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「あんた方は本当にどうやって入ったら、湯量があんな減るのよ。」


「あー…はは。」


「あ、すんません。」


「お風呂場は滑るから気を付けないとダメよ、飛雄くん。」


「?はい、そうっすね。」


「くそ真面目か…別に返事しなくていいって。揶揄ってるだけなんだから。」


「は?」


「飛雄くんのそういうとこ、本当可愛いわー。」



ていうか、変なこと飛雄に言わないでよね、本当。


親子だからなのか、何となく母が何を言っているのかわかってしまう自分が嫌になる。ただ単に服のまま入ってしまっただけで、別に母が回りくどい言い方をしたようなことがあったわけではないし、言った張本人である母もそういうことがあったわけではないこともわかっているはずだけど、その回りくどい言い方に何を言われているのかわからないといった顔をしながらも、とりあえず注意されたからと律儀に返事をする飛雄に溜め息を一つ。揶揄われているのに気付いていない辺り、こういうことには本当鈍感なんだから、と肩を竦めた



「飛雄くん、ご飯食べていくでしょ?」


「え、あ、いいんすか?」


「当たり前でしょー。もう、何遠慮してるの。」


「ありがとうございます。」


「何なら泊まっていけば?もうこんな時間だし。服、乾くまでまだまだ時間かかるから。」


「え、いや、そんな。」


「ちょっとお母さん!飛雄だって、ご実家に顔出したいだろうし、飛雄のお父さんお母さんだって飛雄に会いたいだろうから無茶言わないでよ。」


「でも、影山さんのお家、明日まで帰ってこないわよ。温泉旅行に行っているもの。」


「え?そうなの??」


「いや、おれも聞いてねえ。急だったから親に連絡入れてねえし…そうなんすか?」


「そうよー。商店街の福引で当たったんですって。だから、ほら遠慮しないで泊まったらいいじゃないの。」


「……真緒。」


「………別に、いいんじゃない。布団はあるし。服も、乾いてないし。」


「ん。」



そんなこと現実でもあるのか、というようなタイミングの悪さだ。それでも、実家に帰れば飛雄が一人になるとわかった上で、このまま帰すのは何だか可哀想で、許可を求めるように呼ばれた名前に、仕方なしといった態度で頷けば、心なしか嬉しそうな顔で小さく頷き返す飛雄


何、その顔。


思わず変な音を立てる胸。見ていられなくて急いで目を逸らす。ちらりと横目で飛雄を見れば、上手くいかねえな、といったような表情でガリガリと後頭部を掻いている。そんなに掻き毟ったらはげるんじゃないの、なんて思っていると、不躾にも飛雄を上から下まで見ていた母が頬に手を当てながら困った顔でぽつりと吐き出す言葉



「それにしても、お父さんの服だと丈が足りてないわね…。」


「七分丈になってるし。」


「なんか、すんません。」


「むしろ、ごめんね?馬鹿娘のせいで飛雄くん濡れちゃって。」


「いや、馬鹿娘って…ていうか、別にわたしのせいじゃないんだけど。不可抗力だよ、ゲリラ豪雨だもの。」


「元はあんたが電話に出ないからでしょうが。飛雄くんに迷惑かけて何やってんのよ。」


「それはこっちの台詞ですけど!娘の別れた夫に電話を掛ける頓珍漢な母親初めて見たよ!」


「はあ?!」


「ちょ、いや、あの、おれは別に…。」


「いいから、あんた少しはご飯の準備手伝ったらどうなの?!」


「今やってるでしょうが!見えないのかな、ご飯よそってるのが!!」


「何を偉そうに!これ持って行ってよね!」


「わかってるって!これ、どこに置けばいいのさ!」


「取りやすいように真ん中らへんに置けばいいじゃないの!」


「……ぷっ。」


「何笑ってんのよ。飛雄、ご飯これぐらいでいい?」


「いや、別に…おう、さんきゅ。」


「ごめんね?飛雄くん。本当態度でかい娘で。」


「うっさいわ!飛雄も笑わないで!!」



むっと唇を突き出しながらも、こんなやり取りは慣れたもんできっちり手伝いをする手を止めずに、なんやかんやと言い合う。大したやり取りではないのに、それを傍で見ていた飛雄が噴き出して、熱くなってしまっていた自分にハッとして急に恥ずかしくなったりして。誤魔化すようにご飯の量を確認すれば、「別に」なんて言いながらも、まだ笑いが収まっていない姿に眉間に皺を寄せながら睨みつければ、「悪い」と言ってわたしの頭を撫でる飛雄


