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何度も背中を擦る飛雄の手のひら。頭頂部に置かれた飛雄の顎が少し揺れ、次いで、飛び出すくしゃみにびくりと肩を震わせた。頭上から「あ、悪い」と鼻を啜りながら言う飛雄の声にハッとして、目の前にある体を不躾ながらもベタベタと触れば、手から伝わる体温がひんやりとしていてサーッと血の気が引いていく。本末転倒だ、これでは。「だ、大丈夫?!ごめん、わたしのせいでっ。」
「大丈夫だっつーの。くしゃみ一つで何慌ててんだ。」
「いや、でも。」
「そんなに心配か?」
「そりゃあ、日本を代表する体だもの。」
「日本代表、な…。」
「飛雄?」
「よし、風呂に入んぞ。」
「へ?わっ、ちょ、えっ、うわっ?!」
「あ…お前、ちょっと太った?」
「はあ?!降ろして、ば、ぎゃっ!」
「あっ、ぶねえな!ボケ!!暴れんじゃねえよ!ケツに青痣出来ても知らねえからな!!」
「うぐっ。」
お風呂に入ると言って、なぜかスッとわたしの視界から消える飛雄。少し下に目線をずらせば飛雄の頭の天辺が見えて、「何してんの」と声を掛けようとした瞬間にひょいっと宙に浮く体。膝裏と背中から脇腹にかけて差し込まれた手に、いつもよりもずっと近くにある飛雄の顔。何が起こっているのか、状況を理解できないままでいるわたしを見ながら意地悪な笑みを湛えて放たれた「太った」の一言にカチンと頭に血が昇る。自由になっている足をバタつかせて「降ろして」と訴えれば、わたしを支える飛雄の手がツルッと滑ってズルッとずり下がる体。危うく浴室の床にお尻を強打する寸でのところで何とか飛雄がわたしの体を持ち直して、お尻を強打せずに済んだ
飛雄の怒鳴り声が浴室によく響く。勢いの良さに圧倒されて、暴れるのを止め、悔しそうに押し黙るわたしを満足そうに見下ろして、その足で浴槽に近付き、そのまま片足、また反対の足、と浴槽に浸したところでハッとする頭
あれ、わたし今、服を着たままじゃなかろうか…?
止める間もなく、ざぶん、と一気に暖かさに沈む体。勢い良く入ったせいで、顔にまでお湯がかかり、「ぶへっ」と変な声が出た。目に入る水滴が痛い。渋い顔をするわたしを見て、楽しそうに笑う飛雄の声と「もーっ!」と不満を訴えるわたしの声が混ざり合って浴室内に反響する
「ありえなっ!はっ、ありえなっ!!」
「くくっ、真緒ってちょっと馬鹿だよな?」
「飛雄には言われたくないですけどね!それに飛雄に至ってはちょっとどころじゃないけど!?」
「あ?」
「睨んでも怖くないんだからね!大体わたし服着てるっていうのに…!!」
「そんなに気になるなら脱がしてやるけど、今。」
「何言ってんの?!もう入っちゃってるし、結構ですわ!」
「じゃあ、ぎゃあぎゃあ言うなよ。耳元でうるせえし。」
「誰のせいでっ!そもそも順番に入れば良かったでしょ!?」
「その間に風邪引いたらどうすんだよ。」
「心配しなくても飛雄から入ってもらうつもりだったんで。」
「じゃなくて、おれだってお前の体の心配ぐらいするっつーの。」
「は?わたし?」
「真緒だって、体冷えてんだろうが。」
膝裏と脇腹に回っていた飛雄の手が離れていく。狭い湯船の中で縦一列に湯船に沈める体。もう入ってしまったものは仕方ない、と膝を抱えて身を縮こませながら入るわたしの背中に当たる飛雄の体の、何とも言えない硬い感触。湯船のお湯がやたらと熱いと思ったら、わたしの体が冷えていたせいもあったらしい。それにしても、飛雄がわたしの心配をしてくれるなんて。確かに最初にどちらから入るかで揉めた時も、頑なにわたしから入るように促していたな
言葉が足りないのは、相変わらず、か。
わたしも人のことを言えた義理ではないけれど。それでも、言葉で伝えることに関して言えば、飛雄は人一倍不器用だと思う。多くを語らず、全てを自分の内に秘めてしまう、その不器用さに、わたしはいつも迷子になる。どれだけ長く付き合っていても、飛雄の全部をわかってあげられなくて。根が優しい人だということはきちんとわかっている。わたしのことを飛雄なりに気遣って、こうしてくれたのもわかる。わかっているんだ、ちゃんと。それでも、その優しさにわたしは気づいてあげられなくて、それがひどくもどかしくて辛い
飛雄に背を向けていた体を、くるりと反転させて向かい合わせになるように移動する。急に体を反転させたわたしにびっくりしたような顔をして、次いで、また下唇を噛むわたしにグッと眉間に皺を寄せる飛雄
「真緒。」
わたしの名前を呼ぶ飛雄の声。鼓膜に心地良く響くのに、飛雄の優しさに気づけない無神経なわたしの胸がひどく痛い。こういうことが続くと、自信がなくなっていくんだ。わたしはそれをよく知っている。そうして坩堝に嵌って、抜け出せなくなるんだ。あの日も、そうだった。飛雄に愛されている自信がない。飛雄を愛している自信がない。飛雄は振り返らないで進んでいくから。前だけを見て進んで行って欲しいから。そう理解しているのに、願っているのに疲弊していく、心。飛雄についていく自信がなくなって、足を止めたのはわたしなの。だって、わたしには何もないんだもん。飛雄を好きだという気持ちしか持っていなかったから、それを見失ったらわたしには何もなくなっちゃうんだ
