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勢い任せに呷った缶ビール。空き缶を隣に放れば、一気にアルコールが回って頭がくらくらとした。わたしの急な行動にびっくりして、こちらに向き直った飛雄の方に倒れ込むように体を預け、グッと握り込んだ拳で、どん、と胸を叩く。次いで、その手でお父さんのTシャツが伸びるのも構わず、飛雄の胸倉を掴み上げれば、そのまま自分の方へ引き寄せて、近付いた飛雄の胸元におでこを勢い良くぶつけた



「随分と、暴力的だな。」


「うるさい。」


「まあ、いいけど。」


「……別にわたしだって、飛雄にそういう顔してほしい、わけじゃないよ。」


「そうか。」


「そうだよ、何でそんな顔すんの。」


「そんなの、決まってんだろ。」


「決まってるって何さ。」


「真緒、お前のことが好きだからに決まってんだろ。」


「ばっ……か、じゃないの。」


「うっせ。」


「顔赤いよ。」


「見んな。」


「らしくないし。」


「うるせえ、ボケ。お前が不安そうな顔してるからだろ。」


「そっちこそ、うるさい。そんな顔してないし。ひどい責任転嫁だよ。」


「そうかよ。」



そうやって、わたしのせいみたいに言う。ずるい男だ。


胸元に押し付けたおでこを離さずに、そのままの状態で受け答え。どんな顔をしてそんなことを言っているのか、見るためにそこから少し離して上げた顔を「見んな」と言って、胸元に押し付け返されて、抵抗できずに唇を尖らせた。飛雄はそんなわたしの後ろ髪を優しく撫でつけながら、ククッと笑って反対の手をわたしの腰に回す。その手が、相変わらず優しいのが嫌になって、胸が勝手に疼きだすのを抑えるように飛雄の胸倉を掴む手に力を込めた

そりゃあ不安なことなんて、たくさんある。わたしは自信がない。飛雄みたいに夢中になって、それを誇らしく思えるほど極めたものなんてないし、容姿だって今の飛雄に選んでもらえる程の美人でも、プロポーションが抜群でもなく、あまりにもそう、普通だ。世間で言う何かの地位を築けているわけでもない。片や、彼女は。だって、飛雄は日本代表で、どうやったってわたしとは釣り合いがとれない。それはわたしが一番よくわかっていることで。飛雄はきっと自分自身の価値をちゃんとわかっていないんだ。だから、きっとわたしのことを好きだと錯覚している。ただ、長い年月を一緒に過ごした、という理由だけで。それは、愛着がわいているだけの、感情なんだと思う。そうじゃないと説明がつかない。今の飛雄が、わたしを好きな理由なんて



「錯覚、じゃないかな。」


「は?何が。」


「飛雄が、わたしを好きなんて。」


「何でそうなんだよ。この流れで。意味わかんねえ。」


「ほら、長年使ってたものって、愛着、わくでしょう?捨てがたくなるじゃん?どんなに要らなくても、使えなくても。」


「はあ?」


「たぶん、それと一緒。大体にして、わたしと飛雄じゃ、釣り合い取れてないし。よく考えてみなよ。片や日本代表、片やただのOL、しかも事務の派遣社員。何だったら前まで社会に出たこともない専業主婦の小娘だよ。」


「おい。」


「それに、わたし優柔不断だし、割と、というかかなり八方美人だし?泣き虫の上に怒りっぽくて、意地っ張りで卑屈だし、劣等感の塊。面倒な女の典け、っん。」


「ふざけんな。」



自分の嫌なところを並べ立てるわたしの言葉を塞ぐように、開きかけた口を塞ぐ飛雄の唇。痛いくらいに力を込めて、掴まれた両頬が痛い。少し離れた飛雄の唇から、低く唸るような声が発せられて、びくりと肩が跳ねた。こういう声を出す時は、本気で怒っている時。少し高い位置にある飛雄の目を見れば、こちらを真っ直ぐに見つめて、その光の強さに押し黙る。そんなわたしを見下ろしながら、眉間に皺を寄せて吐き出す言葉



