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3人他愛もない話をしながらした食事。相変わらず母は飛雄が大好きで、かなりアグレッシブに飛雄に絡むもんだからドギマギしてしまった。食べ終わった食器をシンクに片付けて、洗い物をしてしまおうとゴム手袋に手を通すわたしを珍しいものでも見るかのように見つめながら、冷蔵庫に背を預け、ビール缶を傾けている母。監視されているような気持ち悪さを感じつつ、その視線を無視してスポンジにつける洗剤。もこもこと泡を立てて、お皿を洗い始めると、ただ黙ってわたしを見ていた母が何かを思い出したかのように「あ」と一音、口から零した



「何。」


「真緒、宮くんにお礼言っておいてね。」


「何で?」


「……この鈍感娘。」


「はあ?」


「宮くんって、良い男よね。」


「見境ないな、あんた。さっきまで飛雄を褒めちぎっていた口で何を言う。」


「あんたって言うな、母親に向かって。真緒ばっかりずるいわ。」


「お母さんにはお父さんがいるでしょ。」


「……うん、まあ、そうね。」


「急にシリアスなトーンで返さないで。」


「真面目な話。」


「何。」


「お母さん、お父さんが轢かれたって聞いて、色々覚悟したの。」


「……そう。」


「本当は今も、震えが止まらない。お父さんがいなくならなくて良かったと思うのと同時にね、いなくなってたらって想像して。」


「お父さんは、生きてるよ。」


「それはわかってるわよ。でも、やっぱり怖いものね。」


「……そうだね。」



いつもハチャメチャで滅茶苦茶な母の弱った姿に何と言っていいかわからず、母が落とす呟きに相槌を打った。イケメンが好きだとか何とか言って、いつも明るい母がなんだかんだ言って実はお父さんをとても好きだということをわたしは知っている。その時の不安は計り知れないものだったろうと安易に想像できて、だから、何とも言えない気持ちになり、返答に困る


そりゃあ、不安だよね。


何十年と当たり前のように一緒にいたパートナーを失うかもしれない、なんて想像は。何十年も一緒にいて、これからも何十年と一緒にいるはずだったパートナーがいなくなるかもしれないなんてわたしも想像したくない。まあ、想像するような相手なんてわたしには今、いないんだけど。そう思いながら、台所からチラリとリビングのソファーに座る後姿を見て、思わず溜め息を一つ。もし、まだわたしと飛雄が夫婦で、お父さんと母みたいな状況になったらどうするんだろう。想像なんてしたくないけれど、やっぱり、居ても立っても居られないんだろうな、とは思う

お皿についた洗剤の泡を丁寧に落としながら、水切りカゴに並べていく。カチャカチャと食器が鳴る音と流水音だけが台所を占拠して、お互いそれ以上何も発さない。最後の一枚を洗い終えて、水切りカゴに入れた時に母が濡れるのも構わずにガシッとわたしを抱き締める。突然の行動にびっくりしながら、その肩が震えていることに気づいて、背中を撫でるために手に付けていたゴム手袋をシンクに放って、いつの間にか随分と小さくなった背中にそっと手を這わせた



「お母さん…大丈夫だよ、お父さんがお母さんを置いていくわけないじゃん。」


「当たり前でしょっ。あの人がお母さんよりも早く死ぬなんて許さないんだから。まだまだ馬車馬のように働いてもらわないといけないし。貯金がないのよ。」


「馬車馬のように使われるのかあ。しかも貯金ないの?それは大変だ。」


「あ、そうだ、今の内に共済保険入っておこう。」


「殺す気か。」


「……真緒、ありがとね。」


「ん。宮さんに、お礼言っておかないとね。」


「勿論、飛雄くんにも。」


「……うん、そうだね。」



やっていることは違うが、二人の優しさに何だか胸がじわりと熱くなって、母の背中を抱き締める手に力が入る

折角のオフに、朝から車を出して、ここまで送ってくれた宮さん。わたしが気づいてあげられなかった母の不安を読み取ってか、ここに残るように気遣ってくれた。母の震える声に、わざわざ帰ってきてくれた飛雄。泊まってまで側にいてくれようとしてくれて。二人の優しさが胸に染みて、それと同時に申し訳なくなる複雑な胸の内。こんな風に優しさをもらうばかりで二人に何も返せていないな。そんなわたしの胸の内を察してか、母が少し体を離して、わたしのおでこにおでこをくっつけ、核心をつく言葉を放つ