こんな、自然にスキンシップ取る奴、だったっけ。


なんて思いつつもそれを自然に受け入れちゃっている自分にハッとした時には、台所でニヤニヤしながらこちらを見つめる母親の姿に、居た堪れない気持ちが先行して「もう、やめてよ」と言って軽く払う飛雄の手。まずい、と思った時には、見上げた先の飛雄の顔が寂しそうな色を湛えていて、更に居た堪れなくなる。それでも、その姿にかける言葉が見つからずに、「早く座りなよ」と言って台所に逃げ込んだ。逃げ込んだ先には、腰に手を当てて呆れた顔をしている母。何、その顔。ムッとした顔で見遣れば母はやれやれといった顔で「何でもないわよ、馬鹿娘」とだけ言って、リビングに足を向け、一人暗い台所に取り残された



「真緒、後ろ通る。」



びくりと跳ねる肩。つかつかとこちらに歩み寄ってきて、すぐ後ろを素通り。次いで、人の家の冷蔵庫だというのに、自分の家の冷蔵庫かのように自然に開け、中から作り置きされている麦茶を取り出す。勝手に取るんじゃないよ、と思いながらも、まあここには初めて来たわけでもないし、元夫だし、勝手知ったる他人の家状態か、と突っ込むことは止め、丁度目の前にある食器棚からグラスを取ってあげようとして伸ばした手に重なる手

いつの間に背後に移動したのか。わたしの背中にぴったりと密着する飛雄の体。食器棚に伸ばしたわたしの手をすっぽりと包み込んでしまう飛雄の大きな手が、指を絡めるようにキュッとわたしの手を握り込んで思わず、どきり、と胸が高鳴った。手を払おうとして、さっきの飛雄の顔を思い出し、払うことも出来ない。それなら言葉で、と思い、こういうことをされるのも困る、と背後を振り返ろうとして影が濃くなる視界。ゆっくり離れていく飛雄の顔。次いで、視界が一気に明るくなった。こんなとこで何すんの、と言おうとしたわたしに、首を傾げながら唇に人差し指を当て、「シーッ」なんて言いながら悪戯っ子みたいな顔して笑う


何が「シーッ」だ!なんつーことをしてくれんだ、この馬鹿はっ!!


恥ずかしさやら、何やらでドッドッと痛いくらい心臓が速く、それも力強く鼓動を刻んで、心臓発作で死にそう。そんなわたしを他所に、手を重ねたまま食器棚を開けて、グラスを一つ取り、何事もなかったように離れていく飛雄。去り際に「もう飯にするって。そんなとこに逃げてないで早く来い」なんて残すもんだから、翻弄されている自分に余計に腹が立ってしょうがない



「……困る。」



噛み締め過ぎて少しかさつく唇を指先で弄りながら、昔に戻ったみたいな、そんな感覚に溜め息が出る。いや、それ以上だ。あんな風に触れたりするような奴じゃなかった。しかも、あんな風に笑う飛雄なんて、いつ振りか。この感情をどう処理すればよいか、わたしにはわからない


また、傷つくに決まっているのに。


絆されかけている自分に呆れる。これだから無防備だって宮さんに怒られるんだ。その上、浴室で吐露した気持ちは結構な勇気を持って、言ったのに。それなのに、またそうやって。何て安っぽい決意か。勝手にドキドキとしてしまう自分の胸を恨めしく思いながら、力いっぱい目を瞑った。次いで、ふう、と一息吐き出して、空っぽの肺に酸素を注入するように大きく息を吸う。静まれ、と言って押さえた心臓がまた一人でに鼓動を早めて、頬の熱が引いていくのをじっと待った



この心臓は覚えている。
昔から、きみにこうして、ドキドキさせられていたことを。


(何してんの、あんたは!早くしないと冷めるでしょ!!)
(わかってますー!)
(飛雄くんも待ってるんだから!)
(わかってるってば!今行くって!!)
(この怒りんぼは、誰に似たんだか。)


うるさい母に言い返しながら、暗がりから出れば、リビングの照明で目が眩む。鮮明に見えるようになった視界で真っ先に目に入ってしまう、ダイニングテーブルに着いて大人しく座っているきみの姿。その姿に、既視感。ああ、そうだ。わたし、いつもキッチンからこうして見ていたな。きみがわたしの料理を待つ姿を。心なしかそわそわした顔するんだよね。キッチンからカレーの匂いがすると、特に。意外と和食も好きだし、好き嫌いはしないで何でも食べる。「食えりゃあ何でもいい」なんて言うくせに、どんなに不味くても「美味い」って言ってくれる。あれ、これはただ馬鹿舌なだけかも。でも、そんな不器用なきみが堪らなく好きだったな、なんて今更そんなこと思い出しても、どうしようもないのに、つい思い出して、胸がまた変な音を立てた。

あとがき


シーッてやりたかっただけ。そして母娘の会話の雰囲気はわたしと母の会話の日常風景です。
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