「そんなに日本代表が偉いのかよ。」


「当たり前でしょ!どんだけ馬鹿なの?!もう本当にここまで馬鹿だとは思わなかった!あのね、どんなにそれになりたくても、なれない人だっているんだよ!ほんの一握りなんだよ!!」


「お前な!」


「…わたしは知ってるんだよ。飛雄が簡単にそれを手に入れたんじゃないってこと。センスも才能も必要、だけど…みんな飛雄が天才だから天才だからって言うけど、飛雄が馬鹿みたいに努力してそこにいることを知ってる!」


「真緒…。」


「何よりバレーが大好きで、直向きにそこにいること、誰よりもわたしは知ってるんだよ!だって側で見てきたもん!だから、日本代表の飛雄は偉いに決まってるじゃん!!」


「……おう。」


「何でわかんないの?!わたしは普通なんだよ!だから、そんな飛雄と釣り合い取れないって言ってんの!それなのに、わたしのこと好きとか本当意味わかんないし!!彼女の方が人気モデルで美人でスタイル良くて…ずっと、飛雄にお似合い、でっ。」


「…口を開けて笑う顔。」


「は?」


「拗ねた時に唇を尖らせるとこ。」


「な、何。」


「お人好しで、世話焼きで、お節介。怒りっぽくて、涙もろい。全然素直じゃねえし。」


「ちょ。」


「本当は色々努力してんのに、人に見せないとこ。」


「ま、待って。」


「何にでも一生懸命で、愛想が良くて、すぐ人と仲良くなって、おれに持ってないもんをいっぱい持ってる。」


「飛雄ってば!」


「おれのことを、ちゃんと、見ててくれるとこ。」


「あの。」


「真緒の好きなとこ。」


「はあっ?!」


「まだある。」


「まだあるの?!も、もういいよ!」


「遠慮すんなよ。」


「やっ、もういいです、本当にやめてください、十分ですから…。」


「くくっ…そういうとこも。ああ、そうだ。あと…。」


「もういいってば!」


「…なあ、あと何個挙げたら、信じてくれんの?」



もうやめてくれ、と言わんばかりに飛雄の口を手で塞いだ。その手を除け、わたしの頬を親指で擦りながら首を傾げて、わたしの胸の内を探るようなその言葉にごくりと生唾を嚥下する。並べ立てられた言葉たちに動悸が激しくなって、胸が痛い。今、絶対顔が赤い。熱すぎる。かあっと一気に熱を持ち始めた頬を掴まれているから、顔が赤いことなんて飛雄にバレバレだと思うと、余計に恥ずかしくて、熱が増していく


初めて聞いたし、そんなこと。


わたしの好きなところだと言って、挙げられた言葉の数々。しかも、まだあるとか言う。飛雄がわたしのことをそんな風に思っていたなんて全然知らなくて、頭が上手く事の処理ができない。何と、返していいのかわからない。混乱する頭の中で、一つだけ、ちゃんと聞かないとと思っていたことがポッと浮かぶ。わたしが素直になれない、劣等感の原因



「……何個挙げたって、わたしを好きだって言ったって、飛雄には彼女がいるじゃん。」


「真緒の言ってる彼女って芹香さんのことだろ。」


「他に誰がいるのさ。」


「芹香さんは彼女なんかじゃねえって。」


「……は?」


「あの人は姉貴がヘアメイクを担当しているモデル。」


「いや、でも、この間腕組んで歩いてたし、週刊誌の記事だって、テレビでの話だって。飛雄が彼女の家に忘れたっていうタオルも渡してたじゃん。そ、それに、相性良いとか…そうだ、だって、キス、してたしょ…?」



あの時のことを思い出して、まだ、ちくりと痛い胸。腕を組んで歩いて、週刊誌の記事の内容だって、テレビで幸せそうにはにかんだ顔、それに給湯室で言われた言葉たち。何よりも、あの時、医務室で二人はキスをしていたはずで。それなのに、彼女じゃないってどういうことなのか訳がわからずに脳内パニック