「曖昧なままはどっちにも失礼だからね。」


「うっ……はい。」


「ちゃんとしないとどっちも手放すことになるんだよ。」


「あ、はい。」


「お母さんはあんたが幸せならそれでいいから。」


「……うん。」


「あんたが幸せになれる人をちゃんと選びなさい。」


「幸せ…ですか。」


「お母さんはあのぽややんとしたお父さんで幸せだと思っているのよ。」


「ぽややんって。」


「ぼーっとしていることも多いけど、馬鹿みたいに人が良くて。優しすぎて腹立つ時もあるけど、頼りになることもあるし、やっぱりお父さんがいないと寂しいから。」


「親の惚気を聞くのはかなりしんどいんですけども。」


「あんたねえ。まあ…あんたが無理しないで、あんたらしくいられる人を選びなさいね。」


「……ありがと。」


「お母さんはイケメンなら誰でもいいわ。」


「ははっ、ブレないなあ。」



結局基準はそこなのか、と苦笑。「当たり前でしょ」なんて胸を張って言うあたり本気なんだよなあ。ここまでくると感心するレベルだ、と妙な気持ちになってしまった


わたしらしくいられる人、ねえ。


難しい選考基準だな、と溜め息を一つ。そもそもわたしらしくというのが難しいと思うのだけれど、どうなんだろうか。自然体でいられるってことでしょ?思い返してみる、二人と接する時の自分のこと。宮さんはなあ、セクハラばっかりだし。結構無理強いも多いけど、でも、優しいところもあって。話通じない時もあるけど、なんだかんだ言い合いしているのは、楽しいとは、思う。わたしが何を言っても、きちんと受け止めてくれるし。飛雄は…。

うーん、と唸るわたしからスッと離れた体。母が冷蔵庫からキンキンに冷えた缶ビールを二つ取り出して、空いているわたしの両手にセット。顎でしゃくって、視線だけで持っていけと訴えてくる。なんて態度の悪い母親だ、と思いながらもビールは有難く頂いて、それらを両手にソファーに接近。流れているバラエティ番組を大して興味なさそうにぼーっと見ている飛雄に近付いて、背後から差し出す缶ビール



「ん。」


「ああ、さんきゅ。」


「隣、いい?」


「だめ。」


「は?」


「あっち。」


「……うん、いいよ。」


「ん。」



隣に座っていいか訪ねて拒否されたかと思えば、飛雄がスッとソファーから立ち上がって、サイズが合わないお父さんのスウェットのポケットに缶ビールを持つ手とは反対の手を突っ込みながら、縁側がある方を顎でしゃくる。短すぎる言葉でも縁側に行かないかと誘われているとわかって、逡巡の末に頷けば、わたしの返事を聞いた飛雄が小さく返事をして縁側へ向け一歩。歩き出した飛雄の背中を追うように、わたしも縁側の方へと足を向けた

二人並んで庭に面した縁側に腰掛ける。手にした缶ビールのプルタブを捻って、無言で押し付ければ、かつん、とアルミ缶特有の高い音がそこに転がって、中の液体が揺れた。それをそのまま口に持っていき、流し込むアルコール。キンキンに冷えたビールが喉元を通過して、美味しさに思わず漏れるわたしの声に飛雄が小さく笑った



「美味いな。」


「うん。」


「こうして飲むの、何か久しぶりだな。」


「そうだね。」


「……真緒。」


「ん?」


「風呂で話してたこと、だけど。」


「…うん。」


「自信がねえとか足枷とか。」


「うん。」


「お前が不安に思ってることって、何。」


「……。」


「悪い。」


「…何が。」


「宮さんみたいに察しが良ければ、お前にそんな顔させねえんだろうけど。」


「飛雄…?」


「情けねえ話だけど、わかんねえんだよ、おれ。真緒の気持ち。」



ゲリラ豪雨が嘘みたいに晴れた、満月の空を見上げながら溜め息混じりに吐露されていく飛雄の胸の内。どんな顔をしているのか、気になってちらりと横を一瞥。月を見上げていたはずの顔が、いつの間にかこちらを向いていて、思わず跳ねる心臓。寂しそうに、それでいて自嘲を含んだ笑みに、伏せる黒目。瞬きを繰り返した目から、溜め息とともに零れ落ちた塩気を含んだ一滴が缶ビールの中に吸い込まれ、歪みを作っていった。



エスパーじゃないぼくらは。
人の気持ちなど言葉にしてみないとわからないと知りながら。


(真緒。)
(…ん。)
(泣くんじゃねえよ。)
(ん。)
(泣くな。)


アルコールのせいかな。色々不安定なのかも。別に泣こうと思って泣いたわけではなかった。自然と零れた涙に自分でもびっくりしている。まるでメンヘラみたいな不安定さに自分でも呆れた。自然と抱き寄せられる肩。わたしの頭を自分の肩に押し付けて、くしゃりと髪の毛を乱すきみの手のひら。その手の温かさに缶ビールを握る手に、力が籠る。きみが「おれといると、真緒は泣いてばっかだな」と言いながら溜め息を一つ落として、寂しそうに笑う声。言葉にしようにも、何と言ったら良いのかわからない。硬く閉ざした唇を開きかけて、閉じる。この言い表しようのない、気持ちを伝える術がないまま、わたしは手にしている缶ビールを一気に呷った。

あとがき


もっと素直に生きられたらいいのに、言葉にするのはなかなか難しいですよねえ〜。
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