞬グッと拳を握り締め、すぐに解いてわたしの頭をぽんぽんと撫でた


嶋田たちに言っても、無駄に心配、させるだけ。


今はまだ、検査をしてみないとわからないって先生は言っていた。だから、伝えるのは検査をしてみて、それからでいい。もしかしたら、今は目が覚めたばかりで混乱していて、あんな風になったのかも。もしかしたら、もしかしたら…明日になれば元に戻っているかも。そんな淡い想いを、期待を抱くしかなくて。本当のところはそれら全部詭弁で、今、嶋田たちに言ってしまったら、直面した事実を認めるようで言えなかったというのが本音だ



「先生は、何て?」


「経過が順調だって、話。今はまだ目が覚めたばかりだから…明日検査するし、面会は検査結果が出てから…後日に、って。」


「……そっか。」


「うん。せっかく来てもらったのに、ごめんね。」


「それはいいんだけどさ…永原は、大丈夫か?」



顔を覗き込まれながら投げ込まれた言葉に心臓が妙な音を立てた。じっとわたしの目を見て問う嶋田に、見透かされそうな胸の内。シャットアウトするように、おどけた調子で何とか吐き出す言葉たち。唇が震えそうになるのを、後ろ手に組んだ手に爪が食い込むほど力を込めて耐えた



「わたし?わたしは大丈夫だよ。1週間ぶりに家で寝れるのがちょっと嬉しいかな。」


「あー…ずっと泊まり込みだったもんな。」


「うん。繋心、寝坊助だから。」


「ははっ。ああ、そうだ、永原。おれ、車だし送るよ。」


「大丈夫だよ。悪いし。」


「いいから。おれが送りたいんだって。滝ノ上も一緒だし、ちょっと狭いけど。」


「有難い話だけど、ごめん。本当、あの…わたし、も、車なんだよね。」


「あ……悪い。」


「嶋田が謝ることじゃないって。むしろ気を遣ってくれたのに、ごめんね。」



眉尻が下がる嶋田の肩を叩き、次いでとんと帰りを促すように軽く押した。「お手洗い寄るから、先に帰って」なんて言って、振り返ろうとした嶋田に放った言葉たち。返事は聞かず、急いでくるりと踵を返して、嶋田に背中を向けて廊下を進む。少し先にあるお手洗いの案内を目にして、逃げるように駆け込んだ


嘘、吐いちゃった。


全部、全部。大丈夫だと自分に言い聞かせるように放った、強がりの言葉たち。極めつけは一人になりたいから、と車で来たなんて嘘を吐いて。駐車場を見れば、わたしの車がないことなんてバレるに決まっているのに、馬鹿だ。わたしよりも後で来た嶋田が気づいていないはずがない。外来患者用ではない駐車場はそんなに大きくないし、区画が決められているし

嶋田の「悪い」はきっと、察してくれたから言ってくれた言葉だと思う。嘘だとわかった上で、引いてくれた。その優しさが、今はひどく胸に痛い。泣きたくなかった。嶋田の前でも、誰の前でも。だから、ここに逃げ込んだのだ



「大丈夫…大丈夫……だって、生きてる。繋心は、生きてる。」



蓋をしている便器に座り込んで、顔を覆った。目を覚ましてくれたから。そして、思い出す、目が覚めてすぐに、掠れ声で放たれた、あの言葉。わたしを見た曇りのない瞳。それでも。



「……良かった…っ!」



もう目を覚まさないかもしれないと絶望を繰り返した朝は終わった。だから、大丈夫。そう自分に言い聞かせて、顔を上げる。次いで、便器から立ち上がって、一歩、前へ。


奇跡は、きっと、ある。だって。


警察から連絡があったあの日、あの瞬間。心臓が凍りついて、呼吸が止まったかと思った。全身の血が一気に引いていって、体が冷たくなった。急く気持ちを何とか抑え込んで走らせた車の中で駆け巡った最悪な結末。それでも一命を取り留めた奇跡が一つ。そして、目を覚まさなかった1週間。次はもう目を覚まさないかもしれない、と言われた中で、こうして目を覚ました奇跡。繰り返された奇跡に、もしかしたら次も、と淡い期待をせずにはいられない。それだけが、わたしの希望で、今、足を動かせるたった一つの力だった



奇跡は、裏切らない。
そう信じて、前を向くしかなかった。


(かさね。)
(んー?)
(今日の夜、飯食いに行こうぜ。)
(部活は?)
(今日は休み。)


「じゃあ駅前で待ち合わせね」と言って、待ち続けた2時間。手術室の前で待ち続けた4時間。病室で待ち続けた1週間。その度に最悪な結末を想像した。想像して、心が折れそうになる度に、何度だって思い出したの。きみと過ごした毎日。きみがわたしにくれた言葉たち。手の平の温もり。不器用で優しい唇の感触に、抱き合った時に感じたきみの鼓動。一つ一つを思い出して、それを力に変えて、奇跡を信じた。きみは、生きている。きみは、目を開けた。そうして重なった奇跡が、裏切られることはないと信じて、神様に祈りを捧げるしかなかった。

あとがき
まあ、よくある展開からスタートしました、烏養さん連載です!
基本的には甘い話が好きですが、たまにはこんな感じの話も書きたくて…色々病名などがふんわりしてますが温かい目で読んでやってくれると嬉しいです!

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