目に見えてパニックになっているわたしを見て、ガリガリと頭を掻きながら「あー…」と言いにくそうに目を逸らす飛雄。その顔に、やっぱり何かあるのではないかと勘繰ってしまい、余計に訳がわからなくなった。どういうことなのか、詰め寄るわたしに観念したように、唇を尖らせながらぽつりぽつりと白状し始める飛雄



「姉貴に許可取ってるし、順を追って話す。」


「美羽さん…あ、病院で電話してたのって、それ?」


「そ。家出て、姉貴のとこにしばらく厄介になってたんだよ。」


「え、そうなの?」


「ああ。今はチームの寮にいるけど。」


「わたし、てっきり彼女…芹香さんのところにいるもんだと思ってた。」


「どんな思い違いだよ。」


「だって。」


「あー、あれだろ、週刊誌の記事、な。出所はわかんねえけど、変なところ写真撮られてたな。」


「変なところ?」


「姉貴が芹香さんから相談されてたんだよ。最近変な男に付け狙われてるって。それで、用心棒代わりにあの日当てがわれただけで、何もねえよ。大体二人きりでなんて会ってねえし。あの写真だって、芹香さんのマネージャーと姉貴も一緒だったのにな。なのに、何故か変な方向に話が進んでるし、その原因が姉貴だってなったら、色々あんだろ。芹香さんの立場もあるしな。」


「でも電話。」


「ああ、あの人、色々不安定なんだよ。付け狙われてるからとか言ってやたらと電話かけてくるし、この間なんて防犯対策に男物のパンツ欲しいけど一人で買いに行けないから一緒に買いに行ってくれないかとか意味わかんねえこと言うし。真緒だったらおれのパンツだって普通に一人で買いに行けるだろ?」


「そう、ね…うん。」


「まあ、この間の医務室でのは、おれが望んでしたわけじゃねえけど、まあ、油断してた。悪い。」


「いや、別に謝ることではないけど…ていうか、それを言うと、わたしも人のことを言えないから、謝られると心が痛い……。」


「あ、そうだよ。お前、宮さんとどこまでしたんだよ。」


「えー…あー…うん、はは。」


「あ?なんだその反応。真緒こそ白状しろ。」


「ヤッてない!断じてヤッてはいないよ!!」


「ヤッて、は?」


「えーっと…割と、その…際どいとこ、ま、まで。あの、でも、でもね、パンツは死守しました!」


「ふーん?」


「ほ、本当だってば!大体、もう夫婦じゃないし何も問題な、わっ。」



ぴくりと眉を動かし、目を細めて、真実かどうか見極めるようにわたしを見据える飛雄に冷汗が流れる。やばい、と思ったのも束の間、とんっと肩を押されて後ろに倒れていく体。背中を縁側に強かにぶつけて、何、と言う間もなく噛みつくようなキスをされる。押さえつけられた手が飲み干した空き缶に当たって、カラカラと音を立てながら、地面に落ちていった



雪解けの中に。
埋め込まれた地雷を踏み抜く。


(んっ、ちょ。)
(パンツ死守?)
(あっ、ま、待っ。)
(してみろよ。今、出来たら、信じてやる。)
(ひえっ。)


舌なめずりをしながら放たれたきみの言葉に背筋が寒くなって、口も手も押え込まれて抵抗できずに、ギュッと目を瞑る。背中に当たる、ひんやりとした感触に、ハッとした。ここが縁側だったということを思い出して、再度キスをするために近付いてきたきみの顔に頭突きをする。勢い任せにぶつけたせいで、ぶつかった衝撃で自分の脳味噌もぐらぐらと揺れた。力加減出来なかった、と思いながら涙目で見上げた先には青筋を浮かべたきみの顔。その顔にまずいと冷汗を流しながら、「や、ちがっ、あの!」と謝罪を告げる間もなく、いつぞやに歯形をつけられた首筋に噛みつかれて、ピリッとした痛みに喉元でくぐもった悲鳴を上げるわたしを見て、きみが月を背負って至極ご満悦といった顔で笑ってた。

あとがき


ほら、一応、宮さんとはパンツは死守してたんで…。(遠い目)
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