ああ、そうか。そういうことか。
飛雄の言葉を信じられず、彼女の存在が気になって仕方ないのは、わたしの心の問題なんだ。だって、彼女が言った通り、彼女は誰もが認める地位も、プロポーションも、顔も、飛雄と釣り合っているから。そんな人ではなく、わたしのことが好きだって、どうやって信じればいいの?わたしには一緒に過ごした時間の長さしかない。そんなもの、これからいくらでも塗り替えられてしまうじゃない。ひどい矛盾だと自分でも思う。そんなことを思うくせに、彼女と飛雄のことで胸を痛くしたりして。卑屈だという自覚はある。臆病だと自覚している。でも、もうあんな思いは、したくない
「飛雄、わたしは。」
「ん。」
「自信がない。」
「自信?」
「怖いの。」
「何が。」
「だから、飛雄の好きに答えられないよ。」
「…わかんねえよ、真緒が何を言いてえのか。」
「わたしと一緒だときっと、飛雄は足を止めちゃうから。わたしが、飛雄の足枷になっちゃうから。」
「そんなことねえって。」
「もう、失望させたくない。」
「……。」
「きっと、いつかまたわたしは言っちゃうと思う。飛雄にバレーとわたしのどっちが大事かを選択させてしまう日が来ると思うんだ。そんなのもう、嫌だから。そうさせるわたしも、バレーを選んでいなくなる飛雄も。」
「真緒…。」
「まだ、気持ちに整理がつかないけど、それでも飛雄と彼女を見ても傷つかない日がきっと来るから。大丈夫だから。ちゃんと応援、できるから。」
「大丈夫じゃねえよ。」
「え?わっ。」
湯船に張ったお湯が熱いから、頭がおかしくなったんだ。熱に浮かさるかのように、言葉が勝手に口から零れ落ちる。それと一緒に頬を伝う涙が波紋を作って、水面を乱していく。脈絡もないわたしの話を聞く飛雄の顔が歪むのは、涙のせいか、それとも。真っ直ぐ飛雄を見つめるのが辛くて、俯いたわたしの腕を掴む飛雄の手。お湯なんかよりもずっと熱いその手が、グイッと腕を引いて、わたしの体を強く抱き寄せた。ぎゅうっと痛いくらい強く抱き締められる腕に、背骨が、軋んだ
「大丈夫じゃねえんだよ。」
「…と、びお?」
「おれが、大丈夫じゃねえんだよ。」
「……。」
「おれが真緒じゃない他の誰かと一緒になって、じゃあ、お前は?お前は宮さんと付き合うのか。」
「わたしは。」
「宮さんと付き合って、結婚すんのかよ。」
「それは。」
「おれは大丈夫じゃねえ。大丈夫なんて、言えねえよ。」
「飛雄…。」
「なあ、本当におれが他の誰かと一緒になっても大丈夫だって、応援してるって言えんのか。」
全然、大丈夫じゃないよ。
吐き出される言葉は静かなのに、まるで悲痛な叫びみたいだった。こんな風に言葉を吐き出す、飛雄をわたしは知らない。背中に爪が食い込むほど、強く抱き締められて、背中じゃなくて、胸が痛くて仕方ない。痛くて痛くて、抱き返したくなる手。問われた言葉に、応えることもできずにお湯を握り込んで封じ込める言葉たち
何度も、大丈夫じゃないって唇を噛み締めた。それでも、自分に言い聞かせようとしたの。催眠術をかけるみたいに、何度も、何度も。飛雄と彼女が並んでいる姿を見て、ああ、お似合いの二人だな、って納得させようとしたよ。それでも、納得なんかできやしない。思い通りにならない。自分の心なのに。全然自由にならない。強がりだってわかっている。それでも強がらないと
「真緒。」
少しだけ緩んだ力に、出来た隙間。覗き込まれる、顔。逸らそうとしたのに、それを阻止するかのように、頬に手を這わせて、困ったように笑いながら飛雄が首を傾げる
「全然大丈夫じゃねえだろ。」
見透かしたような飛雄の言葉。胸がキュッと音を立てる。大丈夫じゃないって言ってもいいのだろうか。飛雄がさっき言ったみたいに、わたしもわたし以外の誰かが飛雄と一緒になるなんて大丈夫じゃないって言っても、失望しない?自分に自信がなくて、飛雄の気持ちに応えることができないのに、そんなこと言っても、いいのだろうか。この気持ちをどう処理して良いかわからなくて、ただ唇を噛み締めながら、眉間に皺を寄せるわたしに飛雄が首の後ろを掻きながら「参ったな」と一言呟いた。
塞き止めた本音を噛み砕く。
そうして、溶けてなくなるのをただ待つの。
(真緒。)
(ん。)
(上がるか。)
(……ん。)
(後で、ちゃんと話をさせてくれ。)
頬を擦る手のひら。吐き出された言葉に、小さく頷く。これ以上、何を話すのかわからずに、ただ頷けば、きみがわたしを手を取り、ギュッと握り込まれて、そのまま湯船から二人抜け出す。二人で入っていたこともあり湯量がだいぶ減って、その代わり、お湯を多分に吸った服が重たくて仕方ない。洗面所に出る前に服を脱がないと。手を離そうとしたのに、握り込まれた手が、離れない。振り返ることなく、先に出ていこうとしたきみを呼び止めようとして、頭を過るあの日のこと。手を握られているのに、きみがどんどん先に行ってしまう錯覚。ひゅうっ、と喉が鳴って、言葉が詰まった。呼び止められずに、ただ足を止めれば振り返る、きみ。「どうした」と言うきみに、手を離してほしいと言えずに、繋がれた手をただ静かに握り締めた。あとがき
わたしなんて、という卑屈から、少しずつ、解けていくといいね。